まるで記録映画の様な風景が彼には視えていた。
茶色く色褪せた記憶の断片は、所々が虫食いの穴がで汚されてしまっている。
登場人物は3人だ。
彼の父親と、母親、そして姉。
彼自身はその物語の中には登場してはいない。
彼の視点全てが、その物語の世界だった。
『ほら、佳孝。父さんのお土産だぞ』
『あなた、やめて下さいよ。こんな小さな子にマッチなんて』
『何言うんだ。別に火遊びさせるってんじゃないぞ』
『舐めておなかでも壊したら…さぁさ佳君、もう寝ましょうね』
『俺が折角やろうって言うのにお前は難癖をつけて』
『酔って変な物を与えないで下さいって言ってるんです』
『何だと』
夫婦喧嘩は日常茶飯の事で、彼の頭の中ではこれが普通なのだと思っていた。
『よしくん、ねよ』
姉が彼を寝室に連れて行く。
『…ばか』
姉は彼を何度も平手で殴った。
彼自身が産まれた事によって、姉は自分が親から排斥されたと思っていたからだった。
彼が泣き出す。そうすると母親が泣き腫らした顔で彼の元にやってくる。
『彩ちゃん、ありがとうね』
『よしくんないちゃった。おなかすいたの?』
『そうかも知れないわね。彩ちゃん、お風呂はいってらっしゃい。』
『あやちゃん、ねむくないよ』
『お風呂入ったら絵本読んであげるから。ね?』
『…うん』
渋々と言った体で姉は風呂場の方へと向かっていく。
それを見送った母親は、彼を息苦しいほどに抱きしめた。
『よしよし、アンタだけは死なないでね。お願いだから…』
彼には実は兄がいて、早死にしていた事がこの母親にはとても心労になっていた。
毎夜毎夜、彼が寝ているうちに死んでしまうのではないかと心を痛めていた。
彼が寝る前には、必ずこうして息の詰まるような抱擁をする。
そして彼が泣き止むまで彼をあやして、寝床に寝かせる。
これが彼の幼い頃の日常だった。
記憶の断片のひとつである。
『おとうさん、ぴあのひいて』
『彩は聞きたいのか、父さんのピアノ』
『うん』
『佳孝も聞きたいか、ピアノ』
彼は父親に溺愛されていた。
彼の兄が夭逝していた事もあってか、彼と姉の愛情の注がれ方は一定ではなかった。
『あやがききたいの、とうさん』
『よし、じゃあ二人とも良い子にして待ってなさい』
旧い一軒家に似つかわしくない、てらてらと光るアップライトピアノに向かう父親。
彼の父親はただの公務員だったが、昔好きな女の子に近づく口実で弾き始めたのだと彼は後で聞いた。
『よしくんのばか』
姉が耳元で、彼を抱きながらぼそりと呟く。
彼がその意味を理解する事が出来ないと解って悪態をつくのだろう。
父親が気取ってピアノの蓋を開け、尤もらしく譜面台に楽譜を置く姿は異様だった。
細縁の丸眼鏡を団子鼻の上に乗せている小太りの中年男性が大きなホールで喝采を浴びながら入場してきたピアニストのように振舞っている。
『さあ、弾くぞ』
彼の父親が、唯一弾く事の出来る曲。
クロード・ドビュッシー作曲の「月の光」が流れ出した。
これがもうひとつの、彼の記憶の断片である。
*
ふとした瞬間によく想い出す記憶だ。
僕は裕福でも貧しくもない家庭で育ち、一般的な21歳の生活を送っている。
特にトラウマがあるというわけでもない。
父にも母にも、もちろん姉にも、僕はどうという感情も抱いていなかった。
反抗期にはそれなりの抵抗もした。けれどそれも高校を卒業する頃にはなくなった。
それが大人というものなのだ、と、僕は思っていた。
とりあえずと思って高卒で就職した印刷会社にも、それなりに慣れている。
友人たちのキャンパスライフも、今では彼らの直面する就職難の愚痴に取って代わった。
絶望もなければ特別な幸福感もない、これが平和というものだと思う。
そう50も半ば過ぎた父親に言ったら「夢がなさすぎるな」と苦笑された。
それなりにやりたい事だってあるにはあるが、自由になる金と時間があっての事だ。
僕にはまだそれらがない。
「スイマセン、桐谷出版の河合です」
「あぁ、君か。それ音楽準備室に運んでくれ。わかる?」
「南校舎の3階ですか」
「そうそう。よろしく」
得意先の小学校。一昨日も来たばかりだから、大体の勝手は解っている。
職員室で一人パソコンとにらみ合っている、40代くらいの白髪まじりのおじさんと喋る。
歳の離れた人間と話すのは苦手だと友人たちはよく言うけれど、僕にとっては同年代の方が苦手だ。
南校舎の入り口に近づくと、ピアノの音が流れてきた。
聞いたことはあるけれど名前は知らない曲。
ゆっくりと台車を押しながら、階段の登り始めのところまで来る。
台車に乗せてきた段ボール箱の中には、音楽の教科書がぎっしり詰まっていた。
勢いをつけて持ち上げるとダンボールを抱えて足を進めていく。
