| ユダヤ人の宗教指導者たちがエルサレムからイエスの所へやって来て、食前に手を洗うという口伝律法を守らないイエスの弟子たちのことを責めた。口伝律法とは律法(聖書)についての説明的・付加的律法のことであり、細かい言い伝えの規定である。それらは複雑膨大化し、神の律法と同等かむしろそれ以上に権威あるものとして重んじられていた。食前に手を洗うという規定は、神の律法そのものにはなかった。それに対しイエスは、彼らは口伝律法のために神の戒めを犯していると非難された。“あなたの父と母を敬え。”“父や母をののしる者は、死刑に処せられる。”という戒めを拡大解釈し、神に対する供え物は両親に対する義務に先行するという教えによって、神の律法を実質的に無にしてしまったからである。反対に、イエスは律法と預言者を成就するために来られた。御言葉はただ無条件に服従するという態度をもって聞かなければならず、自分に都合良く解釈してはならない。たとえ、宗教的行為をしていたとしても、神への恐れがなければ、それは信仰の業ではなく、人間的な業にすぎない。信仰とは、自分のしたいことをすることではなく、神の御心に従い、愛とあわれみときよい心をもって、神と人に仕えることである。行動様式以上に、心の動機が問われている。神と神の言葉をどう捕らえるかによって、いのちの道を歩んでいるか破滅の道を歩んでいるかが決定する。人が本当に警戒すべき真の汚れは、食べ物によって外側から入るのではなく、人の内側の心から出て来て言葉となり、人を汚す霊的・倫理的汚れである。形式的儀式によっては、心の汚れはきよめられない。力の限り心を見張り、罪を告白し、キリストの血潮と御言葉と聖霊によって心の内側をきよめて頂こう。“神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。”Tヨハネ1:7,
9 “真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。”
ヨハネ17:17 “神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。”
テトス3:5 |