エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2003年5月
5月4日 【天の御国の国民として生きる】 マタイ13:44-58
イエスは、畑に隠された宝と良い真珠を捜している商人のたとえを話された。当時、地中に貴重品を蓄えることは、最も安全な方法であった。畑は教会、聖書、或いは、この世界、仕事を表わしている。隠された宝は偶然地上ではなく、地中に発見された。一方、素晴らしい値打ちの真珠は、捜し求めて見つけられた。それは、真理の探求者を表わしている。両方に共通していることは、発見者が心から湧き出す大きな喜びをもって、全てを犠牲にし、そのかけがえのないものを手に入れていることである。天の御国は、あらゆる犠牲を払う貴重な価値がある。神の御心を受け入れて行ない、自分の十字架を負ってイエスに従うこと、そのことこそが宝であり、美しい真珠のような生き方である。神への犠牲のあるところに真の信仰がある。私たちは何に心を使い、時間や財を費やしているのか。また、宝を見つけた人と真珠商人を、神の民を買い戻すためにいのちを犠牲されたキリストと解釈することもできる。その場合、食物規定で汚れたものとされている貝から取れる真珠は、異邦人を表わしている。天国の門は真珠でできている。異邦人を通しても伝道の働きは豊かになされている。地引き網のたとえの地引き網は、あらゆる者を招く神の国の福音宣教の網である。教会には様々な人がいる。神の民とそうでない者のしばらくの共存と、世の終わりの分離について語られている。何が良くて何が悪いのかが、神の審判の時に明らかにされる。その日に備えて不義を離れなければならない。イエス・キリスト(救い、義)の衣、悔い改めてキリストの血潮で洗われた白い衣、キリストの花嫁が着る光り輝くきよい麻布の衣(聖徒たちの正しい行ない)を着て、花婿なる主イエスに見(まみ)えよう。次に、倉から取り出す主人のたとえが語られている。イエスの弟子は、学ぶ程度に応じて御国の知識が増し加えられ、全てのことを見通すことのできる本当の学者とされる。聖書全体の教えに啓示の光が与えられ、それを全生活に生かし、人生の勝利者となることができる。イエスの郷里(ナザレ)の人々は、イエスを軽蔑し不信仰であったため、そこではイエスの働きが制限されてしまった。神に対する愛と信仰が、神の愛と力を解き放つ。神とその御言葉を敬い、真剣に聞き従わなければならない。“耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。”
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5月11日 【キリストを分け与える祝福】 マタイ14:1−12
バプテスマのヨハネは、国主ヘロデが理由なしに妻を離縁し義理の姉妹と結婚したことを不法だと言ったため、牢に入れられた。ヘロデの妻ヘロデヤは復讐心から自分の娘を利用し、ヨハネを殺させた。ヘロデは神への恐れ、良心の声、道徳の要求よりも、人を恐れ、自分の面子を重んじる人物だった。ヘロデはその後、謀反の罪で流刑になった。神を恐れるか人を恐れるかによって、人生は決まる。神は必ず悔い改めて従う者に、祝福と勝利を与えてくださる。五千人のパンの奇蹟は、四福音書に記録されている重要な出来事である。天からの下って来られた神のパンであられるイエスによって、人々は永遠のいのちを与えられる。その奇蹟は、後に教会の牧者となる弟子たちへの訓練でもあった。その召命を全うする力は彼ら自身にはなく、全てを大牧者なるキリストから与えられなければならない。男だけで五千人を養うのに用いられたのは、少年が持っていた(安い)大麦のパン五つと小さな魚二匹だった。群衆を養うにはあまりにも少ないものが、主にささげられ祝福されると、イエスの御手によって増し加えられるという奇蹟が起こる。弟子たちは神の協力者として、主から与えられたものを分かち与えるために必要とされている。神が私たちに与えようとしておられるのは、イエス・キリストにある霊的祝福であり、また、物質的祝福である。祝福とは、分け与えることから始まる。神の御手で裂かれれば裂かれる程、祝福は増し加えられていく。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一つのままだが、もし死ねば豊かな実を結ぶ。キリストとともに十字架で古い自分に死に、葬られ、復活し、新しいキリストのいのちに生きるのだ。イエスは、余ったパン切れを一つもむだに捨てずに集めるように命じ、12かごいっぱいになった。神の恵みを何一つむだにせず、用いなければならない。
