エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2003年11月
11月2日 【目を覚ましてキリストを待ち望む】 マタイ24:29-51
 キリストが来られる新しい創造の産みの苦しみそのものには、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされる天体異変が起こる。キリストが大能と輝かしい栄光を帯びて、天の雲に乗って来られる時、不信者は悲しみながらキリストを迎える。彼らにとってその日は、恐るべき日であり、キリストは裁き主である。一方、信者にとってその日は、待ち望んだ歓喜の日であり、キリストは万物の贖い主、また、地の全ての王として来られる。彼らは天に引き上げられ、キリストと会い、いつまでも主とともにいることになる。いちじくの木の葉が出ると、実の収穫が始まる夏が近いことがわかるように、世の終わりの様々な前兆を見たら、キリストが戸口まで近づいていることを知るべきである。この天地は滅び去るが、神の御言葉は決して滅びることなく必ず成就する。キリストの再臨は、ちょうどノアの日のようである。人々は洪水が起こるその日まで、神に関心がなく、神のことより飲み食いや結婚など、自分の欲望や現世的関心を優先した生活をしていた。そして、ノアの箱舟に乗った八人以外の人々は、皆神に裁かれ滅びてしまった。見た目は同じような社会生活をしていても、神に属しているか否かによって、永遠に分離される日がやって来る。だから、私たちは神に対して目を覚まし準備していよう。私たちが光の子どもとして目を覚まし、信仰と愛の胸当てと救いの望みのかぶとを身につけ、慎み深く生きるなら、主は盗人のようには来られない。日夜、主の再臨に備え、生きる意味と目的をキリストに置き、信仰に励むことこそ、人生で最も重要なことである。主の再臨への現実感は、その人を具体的な生きた信仰生活へと導く。主人の家のしもべたちを任された忠実な思慮深いしもべは、主人の帰りを待ち望み、食事時にはしもべたちに食事をきちんと与えた。そのように私たちは、主から委ねられている務めを日々忠実に果たし、キリストを待ち望む態度―勤勉、謙遜、愛の奉仕をもって、主を愛し仕えることを求められている。一方、悪いしもべは、“主人はまだまだ帰るまい”という間違った思いを抱き、仲間を打ち叩き、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、突然、思わぬ日の思わぬ時間に主人が帰って来て厳しく罰せられた。主にお会いするのに、まだ時間があるという油断と錯覚、主から託されている務めへの不忠実と怠慢、人々への高慢、世俗的快楽主義―キリストを待ち望まないそれらの態度が、その人を最終的な神の裁きへと導く。
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11月9日 【忠実な思慮深いしもべとは】 マタイ25:1-30
 “忠実な思慮深いしもべ”(マタイ24:45)について、キリストの再臨に備える三つのたとえがマタイ25章に語られている。一番目は、花婿を出迎える十人の娘(賢い娘たちと愚かな娘たち)のたとえである。“思慮深い(ギリシャ語フロニモス)”が、ここでは“賢い”と訳されている。ユダヤの婚礼は、花婿が友たちと一緒に、夕方花嫁の家に花嫁を迎えに行く。そして、花嫁の友たちの明かりで行進し、花婿の家へ行き、一週間の祝宴が催される。ここでの花婿はキリスト、花嫁の友は教会をあらわしている。賢い娘と愚かな娘の違いは、ともしびの油を用意しているか否かであった。“ともしび”はキリスト者としての証しの生活、“油”は聖霊の満たし、神との親しい交わりを象徴している。キリストを待ち望む内面的準備が問われている。愚かな娘たちから学ぶ警告は、聖霊は人から分けてもらったり、借りたりできないことである。神に祈り求め、聖霊は恵みによって神から分け与えられる。また、再臨の時になって準備するのでは、間に合わない。“確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。”Uコリント6:2と言われる今日、主イエスを信じ、御霊の満たされ続ける信仰生活を歩むべきである。ノアの箱舟の戸が、主によって閉ざされたように、決定的な永遠の分離の時が来る。だから、神に対して目を覚まし、油断しないで準備しよう。二番目は、タラント(良い忠実なしもべと悪いなまけ者のしもべ)のたとえである。