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| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
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| 2003年9月 |
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| 9月7日 |
【小羊の婚宴への招き】 マタイ22:1-22 |
| イエスは祭司長、民の長老たちへの悔い改めの招きとして、三つ目のたとえを語られた。王(神)が王子(キリスト)のために、結婚の披露宴(神の国)という二度とない宴会を設け、至れり尽くせりの準備をした。そして、招待しておいた客たちを呼びにしもべたち(伝道する者たち)を遣わしたが、彼らは来たがらなかった。再度、しもべたちを遣わしたが、彼らは神への無関心、自分の仕事を優先する、迫害という反応を示した。それは、天(神)のことよりも地上のことを選び、真に大切なことを知ろうとしない姿である。彼らは、その日のことに忙しすぎて永遠のことを忘れ、見えるものに心を奪われて見えないものを見失い、この世の声に耳を傾け神の御声を聞こうとしない。神の救いの招きを拒むことは、神の怒りをもたらし、滅びに至る。そこで王は、大通りに行って出会った者を皆宴会に招くよう、しもべたちに命じた。宴会場は客でいっぱいになったが、王が客を見ようとして入って来ると、婚礼の礼服(王宮に用意されいて、それを着るように支給されたもの)を着ていない人が一人いた。この婚礼の礼服とは、悔い改め信仰によって与えられるキリストの義の衣、救いの衣のことである。この招かれた一人の客は、故意に王から用意されていた礼服を拒んだのだ。それを着ないことは、王への侮辱になるので、彼は神の国から追放されてしまった。多くの罪人が、救いの恵みの招きを受けてはいるが、神の招きに応じ、真に悔い改め、キリストの義の衣を受け取る人は少ない。私たちは日々悔い改めて古い人を脱ぎ捨て、思いを御言葉によって刷新し、主イエス・キリストという新しい人を着て、神の御前に礼拝者として生きることが大切である。罪を告白し、御子イエスの血で洗われた白い衣を着て、また、聖徒たちの正しい行ないである花嫁の光り輝くきよい麻布の衣を与えられ、花婿なるキリストとの婚宴に臨みたい。 |
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| 9月14日 |
【唯一の神、主イエス・キリストを愛して生きる】 マタイ22:23-46 |
| 復活も御使いも霊もないと言っていたモーセ五書のみを認めるサドカイ派の人たちが、イエスに七人の夫をもった女は復活の際には誰の妻なのかと尋ねた。彼らは、聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしたのである。復活の時には、人は結婚も男も女もなく、御使いのようになる。神は、イスラエルの族長アブラハム、イサク、ヤコブの神であり、彼らは神との交わりのうちに今も生きている。神を信じ、神との交わりをもつようになった者たちのいのちを、神は死滅させず、永遠に保たれるのだ。次に、パリサイ派の律法の専門家が、イエスに律法(613の戒め)の中で一番大切な戒めはどれか質問した。それに対しイエスは、“心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。”(申命記6:5)、“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”(レビ19:18)と答えられ、この二つの戒めが、聖書の要約であると言われた。神への愛と隣人愛(特に兄弟愛)は、互いに結ばれている。神への愛や従順は、本来神の似姿として造られた人との関係に表わされてくる。それは、一対一の全人格的な愛の関係である。愛は隣人に害を与えない、他の人を愛する者は律法を完全に守っていると、聖書(ローマ10:8-10)には書かれている。パリサイ派の人たちは神の律法には熱心であったが、人々を軽蔑し、まして愛してはいなかった。もし、この二つの愛の戒めが守られるなら、人類の多くの問題は解決し、世界に平和が訪れるだろう。キリストは、メシヤの称号としてダビデの子(子孫)と呼ばれた。しかし、ダビデはキリストを主と呼び、自分より偉大な者としている。キリストは、人としてはダビデの子孫として来られたが、神の御子であり、ダビデの主、永久の平和の王であられる。そのキリストは、兄弟たちの最も小さな者のうちにもおられる。唯一である父なる神と主イエス・キリストと隣人を愛し、永遠に生きる者とされよう。 |
