| イエスと弟子たちが高い山から降りて来ると、早速神の力を必要とする人に出会った。悪霊につかれたてんかんの息子の父親が、弟子たちの所に連れて行っても直すことができなかったので、イエスの御許へ来たのである。イエスがおしかりになると、悪霊は出て行き、その息子はいやされた。弟子たちが悪霊を追い出せなかった理由を尋ねると、不信仰のゆえであるとイエスは答えられた。弟子たちの失敗は、彼らを通して働く神の力を信頼していなかった結果であった。力の源であられる神の通り良き管となり、信仰の祈りによって、神の力を解放する務めが、私たちには委ねられている。どんなに小さくてもまことの信仰があれば、神の力を受け、行く手を阻む山を移すような不可能に思えることも成し遂げられる。山を移すとは、ユダヤ人の慣用句で、困難な問題を解決することを意味する。神の御心ならば、どんなことでもできないことはない。ただし、この種のものは、祈りと断食に表わされる、へりくだりと熱心さが必要である。キリストは神の御前に生き、神の使命である贖いをなされた。私たちも神の使命に生き、キリストの御姿にまで達することを目指そう。イエスは神の子であられ、宮の納入金を納める義務がないにも関わらず、つまずきを与えないために、譲歩された。そこには、権利を主張せず、特権を行使しない自由と、他者への愛の配慮に生きる姿がある。イエスは、日常の義務を軽視されなかった。神は、この世の生活の細部まで、めんどうをみてくださるお方である。私たちはキリストに倣い、誰にでも義務を果たし、善を行ない、ただで受けた神の恵みをただで与えるよう、命じられている。“受けるよりも与えるほうが幸いである。”使徒20:35 “与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。”ルカ6:38 |