“忠実な(ギリシャ語ピストス)”には、“信用できる”という意味がある。ここでは、神からの賜物を神のために活用する者と活用しない者との対比が語られている。主人からしもべに預けられたタラント(財産)の差は、それぞれの能力に応じたものであった。そのタラントも能力も、主から与えられた賜物である。タラントの使い方については、具体的な指示が与えられず、それぞれのしもべの裁量に任せられた。二人の良い忠実なしもべは、正しい態度で働き、それぞれの資金を生かして商売をし、良い結果をもたらした。再臨の時までの期間は、託されたものを生かすための時である。私たちキリストの弟子に、与えられている三つの事実がある。一.神からの賜物の委託。2.賜物を神に奉仕するために、管理運用する期間。3.神との精算(決算報告)の時ー賜物を忠実に活用したか否かが問われる。二人の良い忠実なしもべは、神の喜びを喜びとし、忠実な働きによって実を結んだ。二人のしもべは、主人から同じ報いを受けた。神から与えられた自分の分に対して忠実であることが、大切である。忠実な者には、更にたくさんの天国の物が任せられる。私たちの地上での働きは、神の国における全世界の管理という大きな働きのための備え(予行演習・テスト)である。地上で託されている物は、天国の物に比べれば“わずかな物”である。“小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。”ルカ16:10 一方、悪い怠け者のしもべは、間違った神観としもべ観をもち怠慢であった。彼が裁かれた理由は、賜物を活用せず、神の国に対していいかげんな生き方をしたからである。だから、彼は持っている物を取り上げられ、持っている者に彼の分が与えられ、神から永遠に引き離されてしまった。キリストの再臨への忠実な働きによる準備が問われている。
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11月16日 【キリストへの愛の実践】 マタイ25:31-26:13
 “忠実な思慮深いしもべ”について、キリストの再臨に備える三番目のたとえは、来たるべき王の裁き(羊と山羊)のたとえである。キリストが栄光を帯びて王として来られる時、最後の審判と言われる裁きが行なわれる。キリストは、羊と山羊を分けるように、羊をご自分の右の栄誉の座に、山羊をご自分の左に置かれる。右にいる者たちは神に祝福された者たちであり、彼らのために備えられた御国を受け継ぐ。左にいる者たちは呪われた者たちで、悪魔たちのために用意された永遠の火の刑罰に入る。羊と山羊が分けられた決め手は、兄弟たちの最も小さな者たちの一人(キリスト)にした愛の業であった。それは、困っている人を助ける隠された小さな愛の奉仕であり、正しい人たちは自分のした善行に気づいていなかった。彼らは報酬を当てにせず、真心から与える無私の奉仕をした。まことの信仰には、愛の行ないが伴なう。ぶどうの木なるキリストにとどまるなら、良い実を結ぶ。最も小さな者たちを顧みているかどうか。キリストは、人の目には隠された御姿でおられる。サンヘドリン(ユダヤの最高議会)のイエスを殺す策略とユダの裏切りの狭間に、対照的な出来事として、マリヤが大変高価な香油をイエスに注いだ愛の奉仕が記されている。イエスに注がれた香油は、三百デナリ以上(当時の労働者一年分の賃金に相当)するものだった。当時、香油は嫁入り道具の一つであり、彼女の持てる最も高価なささげ物であった。それは常識や報いよりも、愛の心を動機とした行為であった。愛は惜しみなく与える。その美しい愛の香りは否定できず、永遠に残る。イエスはマリヤの愛の行為を、“わたしに対してりっぱなことをしてくれた”と語られた。ユダヤでは、死者に香油を塗る習慣があった。マリヤはこの時限りのキリストに仕える機会を逃さず、自分にできる最善の奉仕をささげ、十字架で死なれるイエスの埋葬の用意をしたのである。私たちもキリストに仕える機会を逃さず、キリストの御からだなる教会に対して、自分にできる最善の奉仕をし、キリストへの愛を実践しよう。
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11月23日 【神の時、過越の祭りに】 マタイ26:14-30
