エクレシア桜 礼拝メッセージ
2003年7月
7月6日 【山を動かす信仰〜祈りと断食】 マタイ17:14-27
イエスと弟子たちが高い山から降りて来ると、早速神の力を必要とする人に出会った。悪霊につかれたてんかんの息子の父親が、弟子たちの所に連れて行っても直すことができなかったので、イエスの御許へ来たのである。イエスがおしかりになると、悪霊は出て行き、その息子はいやされた。弟子たちが悪霊を追い出せなかった理由を尋ねると、不信仰のゆえであるとイエスは答えられた。弟子たちの失敗は、彼らを通して働く神の力を信頼していなかった結果であった。力の源であられる神の通り良き管となり、信仰の祈りによって、神の力を解放する務めが、私たちには委ねられている。どんなに小さくてもまことの信仰があれば、神の力を受け、行く手を阻む山を移すような不可能に思えることも成し遂げられる。山を移すとは、ユダヤ人の慣用句で、困難な問題を解決することを意味する。神の御心ならば、どんなことでもできないことはない。ただし、この種のものは、祈りと断食に表わされる、へりくだりと熱心さが必要である。キリストは神の御前に生き、神の使命である贖いをなされた。私たちも神の使命に生き、キリストの御姿にまで達することを目指そう。イエスは神の子であられ、宮の納入金を納める義務がないにも関わらず、つまずきを与えないために、譲歩された。そこには、権利を主張せず、特権を行使しない自由と、他者への愛の配慮に生きる姿がある。イエスは、日常の義務を軽視されなかった。神は、この世の生活の細部まで、めんどうをみてくださるお方である。私たちはキリストに倣い、誰にでも義務を果たし、善を行ない、ただで受けた神の恵みをただで与えるよう、命じられている。“受けるよりも与えるほうが幸いである。”使徒20:35 “与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。”ルカ6:38
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7月13日 【天の御国で一番偉い人】 マタイ18:1-14
 
弟子たちの関心事は、誰が天の御国で一番偉いのかということであった。それに対しイエスは、悔い改めて(心の向きを正反対に変えて)子どものようにならない限り決して天の御国には入れず、子どものように自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人だと言われた。謙遜な人は、神の栄光を願う。へりくだりは兄弟の交わりの鍵である。それとは反対に、高慢な人は自分の誉れを求め、自己中心で肉的である。神の御心は、小さい者(弱い人、助けを必要としている人)のひとりでも見下げず、受け入れて祝福し、愛の奉仕をすることである。主イエスは人々に仕え、いのちを与えるためにこの世に来られた。仕えるとは謙遜とへりくだりの愛の姿であり、それができるのは神の恵みであり特権である。人につまずき(罪を犯させること)を与えてはならない。それは、大きな罪であり重い裁きをもたらす。キリスト者は、自分の言葉と行ないと生活態度に責任をもたなければならない。たといそのものが、自分にとって大切なものであってとしても、神に全き服従をするために妨げになるものであるなら、思い切って捨てなければならない。そのものがあって、神を見失い燃えるゲヘナ(地獄)へ行くよりは、そのものを失っても、神に近づき天国へ入る方が良い。信仰生活には、犠牲と訓練が伴なう。小さな者のひとりひとりには天の御使いが仕えており、神はそのひとりひとりを愛しあわれみ心に留めておられる。羊飼いなるイエスは、九十九匹の羊を置いて、迷える一匹の羊を探しに出かける方である。そして、見つかったなら、九十九匹以上にその一匹を喜ばれる。神は、小さい者の一人を尊厳と価値のあるかけがえのない存在として取り扱われるのだ。神の視点が、聖徒の交わりにも必要である。また、伝道の動機と原動力となる。全ての人を重要視し、失われている人を捜しに行き、救いに導かなければならない。小さい者の一人が滅びることは、神の御心ではないのだから。
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7月20日 【心から兄弟を赦す】 マタイ18:15-35
 
