エクレシア桜 礼拝メッセージ
 
2002年11月
11月3日 【御国の福音宣教】 マタイ4章
バプテスマを受けた後、イエスは御霊に導かれて荒野で悪魔の試みを受けられた。神から特別な祝福を受ける時が、また試みを受ける時にもなることがある。イエスの生涯は始めから終わりまで戦いの連続だった。荒野の三つの試みの共通点は、目に見えるものを用い、思いにおいて、誘惑したことである。それに対し、イエスは御霊の与える剣である神の言葉(ここでは申命記)を引用されて、悪魔を退けられた。イエスはいつでも神の御心に忠実に従われる(十字架の道を歩まれる)ことによって、罪に勝利された。この方こそ、私たちの罪と悪魔の試みからの救い主である。イエスは御霊の力を帯びて、宣教を開始された。ガリラヤのカペナウム(慰める者の村の意)は、イエスの初期伝道の中心地であった。“異邦人のガリラヤ”と、さげすまれて言われた異邦人に囲まれた地方である。イザヤ書においては、アッシリヤに滅ぼされるガリラヤの絶望する民に、希望の光が上ると預言されていた(紀元前7世紀)。イエス時代のカペナウムの人々は、霊的、肉体的に暗黒であったが、神に対しては心開かれ、謙遜にされており、聞いたことをすぐに実行に移すことができた。それゆえ、神の祝福を豊かに受けた。イエスは、ガリラヤ湖の漁師を召して弟子とされた。イエスに全てをささげようとする平凡な人たちを選ばれたのだ。イエスに従うことは、自分や家族、持ち物、仕事以上に大切なことである。天の御国(神の支配)が、イエスに従う人々とその地域に現わされるように。
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11月10日 【幸いな天の御国の民】 マタイ5:1-7
山上の説教は、天の御国の民であるキリストの弟子たちに対してなされた。ここでは、神の恵みと祝福を受けている幸いが八つ語られている。それらは、現在と永遠における霊的な神の国の幸福論である。一.心の貧しい者とは、自分の霊的貧困を知っている人である。その人は、まことの富をもつ神により頼み、心を治めて頂き、服従して生きる。地上のものへの執着がなくなり、天に宝(心)をもつ。神がともに住まわれる天の御国は、その人のものである。二.悲しみは罪の結果もたらされた。悲しむ者は、神と神の約束に望みをかける。キリストは悲しみの人で病を知っていた。私たちの神は、慰めの神である。悲しむ者だけが慰めを受けることができる。神は私たちの悲しみを喜びと賛美に代えてくださる。三.柔和な者は、神の御前にへりくだり、自分を捨てて、神の御心に従う人である。その人は真に強く、人に優しく、怒りをも自制する。柔和なキリストとともにくびきを負う(十字架の道を歩む)ことによって、ともに御国を相続することになる。四.自己義認に陥ることなく、義に飢え渇く者として、神との正しい関係、神の御心に従うことを切に追い求め続けることが必要である。なぜなら聖化の過程は、救いの完成まで続くからである。五.あわれみは神の属性である。あわれみ深い者は、あわれみを受ける。人の罪を赦す者は、神に赦され、相手をも解放する。人をさばく者は、さばかれる。キリストの十字架の贖いによって、多くの罪を赦され、神の愛を受けた者として、人々を愛し、あわれみ、赦していこう。
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11月17日 【地の塩、世界の光としての使命】 マタイ5:8-16
“心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。”「きよい」とは、混ざりもののないという意味である。罪や汚れが取り除かれた新生した心、純真で二心のない心の動機である。そのような者には、聖い神と交わる生活が回復される。“平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。”「平和」、ヘブル語のシャロームは、人間の最高の幸福をつくり出す全てのものという意味である。神との和解が先立ち、心の平和の基礎となり、人との和解がもたらされる。敵意は十字架によって葬り去られた。心の中から憎しみ、敵意を取り除き、正しく平和な神との関係、人間関係をもたらす和解の使者、キリストの大使として私たちは召されている。“義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。”イスラエルと教会の歴史は、迫害の歴史である。それは、この世が悪魔の支配化にあって、神とキリストを憎んでいるからである。戦いのあるところに勝利があり、迫害のあるところに報いと栄光がある。迫害は、天国へ行くまでの道程、訓練、取り扱いである。それゆえ、迫害される時には喜びおどりなさい。キリスト者は地の塩である。塩の特質、役割、存在意味が三つあるー純潔、腐敗防止、味気をつける。キリスト者は、この世の人々と全く違う聖別された者であり、この世を聖化する力をもつ。キリスト者が塩気をなくしたら、かえって害になる。それは、この世と妥協したクリスチャン、この世から隠遁した信者である。また、キリスト者は世界の光である。光の役割は、やみを照らし、光を輝かせることだ。キリスト者は日常生活において、世の光として内なるキリストを表して輝く。「山の上の町、燭台の上のあかり」として、隠れクリスチャンではなく、人々に知られている。光は聖さ、良い行いを表す。光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実である。神の栄光を反射させよう。人々がイエス・キリストを信じ、父なる神があがめられるために。
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11月24日 【愛と義の律法を成就するために】 マタイ5:17-20
イエス・キリストは旧約聖書を廃棄するためではなく、成就する(行なう)ために来られた。旧約聖書とイエスご自身は真に一致する。キリストは律法の目標であり、完成である(ローマ10:4)。天地は滅びても、神の言葉は滅びず、全てが成就される。イエスは、愛と義の律法の真の意味を説き明かし、自らその精神、根本原理を実行し、律法に違反する罪の刑罰を受けることによって、律法を成就された。神の戒めに対する態度が、その人の天の御国における評価を決定する。主の義の教えは、律法学者やパリサイ人の教えと矛盾し、対立していた。彼らは、律法の613の戒めを守ることによって義を得ると考え、表面的、形式的、儀式的にそれを守り、教えていた。そこには、神と隣人に対する愛がなかった。キリスト者は、律法の教師である律法学者、律法を遵守するパリサイ人にまさる義が要求されている。それは、キリストを信じる信仰による義と聖霊によって、愛を行なう生活である。愛の戒めである律法を正しく解釈し、神と隣人への愛を動機として、内的、良心的、道徳的にそれを守る。自分の無力さを認め、砕かれたたましいをもって、神のあわれみにより頼もう。そして、聖霊と神の愛に満たされて、あわれみ深く、忠実な者へと造り替えて頂こう。
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