エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2003年2月
2月2日 【キリストについて行く弟子としての道】 マタイ8:18-34
 
イエスの権威ある教えと奇蹟の後、キリストについて行くことを誤って考える二つのタイプの人が出て来る。一つは、軽率な熱狂者であり、ある律法学者だった。彼はイエスを主とは呼ばず、先生と呼んだ。当時の律法学者は上流階級であり、これまでの平穏な生活と学者としての栄誉に、イエスの弟子になることによって、何かを加えてもらえると思っていた。イエスが、“人の子には枕する所もありません。”と言われたのは、ご自分には、定住する家がないということである。イエスはいつも野宿していた訳ではないが、キリストについて行く道には、多くの犠牲が伴なう。それは、福音を語って憎まれる、自己放棄と苦難の十字架の道である。天の御国に着くまでは、私たちは寄留者なのだ。イエスについて行きたいという思いを決行できる程、私たちは神を愛しているか。イエスに従えるのは、夢想家ではなく現実的な人である。もう一つは、消極的な小心者であり、ある弟子だった。このタイプの人は、恐れと不決断をもち、いつでも主に従うことに言い訳を見出しては躊躇する。“父を葬る”という親に対する義務を、主に従うことより優先しようとした。両親を敬うことや葬儀の重要性を聖書は語っているが、キリストに従うことの方が、それらに優って第一である。たといどのようなものであれ、主に従うことを回避する目的で挿入されるものがあってはならない。それは、福音宣教の急務性とキリストに従うという好機を逸しないためである。人は今その時に従わなければ、永久に従わないものだ。イエスと福音のために様々なものを捨てた者は、迫害の中でその百倍を受け、永遠のいのちに至る。イエスは自然界も支配され、風と湖を従わせられた。弟子たちは嵐の中で自分たちの無力さを認め、イエスに救いを祈り求めながらも、状況を恐れ、イエスに対して不信仰であった。イエスがおられる所では、人生の嵐が静められる。神を恐れ、信頼して従うことだ。また、イエスは霊界をも支配される主である。キリストの弟子は、悪霊とイエスを歓迎しない人々の現実に遭遇する。豚の群れより、二人の悪霊つきの解放を優先したイエスは、人々に喜ばれなかった。人々は、二人の男の救いには全く無感心であった。彼らの関心は、豚が死んだこと、すなわち、お金であり物だけだった。イエスに立ち去ることを願う結果、彼らは永遠のいのちを失い、自ら滅びの道を選んでいる悲劇に気づかない。彼らの罪もまた、聖いイエスの存在をがまんできなかった。人は地上での利害に生き、自分の利益、慰安、安易な生活が侵されることに怒る。全時代を通して、世は豚を選ぶことによって、イエスを拒絶して来た。人生の選択の機会には、常にキリストを選ぼう。それが、永遠のいのちへの唯一の道である。地上生活の延長線上に、天の御国を置いて生きるのだ。
メッセージのトップへ戻る
2月9日 【新しい皮袋の新しいぶどう酒】 マタイ9:1-17
イエスの新しい教えと生活様式は、ユダヤ教の古い伝統的な生活様式とは異なり、律法学者、パリサイ派、バプテスマのヨハネの弟子から非難された。イエスは神、罪人の救い主、全ての主権者であられ、罪を赦す権威をもたれる。4人の人々が中風の男を寝たままイエスの御許に運んで来た。中風の男はイエスに罪を赦され、イエスの御言葉に従って起きて家に帰った。この4人の人々と中風の男のように、信仰は行ないに表わされるものであり、主が働かれる。罪の赦しがあって、病がいやされる。それは、神を愛し仕えるためである。取税人マタイ(主の賜物の意)が、キリストの愛に捕らえられ、仕事を捨ててイエスに従った。彼は本当の人生を見出し、物質的には捨て、霊的には富を得た。マタイはイエスのために、取税人や罪人を大勢招いて喜びの祝宴を開いた。