エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2003年4月
4月6日 【福音の真髄(聖別)】 Uコリント5:21    Y.K.
聖別とは何か。旧約聖書において、モーセによってエジプトでの奴隷生活から救い出されたイスラエルの民は、神に命じられ幕屋を作った。そこでは、特別に選ばれたレビ人から祭司が任命され、幕屋での働きをした。身を清め、心を清め、器具も清められて使用された。聖別とは、単にきれいにされたものというのではなく、神のために用いられることを意味している。私たちクリスチャンは聖別された者である。それは神に用いられるためである。神は私たちを用いようと選び出された。御心に従って仕えることができることは幸いである。昔は幕屋での祈りを通して人々はその時その時贖いを得たが、今や私たちはキリスト・イエスにあって完全な赦しと救いを得ているのである。イエス様の十字架こそが、福音の真髄である。イエス様は十字架上で私たちにまとわりつく悪しきものを受け取ってくださり、代わりに大いなる恵みをくださった。
1.イエス様は私たちの罪を取ってくださり、代わりに完全な赦しを与えてくださった。
2.イエス様は私たちの病と痛みを取ってくださり、代わりにいやしと健康をくださった。
3.イエス様は私たちの罪を取ってくださり、代わりにイエス様の義を与えてくださった。
4.イエス様は私たちの死を取り、代わりにイエス様のいのちをくださった。
5.イエス様は私たちの貧しさを取ってくださり、代わりにイエス様の豊かさを与えてくださった。
6.イエス様は私たちの恥を取り、代わりにイエス様の栄光を受けさせてくださった。
7.イエス様は神の私たちへの拒絶を取ってくださり、代わりに神の家族に入れてくださった。
8.イエス様は私たちへの呪いを取ってくださり、代わりに祝福をくださった。
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4月13日 【良い地に蒔かれた種とされる】 マタイ13:1‐23
イエスは多くのことをたとえを用いて語られた。たとえとは、神の真理を日常の事柄を例として具体的に示し、聞く者が判断してその真意を理解できるようにする比喩的表現である。たとえで話をされた理由は、天国を知りたいという求道心をもって聞く人は、ますます知識を豊かにされるが、天国に無関心な人は、聞いても悟らず、ますます真理から遠ざけられ、しまいには降り落とされてしまうためである。天の奥義(旧約では隠されていたが、今はキリストとの正しい関係にある者にだけ啓示される真理)を知ることは、勤勉と忠実によってより多くを得るか、怠慢によってより多くを失うかである。イエスは種蒔きの土壌のたとえを語られた。それは、御国の言葉を聞く人たちの四つの型である。一.“道ばた”−踏み固められたかたくなな人の心。高慢、新しい真理に対する恐れ。このような心をもつ人は、御言葉を聞いても受けつけない。二.“岩地”−岩地は太陽熱で暖まるため種はすぐに芽を出すが、根がないためすぐに枯れてしまう。それは、浅はかに感情的に御言葉を受け入れる人の心を表わし、その下には岩(かたくなな心、罪)が隠されている。深さがないので瞬間的には燃えるが、試練が来るとすぐに消えてしまう。信仰は恵みと特権だけではなく、責任と義務をも課すものである。三.“いばら”−見かけはきれいになっているが、いばらの根が残っている土地のことで、やがていばらの方が早く強くそこに生えておおってしまい、良い種から生えたものは育つことができず枯れてしまう。いばらは実にしぶとい雑草であり、罪はいばらようなものである。イエスはいばらを“この世の心づかいと富の惑わし”であると説き明かされている。それは、地位・名誉・成功・金銭などの欲望や快楽のことであり、神以外の多くのことに心が奪われている人の状態である。神を第一にして神に仕えることだ。金銭を愛して富に仕えてはならない。四.“良い地”−種が容易に育ち、豊かに実ることができる、良く準備され、耕かされた人の心。その人は全存在に御言葉が染み渡り、神への服従によって豊かに実を結ばせ祝福される。同じ御言葉であっても、聞く人の心の状態によって結果が全く違ってくる。人はどう御言葉を聞くかに注意し、その心を耕さなければならない。心の荒地を開墾し、土壌の体質改善によって良い地にするためには、御言葉(Uテモテ3:15−17)と聖霊の働き(Uコリント3:17−18)以外に方法ははない。陶器師なる神の御手に自らを委ね造り替えて頂こう。
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4月20日 【過越の祭り初穂の祭り〜イエス・キリストの十字架の死と復活】 
レビ23:5−14
