| 12月1日 |
【神を愛し、隣人を自分自身のように愛する】 マタイ5:21-26 |
| 律法は要約すると、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神である主を愛することと、隣人を自分自身のように愛することにかかっている。神を愛するとは、神の戒めを守ることである。律法の成就であられるキリストが与えた新しい戒めは、キリストが私たちを愛されたように、私たちも互いに愛し合うことだった。愛は隣人に害を与えない、自分にしてもらいたいことを他者にもする。十戒の一つ一つも、この愛に基づくならば、自ずと守ることができる。“人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。”という戒めについて、イエスは正しい解釈をされた。人に対する怒りやさげすみ、道徳的な愚か者として人の名誉と信用を落とすことも、心の内における殺人であり、神のさばきの対象となる。律法は外面の行為だけではなく、人の内面と言葉にまで関わる。殺さなければよいという消極的態度だけではなく、積極的に愛を実践し、人間関係の破れに和解をもたらすことが教えられている。隣人を自分自身のように愛しているか吟味し、罪を悔い改め、罪に勝利しなければならない。神との光の交わりを保ち、律法の目標であられるキリストの満ち満ちた身たけにまで成長するために。また、神と和解し、罪を告白するだけではなく、人と和解し、謝罪する必要もある。人との和解は、礼拝に先立つ、重要な優先課題、緊急課題である。 |
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| 12月8日 |
【神が制定され、祝福された結婚】 マタイ5:27-32 |
| “それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。”(マタイ19:5) 神は天地創造の初めから結婚を制定され、祝福された。結婚には、神の5つの目的がある。1.神の似姿としての栄光を反映させる。2.聖い子孫を増やす。3.全ての被造物、地上を支配する。4.二人が一心同体となって満たし合う。5.キリストと教会との愛の関係の模範となる。神に喜ばれる家庭を築くためには、夫と妻ともに神に服従し、聖書に基づいた同一のヴィジョンをもって歩むことが必要である。十字架の贖いには、幸せな家庭建設、エデン(喜び、楽しみ、隅々までよく潤された所)の回復が含まれている。それは、キリストの花嫁なる教会の働きである。花嫁の光り輝くきよい麻布の衣は、地上における一つ一つの正しい行ないによって織り合わされている。新しいエルサレム、聖なる栄光の教会は、天の神から出た材料によって建て上げられる。“姦淫してはならない。”この律法の目的は、結婚の神聖と平和のためである。人を一体に造られた神は、離婚を憎まれる。結婚外の性的関係は思いにおいても罪であり、永遠のいのちに関わる。不品行な者は天国に入れず、ゲヘナ(永遠の刑罰の場所)へ投げ込まれる。罪を犯させる原因を悔い改め、断固として取り除かなければならない。神は十字架の贖いによって、私たちをきよめて聖なるものとし、愛と義の生活を実現してくださる。 |
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| 12月15日 |
【神の完全な真実と愛】 マタイ5:33-48 |
| “偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。” 私たちの神は、偽りのない真実な方である。それゆえ、十戒の第三戒、第九戒にあるように、主のみだりに唱え、偽証してはならない。祝福となる真実な誓いというものもあるが、私たちは「はい」と「いいえ」とだけ言い、語ったことは責任をもって誠実に果たすべきである。常に真実であられるイエス・キリストを目標とし、神により頼みつつ。 “目には目で、歯には歯で。” この同態復讐法は、際限のない復讐心とその害悪に抑制と終止符を打つ目的があったが、実際には、報復の要求と復讐精神の根拠となっていた。“復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。”(レビ19:18) 神の御心は、赦すこと、復讐心から解放されて、愛すことである。危害、要求、屈辱に対し、生まれながらの利己的自我に死に、新生したいのちで、日々自分の十字架を負うことだ。特に、私的復讐が禁じられている。“蛇のようにさとく、鳩のようにすなお”に、個人的、自発的自由行為として、愛と寛容の心をもって、対処すべきである。“自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。” “自分の敵を憎め”という教えは、旧約聖書には書かれていない言い伝えである。