| イエスは弟子たちに、たとえ迫害や困難があっても、恐れずに語るように命じられた。人々は家長であられるキリストをベルゼベル(悪霊のかしら)と呼んだくらいなので、その家族の弟子たちも当然悪く言われる。しかし、真理は必ず明らかにされ勝利する。弟子は、キリストから聞いたことを公然と語る。“人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる。”(箴言29:25) 背信は、死よりも恐ろしいものだ。神を悲しませ、主の臨在を失なうことこそを恐れよう。私たちはいつも神に愛され、配慮されている存在なのだ。神が私たちの味方であられる。地上でキリストへの忠誠を告白する者は、天上の父なる神の御前で、キリストが認めてくださる。キリスト者であることや福音を語らず、黙っていてはならない。どんなに迫害されても、キリストへの信仰を公に言い表わそう。キリストを主とするはっきりとした心の態度をもつなら、その信仰は自ずと言動に表わされる。信仰のために苦しみを受けるなら、キリストとの交わりをいっそう深く体験し、キリストのいのちと栄光に与ることができる。伝道は、時に対立や反発、肉親の敵意さえも招く。平和の君イエスが来られたことによる、激しい敵対が起こるのだ。それは、イエス・キリストと神の御心を、受け入れるか退けるかの選択である。イエスの平和は、剣を通して再編成される平和である。そして、キリストの愛は、敵対する者をも捕らえる愛である。アブラハムがイサクをささげたように、愛するもの(自分自身や家族など)全てを神にささげることだ。そうすれば、再び神の御手から完全に得ることができる。キリストと福音のために何かを捨てた者は、迫害の中で百倍を受け、永遠のいのちを受ける。肉親への愛に勝って、キリストへの愛を第一にして従うのでなければ、キリストにふさわしくない。自分に死に、死に至るまで忠実に、キリストに絶対服従するのだ。自己中心的な自己実現を追求する者は、真の神の国のいのちに与れない。キリストへの忠誠のために自分に死ぬ者は、真のいのちを得る。これは信仰の奥義、原則である。“自分の十字架を負って”の“十字架”とは、キリストのために受ける恥、苦しみ、犠牲、死を意味する。キリスト者は、自分のために生きる人生ではなく、神と人に仕える人生を歩む。ユダヤ人にとって、使者を受け入れることは、その主人を受け入れることだった。遣わされる弟子と遣わすキリストは、一体である。ここに大きな責任と特権がある。福音を宣べ伝えるキリストの弟子であるがゆえに、その弟子を受け入れる(ふさわしくもてなす)者には、たとい冷たい水一杯という、わずかなもてなしであっても、報いに漏れることはない。それは、キリストのために、苦難の中にある働き人を支える同労者となることだからである。 |