エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
6月1日 【異邦人に与えられた恵み】 マタイ15:21-39
イエスは公生涯でただ一度、異邦人の地ツロとシドン(罪の町)へ立ちのかれた。ユダヤ人の反対が強まっていたので、安らぎを得られるため、また、十字架への準備をされるためだったと思われる。そこで、カナン人(イスラエルの敵)の女の悪霊につかれた娘をいやされた。イエスは最初、この女の願いを無視され、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と断られた。神の救済計画(御国の福音は、まず初めにイスラエルに提供される)によって、イエスと弟子たちの伝道範囲は、イスラエルに絞られていた。それが、イエスの地上での一貫した宣教方針であった。しかし、女は更にイエスの御前にひれ伏し、「主よ。私をお助けください。」と礼拝しつつ祈った。イエスは、「子どもたち(イスラエル人)のパンを取り上げて、子犬(異邦人)に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。イエスは子犬(異邦人)より先に、子どもたち(イスラエル人)を養わなければならなかった。“子犬”とは、野良犬ではなくペットの犬であり、ユダヤ人の間に住む、または、ユダヤ人と関わりをもつ異邦人のことを表わすイエスの愛のある表現であった。女は、「主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と、イエスのイスラエルへの第一義的使命を理解した上で、謙遜と信仰をもってイエスに応えた。イエスは、「あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」と言われ、彼女の娘をいやされた。カナン人の女は、大きな信仰を表わし、豊かな恵みを受けた。彼女の特徴は、御言葉の正しい理解、神への信頼と服従、愛と忍耐、明朗さなどである。それからイエスは、異邦人の地デカポリス地方で多くの病人をいやされ、それを見た群衆は、イスラエルの神を崇めた。その頃、イエスは空腹な群衆をかわいそうに思われた。イエスは魂の救いだけではなく、肉体の必要をも顧みられる方である。神のあわれみは、人間のあらゆる必要を満たす。弟子たちがこのことに否定的だったのは、先のパンの奇蹟から学んでいない心の鈍さと異邦人に対する配慮のなさゆえである。イエスは異邦人にもパンの奇蹟を行なわれ、ご自分がユダヤ人のメシヤだけではなく、異邦人のメシヤでもあることを示された。今回も、七つのパンと少しの魚というわずかなものが、主の御許へささげられ、裂かれ、大きな祝福となった。主の愛とあわれみが、弟子たちを通して多くの悩み苦しみにある人々に及んだ。自分自身というわずかなものを主の御許へ行ってささげるなら、主は大いに祝福され、人々の必要にために、私たちを用いて、ご自身のものを与えてくださる。キリスト者には、他者の幸せのためにキリストを与え、奉仕する使命がある。
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6月8日 【七週の祭り(ペンテコステ)に覚えること】 レビ23:15-21/使徒2:1-4
初穂の祭りから七週間プラス一日の五十日目は、七週の祭りである。ギリシャ語のペンテコステとは、「第五十」の意味である。七週の祭りは、エルサレムで祝う三大祭りの一つであり、小麦の収穫を感謝する収穫の祭りである。ユダヤ教では、出エジプトして五十日目に、シナイ山で律法が神によって語られ、モーセに神の指で書かれた二枚の石の板が授けられた日である。その神の御声は、七十の言語(全世界)に分かれて響いたという伝承がある。その日、レビ人によって、罪を犯した三千人のイスラエル人が殺された。それに対し、新約聖書では、キリストが復活されて五十日目に、聖霊のバプテスマによって教会が誕生し、人々の心に律法が書きつけられた。聖霊に満たされた弟子たちは、他国の言葉で神の大いなる御業を語り、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、及び地の果てにまで、キリストの証人となった。その日、ペテロの説教によって、三千人のユダヤ人が罪を悔い改めキリストを信じて永遠のいのちに与った。七週の祭りにささげられた小麦の初穂は、最初に救われたユダヤ人たちの教会を表わしている。“天に登録されている長子たちの教会”(ヘブル12:23)と記されている。初穂とされたということは、後にユダヤ人だけではなく、異邦人の救いも続くという意味がある。また、七週の祭りにささげられた二つの小麦の種入りパンは、罪人であるユダヤ人と異邦人が新しい第三の共同体である教会に創造され、神に受け入れられたことを表わしている。「七週の祭りは、教会の誕生によって成就した。」 私たちは今日、第三の収穫の祭りである仮庵の祭り(キリストの地上再臨とメシヤ王国の確立によって成就する)の大収穫の時に向かって生かされている。その日には、異邦人の完成とイスラエルの救いがなり、世界の歴史は、霊的大変革によって終結する。私たちの朽ちるからだは、朽ちることのない栄光の御霊のからだに変えられ、永遠にキリストとともにいることになる。主の日を待ち望みつつ、信仰によって生きよう。“私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。”ローマ8:22-23
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6月15日 【生ける神の御子キリスト】 マタイ16:1-20
