金持ちの青年役人が、どんな良いことをしたら永遠のいのちが得られるか、イエスに尋ねた。青年は善行によって救いが得られる、聖書以外にも何か良いことがあると考えていた。
永遠のいのちの“永遠の”(ギリシャ語:アイオーニス)には、神に属するふさわしいもの、神の特質という意味がある。それは、隣人に対する与える愛の実践であり、イエスご自身である。
救いはイエス・キリストへの信仰の他にはない。
青年は、“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。”という戒めを守っていると思っていたが、実は守れていなかった。特に、“父と母を敬え。”という戒めは、強調されていると思われる。
イエスは、持ち物を売って貧しい人たちに与えよと、青年に言われた。青年の心は持ち物に捕らわれており、そこには利己主義の罪があった。キリストのために与えるという真理を忘れていた。しかし、自分の持ち物を他者を助ける手段と考えるなら、その持ち物はその人の栄冠となり、天に宝を積むことになる。
キリストに従うとは、キリストが愛された人々に喜んで仕えることであり、それは、その人の問題を解決し、祝福の道を歩ませる。しかし、この青年は、隣人よりも自分と多くの財産を愛し、悲しんで去って行った。
“らくだが針の穴を通る”とは、全く不可能なことの誇張的比喩である。金持ちは貧しい人のように、救いの必要性を切実に感じることが少ないので、救われるのが困難である。地上に希望を託している人は、天国の存在を忘れがちである。富には神を忘れさせ、財力によって全てが解決されると思い込ませ、富に依存し、安住しやすい危険性がある。
信仰は自分の心の貧しさを痛感し、神に頼ることから始まる。当時ユダヤ人は、物質的繁栄を神からの祝福と平安のしるしと考えていたので、弟子たちはそれでは誰が救われるのかと驚いた。それに対しイエスは、それは人にはできないことだが、神にはどんなことでもできると答えられた。
救いは人の力ではなく、神からの恵みの賜物である。
人は自分の救いのために、全く何もすることができない。ただ主を仰ぎ見、主に助けを求めることだ。主と一つとされるのに妨げとなる罪を取り除き、キリストに全てをささげよう。キリストは祭司であられ、いつも私たちのためにとりなされておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになる。
救いは神による新生であり、神は私たちを義の道に導かれる。罪の縄目を断ち切られ、キリストと一つとされることができるのは、神の恵みのわざである。 |