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| 9月21日 |
【神の言葉を委ねられた者の責任】 マタイ23:1-22 |
| イエスは、宗教指導者である律法学者とパリサイ派(分離主義者、今日も続いている)の人たちに、愛の叱責をされた。彼らは、聖書を教える権威ある立場にあった。彼らが語る正しいことはみな、行ない守らなければならない。けれども、御言葉を実行しない彼らの言行不一致な行ないをまねてはならない。彼らは、聖書を福音(良い知らせ)としては伝えず、多くの言い伝えを付加して運びにくい重い荷としてしまい、自分はそれに指一本助けようとはしない。彼らは、宗教行為を人に見せるために、自己中心や虚栄心からした。キリストは、ただ神の御心のみを求めて従われ、自分からは何事もされなかった。良い行ないは、神が崇められるために、また、人からの栄誉ではなく、“良くやった。良い忠実なしもべだ。”と言われる神を愛して行なわなければならない。私たちがへりくだって主を呼び求めるなら、主は理解を超えた大いなる事を告げてくださり、私たちは神の口から出る一つ一つの言葉によって生きることができる。聖書的リーダーシップは、仕えるリーダーシップであり、愛と謙遜な奉仕の心が大切である。イエスは十字架の死に至るまで、そのように神に従われた。パリサイ派の人たちは本来、天国に入る知識の鍵を持っていたにも関わらず、それを持ち去ってしまい、自分が入らないばかりか、入ろうとしている人々をも妨げていた。天国への道はただ一つ、イエス・キリスト以外に救いはない。しかし、間違った教えや十字架の福音を語らないのならば、人々から天国を閉ざし滅びに至らせてしまう結果となる。神に対して霊の目がはっきりと開かれ、人々を救いに導かなければならない。神を恐れ、言ったことは責任をもって果たし、誠実に生きなければならない。神の御声に聞き従うなら、幸い、祝福、永遠のいのちが臨み、神の御声に聞き従わないなら、災い、呪い、永遠の死が臨む。神の言葉を委ねられた者として、聖霊の力を受け、御言葉を守り行ない、大胆に御言葉を語ろう。 |
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| 9月28日 |
【ラッパの祭り〜主イエスを喜び迎える】 レビ23:23-25/詩篇68:3-4 |
| 第七月の第一日は、全き休みの日、角笛を吹き鳴らす「ラッパの祭り」である。今日では、新年祭と呼ばれることが多い。角笛は神の御声の象徴であり、人々を眠りから覚まし、主こそ天地を支配しておられる神であることを覚えさせる。角笛を吹き鳴らすことには、様々な目的がある〜悔い改めへの召集(ヨエル2章)、神との契約を思い出す(出エジプト19章)、戦いの知らせ:人々を呼び集め、神と共同体への奉仕の働きを呼びかける、神のいのちの息が吹き込まれる、サタンを混乱させる。角笛を吹き鳴らすことの意味は、イスラエルが最終的に約束の地に回復されることと、死者の復活である。また、角笛の音は、喜び、悲しみ、恐れなど、人間の祈りや感情をも表わす。ラッパの祭りから「贖罪の日」までの十日間、ユダヤ人は神と隣人との間の罪を熱心に悔い改め、白い衣(白は罪の赦しの希望を表わす)を着たりする。ラッパの祭りは、いのちの王であられる神の戴冠を祝い、神が王権を確立される日である。新約聖書で始めて語られた奥義として、神のラッパの響きのうちに、キリストが再び雲に乗って来られる時、教会が雲の中に携え上げられる携挙がある。終わりのラッパとともに一瞬のうちに、キリストにある死者はよみがえり、生きている者も朽ちない栄光のからだに変えられる。ラッパの祭りは、キリストの再臨と教会の携挙によって成就する。キリストの再臨を迎えるためには、三つの段階が必要である。一.イエス・キリストを罪からの救い主として信じ、義と認められ、神の子とされる。二.雲に乗って来られる方のために道を備える〜全世界の全ての造られた者に福音を宣べ伝え、教会を建て上げ、キリストの花嫁なる教会を整える(異邦人の完成とイスラエルの国家的救い)。三.喜びと賛美をもって、花婿なる主イエスを迎える。終末の時代には、正しさと不正、聖と汚れが、ますます対極的に分かれる。主の日は、神を恐れない者には、大いなる恐ろしい裁きの日であり、主の御名を恐れる者には、輝かしい喜びの報いの日である。キリストは、イスラエルが“祝福あれ。主の御名によって来られる方に。”と言う時、エルサレムに帰って来られる。私たちは愛する方を、“アーメン。主イエスよ、来てください。”と言い、喜び踊り迎えよう。 |
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