エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2003年3月
3月2日 【神を恐れ、キリストを証しする】 マタイ10:24-11:1
イエスは弟子たちに、たとえ迫害や困難があっても、恐れずに語るように命じられた。人々は家長であられるキリストをベルゼベル(悪霊のかしら)と呼んだくらいなので、その家族の弟子たちも当然悪く言われる。しかし、真理は必ず明らかにされ勝利する。弟子は、キリストから聞いたことを公然と語る。“人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる。”(箴言29:25) 背信は、死よりも恐ろしいものだ。神を悲しませ、主の臨在を失なうことこそを恐れよう。私たちはいつも神に愛され、配慮されている存在なのだ。神が私たちの味方であられる。地上でキリストへの忠誠を告白する者は、天上の父なる神の御前で、キリストが認めてくださる。キリスト者であることや福音を語らず、黙っていてはならない。どんなに迫害されても、キリストへの信仰を公に言い表わそう。キリストを主とするはっきりとした心の態度をもつなら、その信仰は自ずと言動に表わされる。信仰のために苦しみを受けるなら、キリストとの交わりをいっそう深く体験し、キリストのいのちと栄光に与ることができる。伝道は、時に対立や反発、肉親の敵意さえも招く。平和の君イエスが来られたことによる、激しい敵対が起こるのだ。それは、イエス・キリストと神の御心を、受け入れるか退けるかの選択である。イエスの平和は、剣を通して再編成される平和である。そして、キリストの愛は、敵対する者をも捕らえる愛である。アブラハムがイサクをささげたように、愛するもの(自分自身や家族など)全てを神にささげることだ。そうすれば、再び神の御手から完全に得ることができる。キリストと福音のために何かを捨てた者は、迫害の中で百倍を受け、永遠のいのちを受ける。肉親への愛に勝って、キリストへの愛を第一にして従うのでなければ、キリストにふさわしくない。自分に死に、死に至るまで忠実に、キリストに絶対服従するのだ。自己中心的な自己実現を追求する者は、真の神の国のいのちに与れない。キリストへの忠誠のために自分に死ぬ者は、真のいのちを得る。これは信仰の奥義、原則である。“自分の十字架を負って”の“十字架”とは、キリストのために受ける恥、苦しみ、犠牲、死を意味する。キリスト者は、自分のために生きる人生ではなく、神と人に仕える人生を歩む。ユダヤ人にとって、使者を受け入れることは、その主人を受け入れることだった。遣わされる弟子と遣わすキリストは、一体である。ここに大きな責任と特権がある。福音を宣べ伝えるキリストの弟子であるがゆえに、その弟子を受け入れる(ふさわしくもてなす)者には、たとい冷たい水一杯という、わずかなもてなしであっても、報いに漏れることはない。それは、キリストのために、苦難の中にある働き人を支える同労者となることだからである。
メッセージのトップへ戻る
3月9日 【キリストの道備えをする】 マタイ11:2-19
獄中でバプテスマのヨハネは、イエスに「メシヤはあなたですか」という質問を弟子たちに託した。ヨハネの期待した悪人を裁くメシヤ像と反したので確信を得るため、また、ヨハネの弟子たちにイエスこそ来るべきメシヤであられることを明確にするためと思われる。イエスの答えは、イザヤ書のメシヤ預言の成就(メシヤのしるし)だった。すなわち、言葉だけではなく、行動を伴なう愛の宣教の事実であった。イエスが王として、世界を治める週末的審判の日は未来のことではあるが、イエスにつまずかない者は幸いである。そのためには、キリストとの出会いが個人個人に必要であり、聖書と現実の出来事を通し、日々神のご人格と御業を深く体験するが大切である。人々が荒野へ出て行ったのは、“風に揺れる葦”(平凡な風景、優柔不断な人)や“柔らかい着物を着た人”(世的な素晴らしさを身にまとった人)ではなく、預言者ヨハネを見るためだった。ヨハネはメシヤの道備えをすると預言されていた神の器であり、ヨハネまでの時代で、最も優れた人であった。しかし、ヨハネはイエスの十字架(神の愛の完全な啓示)を知らなかった。神は、自分自身が到達できなくとも、誰かに道を示す道標の役割を果たす人を必要としておられる。イエスの到来は、ヨハネまでの時代と一線を引く新しい終末の時代の始まりであった。イエスの十字架と復活以後、全てのキリスト者に与えられた神の子としての特権と働きは、ヨハネよりも偉大である。ヨハネの日以来、天の御国が激しく地上に入って来て宣べ伝えられ、非常な熱意と努力をもって求める人々がそこへ入っているという、御国の力強い前進が語られている。傍観者や反逆者ではなく、神の言葉を聞き、進んでイエスを心に受け入れなければ、救いは訪れない。古い考え方に縛られず、御霊と御霊の剣である御言葉によって自ら取り扱われなければならない。様々な霊的な戦いはあるが、神の正しさはその実績が証明する。私たち一人一人は、キリストに遣わされた者として、福音を宣べ伝え、教会を建て上げ、再臨のキリストの道備えをする者となろう。“神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は、主。その御前で、こおどりして喜べ。” 詩篇68:4
