陰陽

きるる、くるる。きるる、くるる。
異様な音を立てエア・コンが動いている。
僕はどうにも頭が痛いのを堪えながら授業を受けていた。
退屈で冗長な午後のひととき。
先生は黒板の前に立って、さもつまらなさそうに、今後の人生にとってまったくもって有意義ではなさそうな数式を解説している。テストは毎回追試か追追試でパスしているくらいの僕には、先生の言葉は理解がほとんど出来ない。
ふしゅううるるる。しゅううるるる。
空気か何かが抜けた音。エア・コンの呼吸だろうか。
もう秋も更けて、風が冷えて、落葉も減って、窓や廊下から差し込んでくる光は柔らかく暖かいが、真夏のそれとは違う力強さを持っていて目に沁みるようだ。
きるる、くるる。きるる、くるる。
呪文のように繰り返す音。
前の席の奴の背中に目をやると、窓の桟の影が長く伸びて彼の体を塗りつぶしていた。柿色に染まる教室に、影のストライプ。その陰陽が僕にとっては生涯で一番きれいなような気がする。
風が強くなってきたのか、窓が小さくカタカタとなった。それと同じくして、エア・コンがストップする。適温になったようだ。
僕の目に映る景色が変わった。前の席の奴の背にかかる影からは小さな人影が更に伸びていた。3cmくらいの影が柱の影の滑らかな線の上を歩いている、柱の方に目をやってもなにもない。もう一度目を戻すと人影が増えて3人になっていた。
3人の人影は寄り添っている。なにかの相談中だろうか、ごく控えめに動いているのが見えた。前の席の彼の右脇腹から左耳にかけて伸びている影の上で、ちょうど背骨の辺りで寄り添いあう影。やがて3人は彼の左耳の方へと歩き出した。
先頭に立つのは小柄な影。人型のクッキーのようだ。もっとも3人とも体型はさして変わらない。それに続く2人目は大きかった。1人目と2人目が並ぶと兄弟か親子にも見えてくるくらい体格が違う。3人目はどことなく薄い。スリムな分、前の二人よりも背が高く見えるが、身長は二人目よりやや小さいという感がするくらいでそれほど大きくはない。
彼の左耳まで到達した3人はそこで止まってしまった。
そこで影が切れて、黒板の前で喋っている先生の顔にかかっているかららしい。先生は一時として留まっているときがない。人影達にとって見れば地面が動いているようなものなのだろう。
人影達は窓の方へと戻る事を選んだ。
動く地面を見た後だからか、人影達は慎重になっているようだ。辺りを窺いながらゆっくりゆっくり先頭に立つ小柄な影に続く姿は、スロー・モーションを慣れないながらもやり遂げようとするピエロのようだった。
そこへさっと影が覆いかぶさってきた。雲だ。
緩やかに流れてきた大きな雲が教室の大部分を塗りつぶし、波がさらうかのように人影達を一瞬で消し去った。僕は慌てたけれどどうしようもない。
16:03、周りは一切数学に向かっている。先生が数式に当てはめて計算式を解説し、黒板を白く染めては戻し染めては戻しを繰り返す。僕達が理解しているかは関係ないし、僕達も結局はわかっていない。それがわかるためにはもっと時間が必要なのだ。左隣の奴が先生に指名されて黒板へ向かう。僕と同じで数学は苦手だから、足取りは重たそうだ。
16:05、xを求めれば先に進むのにチョークは動く気配がない。前に行った奴はその求め方がわからないからだ。僕もわからない。僕の興味は人影で見まだに灰色に塗りつぶされたままの教室の中で気配を読み取ろうと努力していた。先生が蛍光灯をつけるかどうか迷っているけれど、つけたら人影達はもう出てこない気がして仕方がない。早く雲が流れる事を僕は願った。
16:06、濾紙がインキを吸い上げるように、柿色が再び教室を染めた。窓から差し込む光が舞い散る埃をきらめかせている。雲が通り過ぎる前と後で違うのは、人影の姿がどこかへ消えてしまった事だ。先生が痺れを切らせて別の奴を当てる。長身の女子と入れ替わりに左隣の奴が席へ戻ってきて僕に目配せをした。苦笑いを浮かべながら返事をする。
─────いた。人影だ。
左隣の奴の胸に覆いかぶさった柱の影に、3つの影がとどまっているのが僕の目に飛び込んできた。ゆるりと影がうねって、左隣の奴が通り過ぎる。影は再び黒板に移り、3人の人影達は窓に向かって順を入れ替えながら進み始めた。先生の顔を越え、数式の波を渡り、黒板の端から端へと順調に歩いている。長身の女子は最後にグラフを描き、曲線の動きに沿って束ねた髪の毛が揺れた。x軸、3。y軸、2。表に対応したグラフはいびつさを伴って点と線が結ばれ、曲線が作られる。書き終えたその曲線上をすべるみたいに軽やかに人影達は黒板の端までたどり着いた。
そして人影達は─────動かなかった。
少し進んでは立ち止まり、また戻って相談するような風に集まる。それを繰り返して立ち往生を続けていた。人影にとってはそこにある巨大な影は壁なのだろう。そこを通るすべもなく、動きを止めていた。彼らはきっとどこかに行きたいのだと思う。それが僕にはどこなのかは正確にはわからない。けどどこか別の場所を目指している。そしてあの黒板の端の、ちょうど先生の机やマジックを入れるための棚があるところの大きな影から先には進めなくなっている。曲線を繋ぎ終えた長身の女子は、あくまでクールに自分の席へと戻り始めた。彼女は優等生だから、これくらいの問題は解けるのが普通なんだろう。先生は赤いチョークで丸を書く。その途中で、おろしたての長いチョークはぽきりと折れてしまった。勢いよく床に落ちていくチョークが軽やかにカラン、と音を立ててぶつかる。
人影はそのチョークの動きを追うように頭を垂れた。
僕にとってはそれは、諦めてうなだれているようにも見えたけれど。
長身の女子が座るために椅子を引き、くるりと振り返った。と、彼女の左胸につけられたプラスチックのネームプレートが夕陽を浴びて強い光を放った。その光はちょうどぱっくりと口を開けるように大きな影の中に落とされている。人影達が再び動き出した。僕にさよならを言うように一瞬の間をおいて、その光の入り口の中へと飛び込んだ。彼女が座ってしまって、ネームプレートに光が反射しなくなるほんの10秒くらいの事だった。入り口がなくなってしまった光の世界は僕にはもう見えない。人影達はここではないどこかへ、いくことができた。
かちん。タタタタタタタタ…。
エア・コンが再びスイッチ音と共に動き出した。
きるる、くるる。きるる、くるる。
故障しかけのエア・コンの奇妙な音。
先生が問題の解説をしている。僕が気づかないうちに、折れたチョークは拾われたみたいだ。気がつけば僕の頭痛は消えている。先生が僕を眠たそうな目で睨む。
「おい、山崎。次の問題を解け」
「ああ…わかりません」
「お前はボーっとしてるから、聞いてなかったんだろ。5分くらい集中できんのか」
「次は気をつけます」
「目、あけて寝てたんだろうな。ははは」
時計を見る。16:17。もうすぐ授業が終わる。いつも通りのつまらない数学が、いつもと少し違った余韻を残しながら、終わろうとしている。

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