イエスと罪人たちの橋渡しをしたのだ。自称義人ではなく、へりくだって自分の罪を悲しみ、イエスを真に必要としている罪人を、イエスは招いておられる。マタイのように、神と隣人への誠実な愛の実践が必要である。そのマタイの家へ、ヨハネの弟子たちがなぜ断食しないのかと尋ねて来た。ユダヤの結婚式の祝宴では断食できなかった。花婿なるイエスが共におられたその時は、喜びの時であり、悲しみの断食の時ではなかった。教会はキリストの花嫁である。信仰生活には断食も必要だが、聖霊に導かれ、主の御心にかなった断食をする必要がある。このように、古い未完成なユダヤ教ではなく、新しい完成されたユダヤ教をイエスは成就された。“(時間的に)新しいぶどう酒”は発酵力があり、固い弾力性のない“古い皮袋”を破ってしまう。“(質的に)新しい皮袋”は柔軟で弾力性があり、新しいぶどう酒を入れても圧力に耐える。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければならない。古いものと新しいものを組み合わせることはできない。古いものを捨てて、新しく始めることだ。伝統や過去に生きるのではなく、今神に従って生きるのだ。新しいものに対する人間の本能的な反抗心を克服し、新しい聖霊の導きを方法を受け入れるのだ。いのちあるものの成長が止まった時、死が始まる。教会だけが、過去に生きる唯一の機関であってはならない。キリストという信仰の本質と目標は変わらないが、方法は変わるのだ。新しいぶどう酒(キリストのいのち、聖霊)を新しい皮袋に入れているか(古いものを捨て、日々新しく聖霊に満たされて、神に従い歩んでいるか)。もしそうでなければ、時とともに古び、堕落し、力のない、形骸化した信仰となってしまう。後ろのものを忘れ、前のものに向かって日々新しく前進しよう。 
メッセージのトップへ戻る
2月16日 【収穫のために働き手を祈る】 マタイ9:18‐38
主イエスに対する信仰によって、病人が次々と瞬間的にいやされた。長血(婦人病と思われる)の女は12年間、病と経済的行き詰まりと宗教的汚れの苦しみの中にあった。しかし彼女の不幸が、彼女を主に近づかせる契機となった。彼女は信仰によってイエスの着物のふさに触った。(着物のふさは、ユダヤ人が神の命令を思い起こして守るために、着物の四隅に付けた飾りふさであり、権威といやしをも意味する。)するとイエスの力が流れ、彼女はいやされた。神の愛は、群集の中の一人一人に注がれる。会堂管理者(ユダヤ教の長老)の娘が12才で死んだ。会堂管理者は信仰によってイエスに助けを求めた。イエスは彼に「恐れないで、ただ信じていなさい。」と語られた。恐れは信仰を締め出し、不信仰はキリストのいのちの恵みを締め出してしまう。イエスは不信仰な群集を追い出され、少女の手を取って生き返らせられた。当時死人に触れることは汚れることだったが、イエスが触れられると死人にいのちを与えた。イエスだけが死人を生き返らせ、救いときよめを与える方である。メシヤのしるしとして預言されていた、盲人とおしのいやしも行なわれた。あわれみ深い主は、悩み苦しんでいる人をそのまま放置してはおかれない。悪霊が追い出されおしがいやされた時、人々の反応は異なった。一方は感嘆し、もう一方はイエスを信じず、神の御業を悪霊に帰した。神に反抗する人は変えられない程、高慢と自己満足、偏見という思想で固まっている。肉体的病以上に不幸なのは、霊的病であり、しかも病の自覚がないことだ。聖霊に逆らう罪は赦されない。聖霊の導きにより、神の御業を賛美し、イエスを信じ従う者となろう。イエスの三重の使命は、宣教と教え(言葉と実生活を通して)と医者(愛の実践)であった。