イエスを試そうとして、天からのしるしを求めて来たパリサイ派とサドカイ派の人たちに対し、イエスは、ヨナのしるしの他にしるしはないとお答えになった。三日間大魚の腹の中にいたヨナのしるしとは、イエス・キリストの十字架と復活を表わす。それは、最大のしるしであり、主イエスの他に救いはない。イエスは、パリサイ派とサドカイ派の人たちのパン種(教え、偽善)に気をつけるよう、弟子たちに言われた。パン種は、通常腐敗と悪影響を表わす悪い意味に用いられる。パリサイ派には、外面的・形式的律法主義、儀式主義のパン種があり、サドカイ派には、ご都合主義的政治運動、世俗的物質主義のパン種があった。そして、教理的には対立する両者共通のパン種とは、イエスをメシヤと認めず、しるしを要求する頑迷さ、イエスに対する敵意であった。異郷の神々とローマ皇帝崇拝の町であるピリポ・カイザリヤ地方において、イエスは弟子たちにご自分は誰であるかと尋ねられた。人々はイエスを預言者の一人だと言っていたが、ペテロは弟子たちを代表し、「あなたは、生ける神の子キリストです。」と言った。神の啓示によって、イエスを神、またメシヤ(救い主)と信じ、告白することができたのである。イエスは、岩なるキリストという土台の上にご自身の教会を建てられるとペテロ(石の意)に言われた。キリストの教会とは、イエス・キリストを信仰告白する者たちの群れであり、私たちは生ける石として、霊の家に築き上げられるよう、命じられている(Tペテロ2:5)。教会には、ハデス(よみ、死)の門(悪魔の力)も打ち勝てない。また、教会には天の御国の鍵(鍵は権威の象徴)が与えられている。それは、キリストの福音を門を開き、キリストの御名の権威を行使する権能が与えられていることを指している。“つなぐ”とは、禁止する、悪魔の働きを縛ることを意味し、“解く”とは、許可する、神の力を解放することを意味している。地上における祈りと宣教の働きには、天の権威が与えられている。この教会に与えられた特権と責任を、キリストとともに神の御前に果たしていこう。
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6月22日 【十字架の道】 マタイ16:21-28
ペテロの信仰告白の時から、イエスはユダヤの宗教指導者たちから多くの苦しみを受け、十字架と復活の道を歩まれることを予告し始められた。しかし、ペテロは自己保身的誤った愛と同情から、イエスをいさめた。ユダヤ人が抱く地上的・政治的メシヤ像と、イエスの受難と贖罪が結びつかなかったのである。それに対しイエスは、「サタン、わたしの後ろに引き下がれ。」と強い拒絶を示された。サタンの働きは、十字架による人類救済の道を妨げる。それは、神のご命令を排し、十字架を避けて通る生き方へと導き、人の欲求を満たさせようとする力である。ペテロの本来の立場は、イエスに従い、その御跡に歩む者であるはずだった。荒野の試みの時、イエスは、「引き下がれ、サタン。」と言われた(マタイ4:10)。しかし、サタンはイエスの従者になることはできない。彼の高慢がそれを許さないからだ。イエスに従う者は、古い自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして、イエスに従う。恥と苦しみと死を意味する十字架刑の宣告を受けた罪人として、古い自分に死に、キリストに従い、キリストと一つとされる。自己中心から神中心へ、利己的自我を否定し、神を肯定する生き方へと導かれる。十字架の道は、古いいのちである自我を取り扱われ続ける一本の道なのである。自己保身的な人は、たとい全世界(地上の命の満足・名利)を手に入れても、まことのいのちを失ってしまう。しかし、自分の命を犠牲にし、キリストのために自分の命をささげる人は、永遠のいのちを得る。キリストの復活のいのちと聖霊来臨の御国の現われに豊かに与ることができ、キリストのご再臨の裁きの時には報われるのだ。
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6月29日 【高き山での主の栄光】 マタイ17:1-13
イエスはペテロとヤコブとヨハネを連れて、高い山に祈りに行かれた。そこでイエスは、栄光の御姿に変わられた。イエスは光なので、輝いていた。イエスには罪(暗いところ)がなく、神の御心だけを行なわれた。イエスとともに、モーセ(律法の代表)とエリヤ(預言者の代表)が現われて、エルサレムにおける十字架について話し合っていた。旧約聖書の代表が、イエスの前進を促し、弟子たちを教えていたのだ。光り輝く雲の中から、神の御声がした。この栄光の雲は、普段目に見えない神が、目に見えるかたちでご臨在をあらわされたものであり、神の御声は、イエスが十字架へ歩まれることに対する承認、また、弟子たちにイエスに従うよう命じるものであった。この高い山での祈りの経験があればこそ、イエスは十字架への道を歩むことができた。この経験は、弟子たちの心に大きな喜びを与え、十字架の先の勝利と栄光を垣間見させた。高い山における神との交わり(祈りと御言葉)の時によって、十字架の道を歩む谷間の生活と伝道に必要な力を頂くことができる。栄光の瞬間は、日ごとの信仰生活を新しい力で満たすためにある。私たちもまた、神と出会う高き山で過ごす時と場所が必要である。そこで、神の栄光の臨在、聖霊と御言葉に満たされ、十字架の道を歩むために。ひれ伏して恐れた弟子たちが、主イエスに触れられ、目を上げて見ると、誰もいなくて、ただイエスお一人だけであった。全てのことにおいて、ただイエスお一人だけが残り、崇められるように。
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