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| エクレシア桜 礼拝メッセージ |
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| 2003年8月 |
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| 8月3日 |
【天の御国に入るには】 マタイ19:16-26 |
| 金持ちの青年役人が、イエスにどんな良いことをしたら永遠のいのちが得られるのか尋ねた。青年は、善行によって救いが得られると思い、聖書以外にも何か良いことがあるのではないかと考えていた。 永遠のいのちの“永遠の”(ギリシャ語:アイオーニス)には、神に属するふさわしいもの、神の特質という意味がある。それは、イエスご自身であり、隣人に対する与える愛の実践である。 救いは、イエス・キリストへの信仰の他にない。 青年は、“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”という戒めを守っていると思っていたが、実は守れていなかった。特に、“父と母を敬え。”という戒めが、指摘されているように思われる。 イエスは、持ち物を売って貧しい人たちに与えよと青年に言われた。青年の心は持ち物に捕らわれており、そこには利己主義の罪があった。キリストのために与えるという真理を忘れていた。しかし、自分の持ち物を他者を助ける手段と考えるなら、その持ち物はその人の栄冠となり、天に宝を積むことになる。 キリストに従うとは、キリストが愛された人々に喜んで仕えることであり、それは、その人の問題を解決し、祝福の道を歩ませる。しかし、この青年は、隣人よりも自分と多くの財産を愛し、悲しんで去って行った。 “らくだが針の穴を通る”とは、全く不可能なことの誇張的比喩である。金持ちは貧しい人のように、救いの必要性を切実に感じることが少ないので、救われるのが困難である。地上に希望を託している人は、天国の存在を忘れがちである。富には、神を忘れさせ財力によって全てが解決されると思い込ませる、富に依存し安住しやすい危険性がある。 信仰は、自分の心の貧しさを痛感し神に頼ることから始まる。当時、ユダヤ人は物質的繁栄を神からの祝福と平安のしるしと考えていたので、弟子たちはそれでは誰が救われるのかと驚いた。それに対しイエスは、それは人にはできないことだが、神にはどんなことでもできると答えられた。 救いは人の力ではなく、神からの恵みの賜物である。 人は自分の救いのために、全く何もすることができない。ただ主を仰ぎ見、主に助けを求めることだ。主と一つとされるのに妨げとなる罪を取り除き、キリストに全てをささげよう。キリストは祭司であられ、いつも私たちのためにとりなされておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになる。 救いは神による新生であり、神は私たちを義の道に導かれる。罪の縄目を断ち切られ、キリストと一つとされることができるのは、神の恵みのわざである。 |
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| 8月10日 |
【キリストのためにする愛の奉仕】 マタイ19:27-20:16 |
| ペテロは“天に宝を積むこと”に答え、イエスに何もかも捨ててイエスに従って来た自分たちは何が頂けるのか打算的期待をもって尋ねた。イエスは功徳的思考を戒めつつも、報いについて語られた。十二使徒には世が改まりイエスが栄光の座に着かれる時、十二の座に着いてイスラエルの十二部族を治めるという報いが与えられる。また、キリストの御名のために、純粋な愛の行為として払った犠牲には、それらをはるかに超える報いが、天においてだけではなく、地においても与えられる。但し、それらの犠牲は、報いのためにするのではなく、ただキリストのためにする愛の奉仕であり、そのこと自体が神の恵みの賜物である。愛の奉仕の動機と目的をキリストに置くことだ。私たちが何に最も価値を置いているかは、私たちが何に最も犠牲を払っているかによって知ることができる。単にキリスト以外のものを切り捨てるのではなく、積極的にキリストのために聖別して役立てていこう。人にはできないことを、神はしてくださる。全てを主に信頼して委ねよう。神は、私たちに聖書的価値観と実行力を与えてくださる。報いは神の恵みの賜物であることを、イエスは気前の良い主人のたとえを通して教えられた。ぶどう園の主人が、日雇い労働市場に労務者を雇いに出かけた。主人の好意によって、早朝、九時、十二時、三時、五時にそれぞれ労務者は雇われ、夕方六時に、監督から賃金を支払われた。一番最初に、五時から雇われて一時間だけ働いた者が、一日分の賃金をもらった。