メッセージのトップへ戻る
3月16日 【イエスの御許へ】 マタイ11:20-30
イエスは、力あるわざが行なわれながら、罪を悔い改めないガリラヤの町々を責められた。彼らの罰は、ツロとシドン(栄華と快楽、高慢と偶像礼拝の町)やソドム(重い罪ゆえに、硫黄の火で滅ぼされた町)よりも重い。それは、直接イエスに出会い、福音を聞いた機会と特権に対する驚くべき責任の重さである。神の恵みを受けた者には、恵みに正しく応える大きな責任が伴なう。ガリラヤの町々は、イエスについて無知ではなかった。人は知る機会が与えられた程度に従って裁かれる。彼らの罪は、ことさらにイエスに反逆したのではなく、イエスに対する無関心、信じず悔い改めないという、無反応の罪であった。イエス・キリストを受け入れる者は救われ、永遠のいのちに至る。イエス・キリストを受け入れない者は裁かれ、火と硫黄の燃える池の中にある永遠の刑罰に至る。福音の真理、救い主なるイエスを知ることができるのは、幼子のように純真な、神に信頼するへりくだった者である。反対に、知的プライドをもった高慢な者には隠される。“すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。”というイエスの招きは、全ての人に対するものである。それは、未信者だけではなく、信者にも当てはまる。その内容は、イエスの御許へ来て救いを受けること、イエスの弟子として学ぶこと、イエスのくびきを負って主に仕えることである。誤った聖書解釈は、人を不自由にし、重圧となる。人生の諸問題も重荷である。しかし、イエスとくびきをともにし、自分の十字架を負うなら、神の愛はそれらの荷を軽くする。イエスのくびきは負いやすい(よくからだにあって快適である)。なぜなら、私たち一人一人の必要を満たし、ちょうど似合うものとして、神が入念に作り与えてくださったものであるから。イエスの御許へ来て、永遠の安らぎを得よう。
メッセージのトップへ戻る
3月23日 【安息日の主、イエス】 マタイ12:1-21
安息日にイエスの弟子たちはひもじくなり、麦畑で穂を摘んで食べた。隣人の麦畑の穂を手で摘むことは律法で許されていた。しかし、安息日の律法に細かい規則を加えたパリサイ人たちは抗議した。そのことに対し、イエスは、人間の切迫した必要が律法に優先することがあること、また、安息日に神を礼拝するために祭司たちが神殿で働いても罪にならいことを語られた。イエスはエルサレム神殿より偉大であり、イエスに仕える弟子たちは、最も神聖な務めをしている。イエスはユダヤ教の正統派指導者たちの悪意ある監視のもと、“安息日に良いことをするのは、正しいのです。”と言われ、片手のなえた男をいやされた。パリサイ人たちは病人をあわれむことも、いやしを喜び神をあがめることもなく、かえってイエスに殺意を抱いた。彼らは絶対的な安息日遵守の生活態度をもってはいたが、神の愛とあわれみという、より大切なものを見落としていた。イエスは、ユダヤ人たちが期待した政治的・軍事的指導者としてのメシヤではなく、主のしもべとして、世界中の人々に、愛の奉仕と十字架の贖いをするために来られた。イエスは弱い者や小さい者をを決して見捨てることなく、愛とあわれみ、いやしと聖霊の炎をもって力づけ、神の御心が成し遂げられまで、忍耐をもって働かれる。愛による勝利の主イエスに望みをかけよう。
メッセージのトップへ戻る
3月30日 【父なる神の御心を行ない、イエスの家族とされる】 マタイ12:22-50
イエスの悪霊追い出しが、パリサイ人に中傷された。悪霊追放は、神の御霊による神の国到来のしるしであった。しかし、パリサイ人たちは神の顕著な御業を見ながらも、頑固な考えをもっていたために、聖霊の働きを故意に拒否し、悪魔に帰した。彼らは善を悪、悪を善と言っていた。人の心を悪魔の支配から解放し悔い改めに至らせる聖霊の働きを、拒否し故意に逆らい続けるなら、その人には永久に救いの道はない。イエスは、そのような聖霊に逆らう冒涜(神の御名をあからさまにののしること)は赦されないと言われた。人は口にする何も生産しない無益な言葉によって裁かれることになる。悪い姦淫(神に対する背信、不真実)の時代はしるしを求めるが、私たちに与えられているしるしは、イエス・キリストの十字架と復活の他にはない。中途半端な悔い改めと服従は危険である。一度、イエスを主と信じ悪魔の支配から解放された者は、新しい神の支配にいなければ、更に悪い状態になってしまう。神と悪魔の敵対関係に中立はありえない。イエスは話しに来た肉親の母と兄弟に対し、弟子たちの方に手を差し伸べられ、“天におられるわたしの父の御心を行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。”と言われた。イエスの肉親の家族も、まだその時はイエスを信じていなかった。神への従順が肉的家族関係に優先する。思いやり、世間的常識、自己保全主義など、時に神からの大きな使命を妨げるものを、越えていかなければならない。悪い時代の中にあっても、イエスの招きに応じ、父なる神の御心を行なう者たちがいる。彼らはイエスと最も親しい家族関係にあり、その霊的・信仰的な結びつきは、肉親の自然な関係よりも深い。
メッセージのトップへ戻る