僕は運動は苦手だったけれど、仕事を始めてからは自然と筋肉がつくようにもなった。
踊り場につく度に休んでいた頃と今では訳が違う。
相変わらず、ピアノは僕の知らない曲を奏で続けている。
音楽準備室の鍵は開いていた。
なるべく隅に寄せて置こうと部屋の奥へと進んで行くと、今まで流れていた曲が終わりを告げた。
僕が適当な場所を見つけて段ボール箱を置くか置かないかの内に、新しい曲が始まる。
・・・ドビュッシーの、「月の光」。
あの父の思い出の曲が、少し冷ややかな初春の空気の流れる音楽準備室に響いてきた。
父の弾くものよりも柔らかで、上手だ。
叩き付けるようで行進曲にも聞こえるブツブツとした父の弾き方とは対照的に、鍵盤を撫でるように弾いているのだと解るその音。
僕はじっと聴き入った。
響く鍵盤の音は空気を震わせ、僕のワイシャツを震わせ、僕の全身に鳥肌を作った。
記憶が呼び覚まされる。僕の懐かしい記憶。セピア色の記憶が音の群れに寄ってたかって引きずり出されて、行き場を失って、また元に戻ろうとして足掻いている。
胸が苦しい。
拍動の音が他の人に聞こえそうなほど大きくなっている。
高音の調べは盛り上がりを見せた後また緩やかな曲調になり、フィナーレを迎えた。
息苦しさが抜けて、僕はそこでようやく演奏者を見る余裕が出来た。
廊下を出て隣の音楽室をそっと覗く。
ピアノは教室の前方に黒い巨体を構えている。そこには髪の長い女が後ろを向いて黙って座っていた。
窺ううちに、女は背筋を伸ばして息を軽く吸って気合を入れた。
ゆっくりと女が弾き始めたのは、また「月の光」。
髪がさらさらと背中から肩を越えて胸に落ちるのも気にしないで女は弾いていた。
少し心臓の鼓動が早まるのを感じながら、僕もさっきと同じように女の弾くピアノに聴き入った。
5分ほどのその短い曲が終わる頃、僕は扉を開けて女に声をかけるつもりで取っ手に手をかけていた。
「スイマセン、音楽の先生ですか」
「え?」
突然の僕の声と扉の開く音に、女はあわてて振り向いた。
薄い黄色いセーターに茶色い長めのスカート。僕と同じくらいか、少し年下に見える童顔の女だった。
「あの俺、桐谷出版の河合です。音楽の教科書、準備室に入れておきました」
「あ、その・・・違うんです」
その歳の若い女は焦っているみたいだった。僕に見つかったのがそんなに不味いのか?
「違うって、何が」
「私、先生とかじゃなくて、その、卒業生って言うか。とにかく、先生じゃないんです」
「あの、別にそんなに慌てなくても。俺、教科書運んできただけなんで」
「そっか、先生じゃないんですね。よかった・・・内緒で弾いてたから怒られるかと思っちゃって。勘違いしてごめんなさい」
そういって女は笑った。
「ところで、ちょっと良いですか?さっき弾いてた曲なんですけど」
僕の質問に女は微笑んで、ピアノに対峙すると「月の光」を弾いてくれた。
「『月の光』って言う曲です。知ってます?」
ピアノの横に回ってきた僕に、弾きながら女は聞く。
「父親が昔、よく弾いてたんで。別にピアニストでもなんでもないんですけど」
「私、この曲好きなんです。きれいな曲ですよね」
「そうですね」
僕も黙って女も喋らなくなったから、静かな音楽室にはピアノの音だけになる。
そのまま終わるまでどちらも一言も喋らなかった。
ポロン、と最後の鍵盤から指が離れると、女は僕を見ないでおもむろに喋りだした。
ずっと鍵盤を見つめたまま、言葉をつむいでいる。
「いま、私、先生目指してて。勉強してるんですけど、なかなか続かなくって。それで、飽きたらたまにここに来るんです。
家で弾きたいんだけどアパートでご近所の迷惑だし。たまにしかこないんだけど、気分転換みたいなもので。
やっぱり、またダメなんじゃないかなとか思うときもあって、今日もやめちゃおうかなって思ってここにきたんです。
そうすると思い出すんです。昔ね、お世話になった先生のこと。友達のこと。色々思い出すんです。
そうやって色々思い出していくうちに、がんばらなくちゃなぁ、って」
そこまで喋ると女は僕を見た。そして少し照れながら微笑んで、立ち上がって、部屋をでて、扉についた小窓から会釈をして、そしてどこかに行ってしまった。
僕は音楽室にひとり、生徒用の机に腰掛けたままピアノを見つめていた。
耳の奥から「月の光」と共に女の言葉が甦ってくる。
そうやって想い出を糧にして夢に向かう女が、なんとなく格好よく見えた。
僕は立ち上がって、蓋が開いたままのピアノの鍵盤に指を押し付ける。くっ、とかかる軽い圧力と共にポン・・・と高く澄んだ音が鳴った。
そっと蓋を閉めて僕は音楽室を後にする。
扉を開けた僕の目には、廊下に連なる窓から差し込む初春の日差しが突き刺さった。