エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2003年1月
1月5日 【天に宝を】 マタイ6:19-34
自分のために地上に富をたくわえる生き方をやめ、天に宝をたくわえる生活をするように命じられている。地上の宝によって心が地上に束縛され、心の目を曇らされてはならない。天の祝福と栄光を最大の関心事として生きるのだ。“世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。”(Tヨハネ2:17) 霊性(目)が健全で、天に宝をたくわえることに励んでいるなら、その人の全存在は明るく輝いたものとなる。その人は神のものを正しく管理し、真の価値判断をすることができる。寛大で、気前が良い。目が悪いというのは、ヘブル的表現で、けちな、物惜しみするという意味である。誤った価値判断で、地上の宝に執着する人は、ますます貪欲となり、自分の周りの人の必要に目を閉ざし、暗さの中に生きる。マモン(富)の霊に捕われ、奴隷として仕える。金銭を愛することは、あらゆる悪の根であり、どんな貪欲にも注意し、よく警戒しなければならない。主へのささげものの基準は、十分の一である。その結果、天の窓が開かれ、あふれる祝福が注がれ、災いは遠ざかり、幸せと喜びが約束されている(マラキ3:8‐12)。もちろん、十分の一以上であっても良い。貧しいやもめは、全生活費をささげた。与える者は与えられ、豊かに蒔く者は豊かに刈り取るというのが、聖書の原則である。天に宝を積み、富を用いることによって、御国を拡大させ、祝福を受けることができる。地上での信仰生活の延長線上に、永遠の天の御国を置くことだ。物質的必要を満たすことが全てであるかのように、それに捕われて生きてはならない。生活の心配は、天の父を信頼していない信仰の薄さである。最も大切なこととして、本当に心を用いなければならないのは、神の支配の内にあって、神の御旨に服従し、自分の生活を律することである。神との正しい関係にあるなら、生活の必要は全て与えられる。神を第一として、一日一日の責任を果たして生きることによって、心配のいらない、神の豊かさにあずかる生活をすることができるのだ。
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1月12日 【聖霊を求めよ】 マタイ7:1-12
批判的習性は、罪人の姿である。誤った評価や偏見をもって、不当に人をさばいてはならない。まず、自分の問題を処理することだ。そうすれば、事態を正しく見ることができ、真に他の人を助けることもできる。他の人の欠点よりも、良い点を見出すようにしよう。「他の人をさばくな」という命令は、識別や善悪の判断をしてはならないということではない。聖霊は、罪と義とさばきについて、明らかにしてくださる(ヨハネ16:8)。神に属する聖なるものを、聞く耳を持たず、キリストを受け入れることのできない人々に与えてはならない。それは、神を愛することに通じる。言葉だけではなく、人々が変えられるように祈り、行ないや生活を通しても伝道していくことが必要だ。御言葉を行なえるように、聖霊を求め続けよう。祈りも聖霊による。祈り求めることは、必要感の告白とそれを与えてくださる神への信仰表明である。神は御心に従って、聖霊による良きものを豊かに与えてくださる。そこには常に、私たちの理解を越えた知恵と愛とがある。“何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。” このイエスの言葉は、黄金律と呼ばれる積極的な愛の戒めであり、旧約聖書の要約である。イエスの愛を心に受けた者が自我に死に、新しく御霊によって生まれ、初めてできることである。だから、御霊によって、キリストとともに黄金律に沿った歩みができるように、祈り求めよう。黄金律が実践されたら、世界は全く新しく変わる。
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1月19日 【御言葉を聞いて行なう道を選ぶ】 マタイ7:13-29