イエスは、兄弟(キリスト者)が罪を犯した場合、どのようにしたらよいのか語られた。第一段階:個人的に一対一で、悔い改めを勧める。第二段階:客観的に事実を確認し、忠告が個人的中傷の類いではないことを相手に悟らせるため、二、三人で悔い改めに導く。第三段階:地域教会として、悔い改めを求める。これら全ては、祈りと交わりの中でなされる愛の奉仕である。神の豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじず、訓戒を受け入れて悔い改めるなら、いのちを得ることになる。悔い改めないなら、未信者のように扱われ、いのちを失うことになるが、もはや望みがないのではない。それは、イエスが罪人の心をも愛をもって勝ち取られる方であるから。神と心を一つにした祈りによって、教会はキリストの権威をこの地で行使することができる。小さい者の一人でも滅びることは父の御心ではないため、神と人との愛の関係が回復するように、二、三人でも集まって心を一つにして祈るなら、その祈りは聞かれる。主のご臨在は、二、三人の集会にも、大きな集会にもある。兄弟を何度まで赦すべきかというペテロの問いかけに対し、イエスは七の七十倍までと答えられた。完全数七の七十倍とは、実質的に「限りなく」の意味である。無限の赦しこそ、真の赦しである。そのたとえとして、イエスは、主人に一万タラント(一日の労賃を仮に一万円として、六千億円)の負債を憐んで赦してもらったしもべが、仲間の百デナリ(百万円、六千億円の六十万分の一)の負債を、主人とは対照的に、憐むことも赦すこともしなかったため、主人に怒られ、獄吏に引き渡された話をされた。一万タラントは、人間一人の罪の負債の大きさを表わしており、それは自分の力では到底償い切れず、神の一方的な憐みによって赦されるしかない。そのために、イエスは十字架において死の代価を支払ってくださったのだ。人間が神に対して犯した罪(御子イエスを十字架につけた)と神の赦しの大きさに比べれば、人間同士がした罪は比べものにならないくらいにわずかなものである。私たちは無限に赦し合わなければならない。人に対して憐みのない者は、神にも憐まれずに裁かれる。人を赦さない者は人を呪っており、神にも赦されず罪に捕われて心が縛られてしまう。神に赦された恵みを大きさを知り、心から兄弟を赦そう。赦しは恵みである。神からして頂いたことを隣人にもすることによって、イエス・キリストの十字架による愛と平和の実現することができる。キリストに倣い従う者とされよう。
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7月27日 【神が結び合わせた家庭の秩序】 マタイ19:1-15
 
イエスはペレヤ地方でも、教えといやしをなされた。人間の苦しみの根本的原因は罪である。イエスはその罪の赦しのために、十字架による贖いをなされた。神への信仰と祈りによって、全てに面における救いと問題解決を受けることができる。幸せな家庭の建設についても然りである。結婚(ヘブル語:キドゥシーン)には、聖別・献身という意味がある。神による結婚制定の奥義は、キリストと教会との関係を表わしている。パリサイ派の人が、イエスに離婚について尋ねた。当時のイスラエルは男性優位であり、どんな些細な理由でも離婚できるという考え方が主流であった。それに対し、イエスは結婚を、初めアダムとエバの創造時神が結び合わせたものとして、人が引き離してはならない、不貞のためでなく妻を離別するものは姦淫を犯すのだと言われた。“それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。”マタイ19:5 夫婦関係は、親子関係に優先する一対一の結合であり、その一心同体性は、もはや二人ではなく一人である。家庭は、三位一体の神の愛の関係を表わす。神の御心は生涯一夫一婦制であり、神は離婚を憎まれる。離婚という悲劇は人間の罪による。また、イエスは独身者について語られた。独身者には、@生まれつき結婚できる条件を備えていない人 A親や主人や他人の都合で結婚を逸してきた人 B天国のために奉仕するために自発的に献身した人がいる。聖書は結婚の祝福とともに、神に仕える上で、独身者の祝福についても語っている。イエスの御許に幼子たちが連れて来られたが、弟子たちは彼らをしかった。しかし、イエスは天の御国はこのような者たちの国だと語り、手を置いて彼らを祝福された。“このような者たち”とは、厚かましさや根性のある者たちのことであり、神に対して熱意をもってあきらめずにすがりつく者たちを、神は喜んでくださるのだ。子どもは主の賜物であり、主にあって戦力となる。イエスが尊ばれている子どもたちに、親と教会は神の祝福を積極的に分け与え、愛と権威をもって神の子どもとして育てる責任がある。
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