それは、過分な報酬であり、主人の善意であった。早朝から働いた者も、主人との約束どおり一日分の賃金だった。主人は神、監督はキリスト、ぶどう園は教会、労務者はキリスト者である。天の御国では、商業主義的賃金論理は通用しない。五時まで市場にいた人は、生活のために真剣に待っていたのだ。たとえわずかしか働けなくても、教会において働けることは神の恵みである。全ての人に働く権利がある。救われるのに遅すぎることはない。神は人に、その働きに応じてではなく、分不相応に良くしてくださる。しかし、真に良いのは、一日も早くキリストを信じ、全てをささげた生活をすることである。神の報いは、神との縦の関係線であり、人とは比較できない。奉仕の量ではなく、キリストのためにする愛が大切である。神の報いは、神の絶対的主権のもとになされる恩寵であり、贈り物である。永遠のいのちは、イエスの御許に来る全ての者に、先の者にも後の者にも、ただ恵みによって与えられる。自分が先の者であるからと言って、うぬぼれてはいけない。信仰年数やユダヤ人、異邦人、男、女などの違いに関わらず、ただ謙遜にキリストのために愛の奉仕に励むべきである。神の御心に従って歩む者に、神は正しく報いてくださる。 |
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| 8月17日 |
【神の国の仕えるリーダーシップ】 マタイ20:17-34 |
| イエスは再び、十二弟子たちに十字架と復活の予告をされた。イエスの苦しみと贖いは、人間の全ての領域(霊・魂・肉体)に及ぶ。ヤコブとヨハネがイエスの御許へ来て、神の国で最高の位を求めた。神の国の栄冠は、十字架の道の苦き杯なしにはありえない。彼らは何を求めているのかわかっていなかったが、聖なる願望と苦難の杯を飲む覚悟はあった。後に、ヤコブは十二使徒最初の殉教者となり、ヨハネは晩年パトモス島に流刑となり、天寿を全うするまで長い苦しみと従順の道を歩んだ。この世のリーダーシップは、権力ずくで押さえつけ圧制によって支配する。しかし、神の国のリーダーシップの法則は、仕えるリーダーシップである。それは、支配ではなく、謙遜な奉仕によってあらわされる。神と人に仕えるしもべとして役に立つ者となり、正しい方法によって神に喜ばれる生活をしなければならない。それができるのは、神の恵みのわざであり、神はへりくだって仕える者を高く引き上げてくださる。
キリストが来られた目的は、他者への奉仕のためであり、十字架の死は仕えることの完成であった。キリストは、罪の奴隷となっている人を解放し、神のものとするために、ご自分のいのちを与えられた。与える愛を実践され、十字架の死にまでも従われたキリストを、神は高く上げて、全てにまさる名をお与えになった。キリストを模範とし、自らも模範となるリーダーシップが求められている。二人の盲人が、主イエスに触れられいやされた。彼らは群衆の妨害にも屈せず、人生に二度とないチャンスをつかんだのだ。彼らが求めていたのは、単に肉眼のいやしだけではなく神との出会いであり、心の目が見えるようになることであった。それは、主イエスの愛といやしに応え、いやされた後、イエスの弟子として誠実に従って行ったことによってわかる。霊の目が開かれて、神を見ることこそが大切である。 |
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| 8月24日 |
【エルサレムに来られる王イエス】 マタイ21:1-22 |
| イエスは過越の祭りに向けて、ろばの子に乗ってエルサレムに入城された。それは、世の罪を取り除く神の過越の小羊として、へりくだった卑しい御姿で来られたことを意味する。人々はメシヤが来られ、神の国が確立するという期待感から、仮庵の祭りにする行為である、しゅろの枝を取って、「ホサナ(どうぞ救ってくださいという意味、喜びの叫び)。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」(詩篇118:25-26)と叫んだ。しかし、群衆が待望していたのは霊的救いではなく、ローマの支配からの解放であった。それから、イエスは宮きよめをされ、神殿の異邦人の庭で行なわれていた両替やいけにえにささげられる動物の売買をやめさせられた。商人たちはそれによって暴利を得ており、礼拝者には儀式的行為によってのみ神を礼拝する者たちがいた。イエスは、わたしの家は祈りの家であるのに強盗の巣となっていると言われ、霊とまことによってささげられる礼拝を妨げるものを退けられた。イエスは御もとに来た盲人と足なえをいやされた(それは、メシヤのしるしであった)。主の家では、祈りとあわれみの業が大切である。子どもたち(幼子と乳飲み子たち)でさえ、イエスを賛美した。しかし、宗教指導者たちは、腹を立てた。葉だけで実のないいちじくの木が、イエスに呪われて枯れてしまった(いちじくは普通、葉と実が同時にある)。実を結ぶべき時であるのに、実を結んでいなかったからである。それは、一見敬虔そうだが、実質のない死んだ信仰者への警告である。実を結ぶためには、実を結ぶ妨げとなる障害の山を動かす信仰が必要である。神と御言葉に信頼し告白する祈りによって、神の超自然的力が解放され、不可能は可能となる。信じ祈り求めるなら、御言葉の約束が成就し、問題の山は解決され、信仰は現実に働き実を結ぶ者となることができる。たとえ困難な状況があっても、祈りによって神の力を受け、神の御心を行なえる者となろう。 |