“隣人”というのは、ユダヤ人だけではなく、異邦人、取税人、自分の敵をも含む。“自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。” ここで使われている愛は、ギリシャ語のアガペー(くじくことのできない慈悲、善意、相手の一番ためになることだけをする自己犠牲の愛)である。神の愛は、人を分け隔てしない。主イエスは十字架上で、“父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。”と祈られ、私たちに模範を残された。利己的自我を放棄し、人を赦し、神の愛(アガペー)を示し、祈る時、私たちはキリストの似姿へと変えられ、完全にされていく。そのようにしてこそ、完全(目的、目標、極限の意)な父なる神の子ども(性質をもつ者)になれるのである。 |
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| 12月22日 |
【主に喜ばれる施しと祈りと断食】 マタイ6:1-18 |
| 信仰生活における三つの基本的な善行に、施し(対人関係)、祈り(対神関係)、断食(対自関係)がある。それらを、間違った動機と目的に気をつけ、正しい純粋な動機と目的をもって行なわなければならない。真の善行は、人に見せ、自分の栄光とするためにするのではなく、ただ天の父に見られるように、隠れて行なうべきである。主は心を見ておられる。人からの賞賛を得るために善を行なう者は、偽善者(役者)と呼ばれ、自分の報いをすでに受け取っている。しかし、人の目を当てにせず、愛をもって、主に喜ばれることを行なう者には報いがある。キリストは、それぞれの行ないの報いを携えて、やがて来られる。神が正義と愛であられるがゆえに、後に報いと裁きがあるのだ。マタイ25章の羊に分けられ、御国を受け継いだ祝福された人たちは、地上での自分たちの善行を覚えていなかった。しかし、パウロは“神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている”と言った。報いは副産物であるのと同時に、究極の目的である。それは、御国と神ご自身である。イザヤ書58章には、主に喜ばれる断食と安息日が書かれてある。神に心から従い善を行なう時、悲しみと嘆きは喜びと楽しみに変えられ、祝福が訪れる。 |
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| 12月29日 |
【主の祈りを祈る】 マタイ6:9-15 |
| 主の祈りとは、主イエスが弟子に教えてくださった神の家族としての祈りであり、呼びかけ、神の栄光についての三つの祈り、人の必要についての三つの祈り、頌栄からなる。私たちはまず、神の子として天の父に呼びかける。「お父様、私たちの、天にいらっしゃる」(原語)。神の子としての第一の祈りは、神の御名が聖別されてあがめられるようにという祈りである。第二の祈りは、御国(神の主権による支配、統治)が来るように祈る祈りである。御国は、神の国の王イエスがおられる所にすでに来ているのと同時に、将来終末的出来事として到来する。自分の心の王座をキリストに明け渡して支配して頂き、やがて王として来られるキリストの再臨に花嫁なる教会として備えることだ。歴史を支配される神が、異邦人の完成、イスラエルの救い、キリストの再臨という一つ一つの約束を成就してくださる。御国とは、神の御心が行われている所である。御心がなるように祈る第三の祈りは、人間ができる最高の祈りであり、そこには、神への全き信頼と従順が含まれている。そして、聖書にこそ、神の御心の啓示されている。第四の祈りは、私たちの日ごとの糧を求める祈りである。神は、人の毎日の必要を配慮される。私たちは、神に支えられて地上生活を送る。生活問題の解決を神に仰ぎ、日々刻々神により頼んで生きるのだ。第五の祈りは、人の罪を赦し、自分の罪の赦しを神に求める祈りである。罪の贖い主イエスの愛によって、赦しを実践する必要性がある。愛は多くの罪をおおう。神に赦された者としての、真実な態度が問われている。私たちは、日ごとにこの祈りをささげなければならない程、自分を正しいと思う、高慢な罪深い者なのだ。神との交わりの妨げとなる罪を取り除かなければならない。第六の祈りは、試みと悪魔からの救いを祈る.。私たちの周りでは、絶えず悪魔が機会をねらっている。神に従う人に対し、悪魔は(神の許しの範囲内で)特別な力をもって働く。破壊、反逆、中傷、悪魔から来ている全ての悪…しかし、神の国は悪魔のいない、全ての悪から解放された所である。キリストの十字架、復活、昇天による勝利と御霊の助けによって、私たちは罪と悪に打ち勝って生きることを学ぶ。試練の時、神に向くなら、私たちの信仰、希望、愛、忍耐は成長し、強い者とされ、御国へ行く予備訓練となる。 |
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