イエスは霊的洞察力で群集を見られ、羊飼いのいない羊(いつも獰猛な野獣の危険にさらされ、緑の牧場やいこいの水のほとりを求めてさ迷っている、指導者のいない極限状態)のように弱り果てて倒れている(苦しめられ、ずたずたに疲れ果て、霊的虚脱、混乱状態にある)彼らをかわいそうに思われた(本来、内蔵が揺り動かされるの意)。このあわれみこそが、イエスの宣教の動機であった。彼らは福音を心に受け入れるために良い準備がされている、保存されるべき収穫である。宣教は収穫が多いという必要に激しく迫られ、働き人を求める祈りによって始まり、継続し、完成する。人々へのあわれみを動機として、主から召命を受けた働き人によって魂は収穫される。人々を愛され、罪人の救いのためにいのちをささげられたイエスを見、主の御声に聞き従い、自らも働き人となろう。
メッセージのトップへ戻る
2月23日 【キリストに任命されて遣わされる】 マタイ10:1-23
群衆を見てかわいそうに思われたイエスは、徹夜にわたる祈りの末、弟子の中から12弟子を選ばれた。福音宣教の働きのために任命された12使徒(遣わされた者の意)である。12弟子は、普通のごく平凡な庶民であり、当時の社会に何ら影響力もない無名人だった。彼らは、現在だけではなく、将来に可能性のある者たちだった。どのような者でも、主が選ばれる時、主の器としてかなう者としてつくりかえられ、福音宣教と教会建設に用いられることができる。12弟子の中には、売国奴と呼ばれた取税人マタイ(マタイの福音書だけに記された表現)と、過激な国粋主義者である熱心党員のシモンがいた。互いに憎み合う者たちも、キリストを愛し従う時に一つとされる。12使徒は、まずガリラヤ地方へ2人ずつ遣わされた。彼らは、天の御国がキリストとともに臨んでいることを告げ知らせ、メシヤ到来のしるしである霊と肉体のいやしを行なった。神は人間の弱さに神の力を、死人にいのちを与える方である。働き人は神の恵みを自分の栄誉や利得の手段とせず、使命として喜んで分け与えるべきである。“ただで受けたのだから、ただで与えなさい。”と、“働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。”という御言葉は矛盾しない。ラビ(ユダヤ人の教師)が真実に神の人である場合、彼が神のことに専念できるように、全てのユダヤ人は彼の生活を支える義務があった。神の民は、神の人が相当の生活ができるように支える義務を怠ってはならない。12使徒が遣わされる地域のユダヤ人たちは、もてなすことに優れた人々だった。そうでない場合、自分で天幕作りをしたり、他教会の援助に頼らなければならない。そのような時には、キリスト者は働き人に物質的援助を惜しまないように教えられ、訓練される必要がある。弟子たちがする平安を祈るあいさつ(ヘブル語:シャロームアレイヘム)は、ふさわしければ相手にとどまり、ふさわしくないなら弟子たちに返って来る。福音を受け入れない所では、弟子たちは足のちりを払い落とす。これは、一切無関係であることの宣言であり、彼らが異邦人と同じだということを示すためだった(当時、ユダヤ人は異邦人の土地のちりは汚れていると考えていた)。福音と無関係とされた人々は、いのちの源を絶たれ、拒んだ責任を自分自身で負い、ソドムとゴモラよりも重いさばきを受けなければならない。失った機会は二度と戻っては来ない。使徒たちは伝道を次の町へ前進させる。イエスは、キリスト者が福音宣教の使命を果たす中で、国家権力、宗教権力、家族から迫害されることを約束された。“蛇のようにさとく、鳩のようにすなお”に、伝道者は敵に対する賢明な身の処し方と、神への純真な態度を保ち続けなければならない。向こう見ずで無思慮な冒険も戒められているが、おくびょうな自己保全も戒められている。ただ、キリストのために生き、キリストのために死ぬのだ。不必要な戦いからはあえて逃れ、新たな伝道をするようにも命じられている。時は限られているが、キリストの再臨のその時まで、福音宣教の働きは続く。
メッセージのトップへ戻る