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5月18日 【来なさい】 マタイ14:22-36
パンの奇蹟を見た群衆は、熱狂的になってイエスを王に祭り上げようとした。誤った政治運動を避けるため、イエスは弟子たちを強いて船に乗り込ませ、群衆を帰された後、一人で山に登り祈られた。人気を博することは、高ぶりの罪の危険がある。群衆はパンの奇蹟の真の意味を悟らなかった。イエスは政治的救い主ではなく、罪からの霊的救い主であり、神の国は地上的なものではなく、天的王国である。一方弟子たちは、ガリラヤ湖の風と波に、夕方から夜中の三時頃まで悩まされていた。そこへイエスが湖の上を歩いて来られた。人間力の限界にある時が、神の力を体験する最も良い機会となる。主は私たちの叫びを聞かれ、最も良い時と方法をもって助けてくださる。ペテロは単純な愛と信仰によって、イエスの「来なさい。」といわれる声に応じ、イエスを見ている間は水の上を歩くことができた。信仰とはイエスを見続けていることであり、そこに勝利と平安があり、超自然的な奇蹟の生活をすることができる。イエスから見をそらし、波を見て恐れたペテロは水の中に沈みかけ、「主よ。助けてください。」と叫んだ。イエスはすぐに救いの手を差し伸ばされ、二人が船に乗ると風はやんだ。苦難の日には主を呼び求め、倒れてもまた起き上がることだ。人生という船にイエスが入ってくだされば、嵐は静められる。人生の諸問題は、十字架の贖いによって解決する。どんな時にも、イエスから目を離さずに従って行かなければならない。キリストに従う信仰生活は、自分を捨て、自分の十字架を負うという代価と苦しみを伴なう祝福の道である。イエスはゲネサレの地に着かれ、人々が信仰と期待をもってやって来た。病人は皆、イエスの着物の飾りふさ(権威、翼を意味する)に触れていやされた。主はご自分のもとに来る者に、愛の行ないをもって応えてくださるあわれみ深い方である。困った時にだけ神を求め、感謝や従順がないことは罪である。キリスト者は愛と恵みの特権を受けるだけではなく、主を愛し喜びをもってその義務と責任を果たさなければならない。
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5月25日 【心から神を敬う】 マタイ15:1-20
ユダヤ人の宗教指導者たちがエルサレムからイエスの所へやって来て、食前に手を洗うという口伝律法を守らないイエスの弟子たちのことを責めた。口伝律法とは律法(聖書)についての説明的・付加的律法のことであり、細かい言い伝えの規定である。それらは複雑膨大化し、神の律法と同等かむしろそれ以上に権威あるものとして重んじられていた。食前に手を洗うという規定は、神の律法そのものにはなかった。それに対しイエスは、彼らは口伝律法のために神の戒めを犯していると非難された。“あなたの父と母を敬え。”“父や母をののしる者は、死刑に処せられる。”という戒めを拡大解釈し、神に対する供え物は両親に対する義務に先行するという教えによって、神の律法を実質的に無にしてしまったからである。反対に、イエスは律法と預言者を成就するために来られた。御言葉はただ無条件に服従するという態度をもって聞かなければならず、自分に都合良く解釈してはならない。たとえ、宗教的行為をしていたとしても、神への恐れがなければ、それは信仰の業ではなく、人間的な業にすぎない。信仰とは、自分のしたいことをすることではなく、神の御心に従い、愛とあわれみときよい心をもって、神と人に仕えることである。行動様式以上に、心の動機が問われている。神と神の言葉をどう捕らえるかによって、いのちの道を歩んでいるか破滅の道を歩んでいるかが決定する。人が本当に警戒すべき真の汚れは、食べ物によって外側から入るのではなく、人の内側の心から出て来て言葉となり、人を汚す霊的・倫理的汚れである。形式的儀式によっては、心の汚れはきよめられない。力の限り心を見張り、罪を告白し、キリストの血潮と御言葉と聖霊によって心の内側をきよめて頂こう。“神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。”Tヨハネ1:7, 9 “真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。” ヨハネ17:17 “神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。” テトス3:5
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