イエスは三つのたとえを用いて、真の弟子とそうでない者(偽りの弟子と未信者)を対比された。一.二つの門と道:天国への門は、罪やこの世のものをもって入ることのできない狭い門である。天国への道は、罪を悔い改め、自分を捨て、日々自分の十字架を負う(神の御心に歩む)狭い道である。反対に、滅びに至る門と道は広い。それは、生まれながらの道、世間並みの生き方であり、入りやすく、歩みやすい。二.二つの木:良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。真の弟子は、自己中心的な生き方から解放され、キリストを心の王座に迎え、神の御心を行ない、神の栄光のために、良い実を結ぶ。神と聖さを追い求め、謙遜であり、人々を罪の悔い改めと愛の実践へ導く。反対に、“にせ預言者”は、神の言葉ではなく、自分の考えを語り、自分の利益を追求し、高慢である。“主よ、主よ。”と言い、自分を正当化しうるものを沢山もっているが、神の御心は行なわず、自分のためにイエスの御名を語ったという不法のゆえに、御国に入れない。木と実は、信仰・教理と実践・結果を表している。三.二つの家:岩の上に建てた家と砂の上に建てた家がある。外見上からはその違いがわからない。しかし、同じ嵐を体験し、その結末は全く違うものだった。岩の上の家は安全であったが、砂の上の家は破壊し、致命的結果となった。それは、土台の違いだった。賢い人は、岩まで深く掘り下げて土台を築き、家を建てた。岩とはイエス・キリストにより頼むこと、御言葉、御心であり、家は人生である。また、洪水は人生の嵐であり、最後の審判の日とも解される。主に信頼し、御言葉を聞いて、心から従う者は揺るがされない。反対に、愚かな人は土台を築くことを省き、地面(砂)に直接家を建てた。砂とはイエス・キリスト以外のものにより頼むことである。それは、変わりやすい世のもの、人の心や健康、富、諸宗教、時代の流れなどである。御言葉を聞いても従わない者は、御言葉以外のものに従っており、悲劇的結末を迎える。また、家(働き)の材料にも注意しなければならない(Tコリント3:10−15)。私たちの救いは、キリストにかかっている。死に至るまで神の御心に従われたキリストを模範とし、自我に死に、聖霊に満たされ、御言葉を聞いて行なう、永遠のいのちへの唯一の道を選び、歩もう。
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1月26日 【主イエスにいやされ、主に仕える】 マタイ8:1-17
イエスは、当時の社会で疎外されていた人々にいやしの御手をさし伸ばされた。一人は、らい病人である。らい病は、この病によって犯され、ついに死に至るという意味で、罪を表わす病と考えられ、宗教的・肉体的に汚れたものとされていた。らい病がいやされることを、きよめられると言い、罪が赦され、神に近づきうる状態を意味する。らい病人は、人々から隔離して生きていた。そのらい病人が、罪の赦しと病のいやしを求め、イエスのもとにやって来た。彼はイエスをひれ伏して拝み、神のあわれみにすがり御心を求めた。驚くべきことにイエスは、人々が触れることによって自分も汚れると恐れていたらい病人に、愛とあわれみの御手をさし伸ばして触れられ、いやされた。イエスは彼に、律法に従って宗教的・社会的に復帰するように命じた。次にいやされたのは、百人隊長(異邦人)のしもべである。この百人隊長は、ユダヤ人を祝福する信者であり、彼のしもべに対する愛は、当時の主人が奴隷に対する態度ではなく、信仰の美しい実であった。当時、異邦人は汚れたものとみなされ、ユダヤ人は異邦人の家に入ることができなかった。百人隊長は謙遜に、“あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。一言だけおっしゃってください。”と、イエスの言葉に対する絶対的信頼を言い表わした。イエスは百人隊長の大きな信仰に驚かれ、離れた所から、百人隊長の信仰を用いて、そのしもべをいやされた。またイエスは、ペテロの家で彼のしゅうとめの熱病をいやされた。ペテロはキリストに従う中で、家庭の問題を解決して頂いた。私たちは、主に生活の諸問題を知らせることによって、主ご自身に直接問題にご介入して解決して頂くことができる。彼女は完全な健康体にいやされ、イエスに仕えた。ここに奇蹟の目的と地上のいのちの意味がある。私たちが罪から救われ、いやしと解放を経験するのは、神への感謝を表現し、具体的に奉仕するためである。地上で与えられた新しいいのちを、神と人々に仕えるために用いるのだ。安息日明けの夕方になると、人々は悪霊につかれた人や病人を大勢イエスの御許に連れて来た。イエスはどんなに疲れた時にも、犠牲を払って人々を助けられた。御言葉によって悪霊を追い出し、病をおいやしになられた。私たちも、主に仕え、人々に仕える中で、新たな力を着せられ、疲れがいやされることを経験する。
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