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| 8月31日 |
【イエス・キリストの御名の権威によって】 マタイ21:23-46 |
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| イエスが宮に入って教えておられると、祭司長たちが来て何の権威によってこれらのことをしているのかと言った。当時、ユダヤ教に関することは、ユダヤ教の最高議会サンヘドリンの下にあり、彼らの許可なしにすることは違法行為であったのだ。それに対しイエスは、ヨハネのバプテスマは天(神)からか、それとも人からかと尋ねた。ヨハネは、イエスをメシヤと証言していたイエスの先駆者である。祭司長たちは、ヨハネを預言者と認めていた群衆を恐れ、身の安全をはかってわかりませんと答えた。本来、神に仕える者は、どんな危険があっても真実を語る義務があるにも関わらず、彼らは真理に対して無責任な態度をとった。イエスもまた、不真面目な者たちに対して、何の権威によってこれらのことをしているのか話されなかった。イエスは、神の権威によってしているとはすぐにお答えにならず、神の時に十字架にかかり死なれた。当時の宗教指導者たちには、へりくだって悔い改め神の御声を聞こうとか、神に従おうとする思いや態度はなかった。そこでイエスは、二人の息子のたとえをされた。父にぶどう園で働いてくれと言われ、主よ、私が行きますと言って行かなかった兄と、行きたくありませんと言って後から悪かったと思って行った弟という、二種類の不完全の人のたとえである。しかし、本当に良いことは、心と言葉、行ないにおいて、神に従うことである。父の願いどおりにしたのは、弟の方であった。それは、神の国から最も遠いと考えられていた取税人や遊女たち(罪人)をさしており、彼らは後から悪かったと思い、真に悔い改めてイエスを信じ従った人たちである。一方兄は、ユダヤ教の指導者たちをさしており、葉ばかりのいちじくのように、表面的な敬虔さを装いながら、実を結ばない。彼らは神に従うと言いながら、罪の本質は変わらず、かたくなにイエスを信じず、悔い改めず、従わなかった人たちである。彼らに罪を悔い改めさせるため、イエスはもう一つのたとえを話された。ぶどう園の主人と農夫たちのたとえである。ぶどう園の主人(神)は、ぶどう園(神の国)を造り、働きに必要なものは全て準備し、農夫たち(指導者たち)に貸して旅に出かけた。神は、神の仕事を人を信頼して委ねてくださる。収穫の時になって、主人はしもべたちを遣わしたが、農夫たちは次々と迫害し殺してしまった。息子(イエス)だったら敬ってくれるだろうと遣わしたが、やはり農夫たちは殺してしまった。この場合、主人が帰って来たら、その農夫たちを殺してしまい、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちにぶどう園を貸すという結果になる。私たちには神の働きをどのように果たしたのか、神の御前に精算する時がやがて来る。イエスは、神の国を神に故意に敵対する者たちから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられる。神の御名の栄光のために、罪を悔い改め、御言葉によって思いを刷新し、キリストに従って、実を結ぶ者とされよう。神の御名の栄光のために。家を建てる者たちが見捨てた石が、最も重要な礎の石となった。それは、イスラエルから出たイエスのことである。イエスは人手によらずに切り出された石であり、神に敵対する者を粉砕される。祭司長たちは農夫たちが自分たちをさしていることに気づき、イエスを捕えようとしたが、イエスを預言者と認めていた群衆を恐れた。イエス・キリストには、天地における一切の権威が与えられている。イエス・キリストの御名以外に救いはなく、その御名によって、祈りは聞かれ、神の御業が行なわれる。イエス・キリストの御名を大胆に語り、その権威を行使していこう。 |
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