エクレシア桜 礼拝メッセージ
  
2002年10月
10月6日 【パウロの同労者たち】 ローマ16章
この手紙の最後には、35名の人の名前があげられて紹介やあいさつがなされている。そのうち、半数以上が当時社会的に身分が低かった女性や奴隷の名前と思われる。また、ユダヤ人、ローマ人、ギリシャ名、ペルシャ名、クレネ人シモンの息子、使徒、伝道者、執事、ローマ皇帝の家、悪名高い皇帝秘書の家、ヘロデ大王の孫の家、市の有力者である収入役など、実に様々な人々がパウロの同労者、神の家族であった。彼らはキリストにあって、民族、性別、階級などの社会的差別を超えた、聖徒の交わりの中に置かれていたのだ。彼らは互いに愛と信頼と尊敬をもって交わりを保ち、同じキリストの教会という共同体に属していた。このことは、聖霊のバプテスマによる教会の一致と働きを示している。パウロの同労者たちの中には、経済的援助をする者、命がけの献身的協力者、家の教会をする者(3世紀位までは、信徒の家を開放し、集会をしていたと思われる)、ともに投獄された者、消耗するまで非常に労苦した者、練達した者、協力伝道者、謙遜な助手などがいた。そのため、初代教会は爆発的に成長したのだ。それとは反対に、分裂やつまずき(不和)を引き起こす教えと人々を警戒しなければならない。彼らは主キリストにではなく、自分の欲に仕え、その本質、目的、動機が間違っているのだ。異端や偽教師の背後に働くサタンに勝利するためには、識別力をもって、平和の神により頼まなければならない。神は権威と力をもって、私たちの足の下でサタンを踏み砕き、教会に真の秩序を与えてくださる。信仰の従順は、限りない神の祝福をもたらす。神の恵みによって、私たちの信仰は支えられている。この恵みをむだにしてはならない。
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10月13日 【メシヤなるイエス】 マタイ1章
マタイの福音書は、取税人マタイによっておそらくA.D.60頃記された。イエスの系図を見ても分かるように、ユダヤ人を対象にして書かれたが、イエスがユダヤ人だけではなく、全世界の救い主であることが明らかにされている。旧約聖書からの引用が多く、イエスがメシヤ預言の成就であること、また王であることが強調されている。“天の御国”“神の国”という終末論が繊細に記され、イエスの説教が多く含まれている教育的福音書である。1節のアブラハムの子孫、ダビデの子孫という系図は重要である。なぜならユダヤ人待望のメシヤ(油注がれた者、救い主、ギリシャ語のキリスト)は、アブラハム契約の土地、子孫、祝福の約束、ダビデ契約のとこしえの王座の約束の延長線上に来られたからである。この系図の特徴は、4人の女性が含まれていることだ。遊女を装って舅の子を身ごもったタマル、遊女ラハブ、モアブ人ルツ、ウリヤの妻…神の恵みは家系の汚点をも克服する。女性だけではない、ユダの王の半分は偶像礼拝と不道徳な生活をした悪い王だった。キリストは罪深い人間を救うために、そうした家系の一員に入る必要があったのだ。これは、系図による福音でもある。ダビデの子孫として生まれたヨセフは名もない一大工であったが、律法を守る正しい、あわれみ深い人だった。マリヤの聖霊による受胎を、夢を通して与えられた神の啓示によって受け入れ、妻マリヤを迎え、その子供をイエス(主は救い)と名づけた。ヨセフは服従によって、神の計画と目的を達成したのだ。従順は、神の御旨の遂行と祝福を地上にもたらす。私たちも神の御心が行われるために、神に従い、協力しなければならない。インマヌエルの主がともにおられる。
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10月20日 【王なるイエスを礼拝する】 マタイ2章
イエスのご降誕の後、東方の博士たち(バビロンから来た裕福なユダヤ人たちと思われる)が、星を見てユダヤ人の王としてお生まれになったメシヤを礼拝しに来た。ローマ元老院から王に任じられたエドム人のヘロデは、それを聞いて自分の王位を取られることを恐れ殺意を抱いた。彼は猜疑心と野心が強く、自分の家族も含め、多く人々を殺害してきたのだ。一方エルサレムの宗教指導者たちは、メシヤがベツレヘム(パンの家の意)で生まれることと、博士たちの来訪によってその時を知りながらも、全く無関心であった。ユダヤ人の土台には、アブラハムがモリヤの山でイサクを縛り、ささげたという礼拝の型がある(創世記22章)。その礼拝の型とは、信仰の試練(苦しみによるきよめ)、神との関係(神への絶対的信頼)、旅、ささげもの(犠牲)、従順、準備、聖別などであるが、博士たちの礼拝の姿勢も同じであった。彼らは遠い旅路を経て来て、当時2才以下の幼子イエスをメシヤとしてひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬をささげた。黄金は王、また神へ、乳香は祭司への贈り物であり、没薬は香料で、聖なる注ぎの油に入れたり、死者に塗ったりしたものであるが、どれも当時最も高価なものであった。幼子の命をこの世の王たちから守るために、神は夢による啓示を博士たちとヨセフに与え、彼らは従順に従った。エジプトに逃げた後、イエスはヨセフとマリヤの出身地であるナザレに住まわれた。ナザレとは、旧約聖書に一度も出てこない町であるが、見下げられた、小さな、貧しい町であった。“この方はナザレ人と呼ばれる”とは、受難のしもべとしてのメシヤのことを言っているのである。救い主は、この世の権力を何一つ後ろ盾にしては来られなかった。神はこの世の無に等しいものを選ばれ、栄光を現わされる。神の召しに、信仰と従順をもって応えたい。
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10月27日 【水と聖霊と火とのバプテスマ】 マタイ3章
イエスはおよそ30才まで、ナザレで普通の生活をされた。神を敬う両親のもとで神と人に愛されて成長され、両親に仕えられた。長男としての義務を果たされ、ナザレの町の大工として働いて家族を支えられた。大きな仕事をする前に、小さな仕事を忠実に行われたのだ。バプテスマのヨハネは荒野で神と過ごし鍛えられ、時満ちて宣教を開始した。“悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。” “悔い改め”とは、心の方向転換と生活態度の変化のことである。罪から離れ、神に帰り、本質的に変えられて、神に喜ばれる生活をするようになることだ。これは、聖書信仰の中心である。“天の御国”は、地上に及ぶ神の支配のことである。神はその民の救いのために、ご自身の王国(神の国)を建設される。救いには段階がある。《主イエスを信じる→信仰告白→悔い改める→水のバプテスマ→聖霊を受ける→神と共に生きる→天国》 水のバプテスマによって罪が赦され救われる。聖霊のバプテスマによって教会は誕生した。聖霊によって神の愛と力が注がれる。聖霊は真理を啓示し、罪、義、さばきについて教えてくださる。そのご性質は、精錬する火、突風のようである。イエスは罪のないお方だったが、人々の罪を負う者としてバプテスマを受けられた。神はイエスに御霊と力を注がれ、イエスは父なる神の御心を成し遂げられた。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さずに、最後まで神に信頼し、従うことだ。御霊に導かれ、満たされ続けて…。 
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