イエス・キリストの十字架の死と復活は、ちょうど聖書に記されており、春の祭りとして毎年祝われている過越の祭りと初穂の祭りに起こった出来事だった。過越の祭りと初穂の祭りの成就が、キリストの十字架の死と復活なのだ。過越の祭りは、第一の月(ニサン)の月の14日に祝われ、15日から7日間続く種を入れないパンの祭りと一つであり、ユダヤ人は8日間の過越の祭りという。エジプトへの第十の災いである初子の死が、イスラエルの民の家を過ぎ越し、エジプトの奴隷生活から贖われたことを記念する祭りである。バプテスマのヨハネはイエスを“見よ。世の罪を取り除く神の小羊”と紹介した。当時、神の小羊とはエルサレム神殿で過越の祭りにほふられる小羊のことを意味した。14日の夜に小羊がほふられ、過越の食事をする。この時、種を入れないパン(パン種は罪を象徴している)を食べ、ぶどうの杯(第三の杯は贖いの杯)を飲む。これが、今日諸教会で行なわれている聖餐式の原型である。神殿用の小羊は15日の朝9時に屠られ、イエスはその日その時に十字架につけられた。過越の小羊はしみも傷もなく、その骨を折ってはならなかった。イエスは罪も汚れもなく、骨を折られなかった。過越の祭りはエジプトの奴隷からの肉体的解放を覚えるものだが、罪汚れのない過越の小羊キリストの尊い血によって、更に罪からの霊的解放を覚えるものとなった。「過越の祭りは、キリストの死によって成就した。」 種を入れないパンの祭りは、15日から7日間祝われ、この期間は種の入らないパンを食べる。イスラエルの民はエジプトを脱出する時、パン種を入れて食事の準備をする間もなかった。また、パン種は罪と不義の象徴である。人間の罪を贖い、赦し、きよめ、義としてくださるために、キリストは尊い血を流してくださった。この祭りの期間、種を入れないパンを食べることは、神の義に与ることを表わしている。パウロは“パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。”と語った。パン種ー古い罪の性質とは、高慢、悪意と不正、不品行、貪欲、偶像礼拝などであり、罪を告白することによって、取り除くことができる。神はキリストの十字架の贖いのゆえに、その罪を赦し、御子イエスの血は全ての罪から私たちをきよめ、神との交わりを回復してくださる。「種を入れないパンの祭りは、罪のないキリストの血がささげられたことによって成就した。」 初穂の祭りは、過越の祭りの次の安息日の翌日(日曜日)に祝われる。春の収穫の始まりであり、大麦の初穂の束をささげ来たるべき収穫を感謝する。キリストは死者の中からよみがえられた復活の初穂であられる。初穂という言葉の意味は、常に初穂であるという意味と同時に、その後に同じ種類のものが続くという意味をもつ。キリストは復活の初穂であられ、キリストを信じる者たちは続いて復活する収穫である。「初穂の祭りは、イエス・キリストの復活によって成就した。」
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4月27日 【畑に良い種を蒔く】 マタイ13:24-43
イエスは世界という畑に福音の良い種を蒔かれ、麦のように御国の子どもたちが生まれて成長する。しかし、世界には悪魔が来て毒麦を蒔き、悪い者の子どもたちもまた成長している。毒麦は初め麦と区別しにくいが、穂が出ると麦の穂よりひげが長く色も黒くなり見分けがつきやすくなる、偽りの麦である。それは、イエス到来によってもたらされた光と天国を拒み、闇と地獄を選んだ者たちことである。麦と毒麦は初め似ており、根がからみ合っているため、間違えて麦を抜き取らないために、毒麦は放置されてままにされている。しかし、世の終わりの収穫の時には、麦と毒麦はより分けられ、天国と地獄に分離される。裁きは終末に神によってなされることなので、キリスト者の役割ではない。神の義は最終的に勝利し、主にあって正しい者たちは必ず報いられる。だから、福音の種を蒔き続け、成長していく必要がある。天の御国はからし種のようなものである。からし種は最も小さいものを形容するユダヤ的表現である。からし種の木は最長4mにもなり、鳥が巣を作る程の大きさになる。一年中花と実をつけ、水辺でも岩間でも場所を選ばず成長する。それは、天の御国の拡大する生命力、この世における外的成長、強力な影響力を表わしている。天の御国(教会)は初め非常に小さいが、世界大の拡がりをもち、ユダヤ人も異邦人もともに望みを託する包容力豊かなものとなる。木は種の中に包含されていたものが成長するように、キリストのからだである教会は、キリストの中に包含されていたものが大きく拡がったものである。また、天の御国はパン種のようなものである。パン種はその存在すらわからないが、やがてパン全体に浸透して柔らかくし、弾力性をもたせ拡張させる変革力をもつ。それは、世界全体に浸透し、内的に変革させていく御国の生命力と影響力を表わす。福音は拡がり、福音とともに御霊が働かれる。からし種とパン種のたとえの共通点は、初めは人の目にとまらない程小さいものであるが、驚くべき生命力を宿している点である。主が示された天の御国の青写真をよく知る必要がある。それは、必ずそうなること、確実に起こることの預言である。神の働きは一人の人、小人数のキリスト者から始まり、神の国が拡大していく。
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