 イエスの十二弟子の一人、イスカリオテ・ユダは、会計係であったが、いつもその中から盗んでいた。金銭を愛する彼の心にサタンが入り、イエスを銀貨三十枚(奴隷一人の代金)で祭司長たちに売り渡した。ユダがイエスを裏切った他の理由として考えられるのは、彼の自我、また、彼の考えるこの世的メシヤ王国とイエスの語る天的メシヤ王国とのギャップなどであろう。イエスは愛をもってユダに悔い改めを促されたが、ユダは最後まで悔い改めなかった。罪の責任はユダにあり、十二弟子でありながらイエスを裏切った彼の罪は重い。神を偽る信仰には、もはや救いはない。神は時間を支配しており、時間には始めがあり終わりがある。イエスが“わたしの時”と言われたのは、ちょうど過越の祭りの小羊がほふられる時に、ご自身が十字架で死なれることであった。実にキリストは、この時のためにこの世に来られたのであった。私たちの人生の焦点も、十字架に合わせなければならない。そこに、神の愛と義、罪からの救いと永遠のいのちがある。過越の祭りは、エジプト(罪)の奴隷生活から贖われ、解放されたことを記念する祭りである。子羊の血によって、エジプトへの第十の災い(初子の死)がイスラエルの家を過ぎ越した。過越の祭りは、世の罪を取り除く神の小羊なるキリストの死によって成就した。過越の祭りの翌日から、種なしパンの祭りが一週間続く。パン種は、発酵したもの、罪と不義、腐敗と堕落の象徴である。私たちが罪を悔い改めて告白するなら、キリストの血は全ての罪から私たちをきよめる。種なしパンの祭りは、罪のないキリストの血がささげられたことによって成就した。この過越の食事の種なしパンとぶどうの実の第三の杯である贖いの杯から、キリストにより聖餐式が始められた。贖いの杯の契約の血は、罪からの救いのために流される新しい契約のキリストの血である。キリストの血により、全き罪の赦しと贖い、新しい神の民の創造と聖別がなされる。新しい契約において、律法は心に書き記される。イエスは、過越の食事の第四の杯である賛美の杯を天国の喜びの祝宴で、と言われた。イエスは、十字架の道を前進しつつも、その先にある栄光の復活と御座、神の国の到来を見ておられた。そして、十字架の直前にも賛美され(メシヤ的詩篇ハレル、詩篇113-118篇)、オリーブ山に祈りに行かれた。
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11月30日 【主イエスと一緒に目を覚まして祈る】 マタイ26:31-56
本当の信仰は、試練の時にその人を内面から支える。たとい、弱さのゆえにつまずくことがあっても、悔い改めと神のあわれみの御手によって、信仰を回復することができる。イエスが捕らえられた時、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。しかし、復活のイエスとの出会いとペンテコステの聖霊のバプテスマ以降、弟子たちは信仰の勇者へと変えられた。イエスは捕えられ裁判を受け十字架につけられる前に、ペテロとヤコブとヨハネを伴なわれてゲッセマネの園で祈られた。ここに祈祷会の意義がある。それは、兄弟が喜びと悲しみを分かち合うこと、そして、神の御心を知り、それを行なう力を神から受けることである。イエスは、悲しみのあまり死ぬ程であられた。それは、十字架の霊的・精神的な苦しみであり、全人類の罪の呪いと裁きの重さ、父なる神との断絶の苦悩を意味した。イエスが苦しみもだえて汗を血のように落とし、父なる神に切に祈られた時、目を覚まして祈っているように言われた弟子たちは、三度とも眠ってしまった。目を覚まして祈るとは、神との交わりの中に生き、聖霊の満たしによって、神の御心を行なう力を頂くことである。実に祈りとは、自分の願いではなく、神の御心が成るように祈ることなのである。自分に死に、神の御心に生きることが、十字架上で実現する。イエスは、祈りの格闘によって天からの力を与えられ、神の時に十字架の死にまでも従われ、霊的な戦いに勝利し贖いを成し遂げられた。キリストは多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、私たちの救い主、大祭司となられたのだ。聖書の預言が成就し、十字架による贖いが成し遂げられるためには、イエスの自覚的な神への従順が必要であった。そのように、聖書の御言葉は、神に信頼し御心に服従する人によって成就する。弟子たちはイエスと一緒に目を覚まして祈ることができなかったので、神に従う力と勝利が与えられなかった。世の終わりに主の道を備え、神の御心を行なうため、主イエスと一緒に目を覚まし御霊によって祈ろう。
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