ゲーム

私は男によって地下室へと通された。
男は私の20年来の友人である。大学の4年間を終えた後、彼は企業へ、私は大学に残り経済についての研究を続ける事になった。
先日買い物の折に彼と彼の奥方に会い、今日此処へ招待される運びとなったのだ。
地下室は防音効果が施され、扉が二重になっている。
開閉時には気密性の高さ故か、映画館の扉を開ける時と同じ様な軽い手応えをもって開くのだ。
更に、小さな掛け金が3つ、大きな南京錠が1つ、暗証番号つきの電子ロックが1つずつ付けられている。
何故こんなにも頑丈で大層な部屋を地下に作ったのかと彼に尋ねると、彼は少し間を置いてから、クラシックやオペラを聴くのだと控えめに答えた。
確かに、天井まで届く作り付けの棚にはレコードやCDがぎっしりと詰められているし、部屋の奥にはコンポーネント型のプレイヤーがどっしりと居を構えている。
彼は丁寧に左手を差し出し、私を部屋の奥の側に導いた。合皮らしいモスグリーンのソファに深々と私は腰を下ろす。
部屋の中は蛍光灯の厭らしい光で充満し、不安を掻き立てた。灯りが必要ならばもっと良いものが幾らでも世の中にはあるではないか。
私の友人は余り趣味が良いとは言い難い。何処となく中途半端なのである。
現に今も、髪には丁寧に櫛が入れられ、カーキ色の細身のパンツにはピッタリと折り目が付けられているにも拘らず、ピーコックグリーンのワイシャツにはアイロンも当てられていない。
そういう少し茫洋とした所も彼の魅力ではあるにはあるのだが。
簡潔に言えば私は蛍光灯が嫌いなのである。蛍光灯に対しての悪口なのである。


「何か飲むかい? いい日本茶があるし、コーヒーでもいいけれど」
舐める様に棚の下段に並べられている本の背表紙を見ていた私に彼は問いかけた。
彼は此方を見ていない。エア・コンのスイッチを入れ、温度を調節し、換気扇のスイッチを入れ、空気洗浄器のスイッチを入れている。
「なんならアルコールを持ってくるかい? テネシーならあるよ」
様子を窺っているようである。媚を売っているようでもある。
私はアルコールを辞退し、紅茶があれば欲しいと彼に伝えるに留めた。
「紅茶でいいかな? もし他に飲みたいものがあれば用意するよ」
特に無いよ、紅茶で構わない。
「本当かい? 本当に遠慮しないで言ってくれよ」
遠慮なんかしてないさ。どうしたんだ?
「どうもしてない、ただ君が、久々で僕に遠慮してたら嫌だっただけさ。紅茶だね? 直に持ってくるよ」
一気に捲くし立てて彼は部屋を出て行った。
何をあれほど神経質になることが有るだろう? 元々そういう人間ならば私も疑いはしなかったが、彼が私に何か厄介なことを相談してくるのではないかと思った。
厄介と言うと、金か恋愛に関連したことである。借金の連帯保証人になってくれとか、妻と別れるのに一役買ってくれとか、そういった類の相談や頼みごとをするが為に神経質になっているのであろうと私は考えた。
参ったな、と呟いてみる。
別に落胆するほどでもないが、私は厄介ごとが大嫌いなのである。
相手は友人であるから聞きもしないで無碍に断る事はしない心算ではあるが、極力自分の手に余る事はしないようにしている。
出版物などへの寄稿や解説文、講演会など、何らかの期待を他人にされるような手合いが一番苦手で、それは私自身が相手に求められるような物を持っていないことが大抵なのだ。
期待されても当てにされても困るし、相手も落胆する。
先ずは相手の話を聞き、自分の中で精査してから決断を下すのが宜しい。私はそうシュミレートした。
そこへ唐突に彼は戻ってきた。手には紅茶とチョコレートクッキーを乗せた盆を持って。
「やあ、君はアールグレイが好きだったかな?」


久々に会った人間同士がするお決まりのパターンとして、私と彼は互いの近況について話を暫くした。
或いは私の今書いている論文についてだったり、或いは同窓の誰某の音沙汰についてだったり、或いは彼の出世の具合についてだったりした。
ひとつの話題が尽きれば、また別の話題に移る。2時間は話し込んだのではないだろうかと思うが、生憎ここに時計はなく、話の合間に腕時計を見るのも憚られたので実際の時間については定かではない。
彼の暮らし向きは良くも悪くもない様であった。地下室を作るだけの余裕がある訳だし、子供はいないがそれなりに幸せだと彼は話した。
ところで、と、折を見て私は彼に攻撃を仕掛けた。
ひょっとして君は私に何かあって、ここへ呼び出したんじゃないのか?
「何か? そうか、何かか。何かあって───」
大変に気まずそうな間が開く。
「───何かなくちゃ、友達を呼ぶことはできないわけじゃないだろう?」
ふむ、そうだね。
やはり彼には何か魂胆がありそうである、と私は心中で呟いた。
「それに君は、何と言うか、頼まれごとが嫌いじゃないか。僕はちゃんとわかっているつもりだよ」
勿論。君は私の事を良く知っているから。
然し誰も『頼みごとがあるのでは?』とは聞いていないのに、彼はどうして喋ってしまったのだろう? 彼は根底では純粋な人間であると言う事が晒されただけである。
少し青ざめた顔で貧乏揺すりをしつつ、彼は自分の紅茶を啜る。眼は此方を向かない。何処かしら遠くを見遣っている。
前のめりになっている所為だろうか。三白眼で何かを見詰める彼は異様な雰囲気を漂わせていた。
まあ、頼みごとでなくてもだよ。
「うん?」
彼が此方を向く。口元だけで微笑を作る。眼光は少し柔らかになった様だ。
柔らかになったと言うか───生気を失ってだらしなくなっている。
頼みごとでなくても、相談だって受け付けるよ。場合によりけりだけれども。
「・・・うん、そうだね。ありがとう」
視線を床に落としてそう呟いた彼は、ぐっと一息で紅茶を飲み干した。
「実は妻のことなんだけれどね」
矢張り不倫か、と私は思い、彼の告白を受け止める気構えをした。


「あいつは元々ワーキングガールとしてうまくやっていたんだ。でも、僕と結婚する時に家庭に入るって約束をした。
それから2、3年になるけど、短大でのお嬢さんの割にはうまくやってると思うよ、ホント。
そつなく色々こなしてくれるし、子供は当分先でいいって言って、時間の空いた時にはデートなんかもするんだ。
それで最近知ったんだけど、あいつゲームが好きなんだ」
ゲーム?
「うん。TVゲームでね、結構手当たり次第にやる割に、僕じゃ勝てないこともある位だよ。
パズルでもRPGでもレースでもなんでもやってる。家事以外の時間は全部ゲームじゃないかって思う。
でも実際はそんなこともなくて、ゲーム慣れしてると言うか、順応するのがうまいみたいなんだ」
奥さんだけじゃないさ、子供なんか凄いのが居るだろう。
「まあね。凄いと言ってもその辺には勝てないさ。
パソコンのオンラインゲームなんかもやる。そこで友達も作って、飯の時に話してくれたりもするよ。
メールとかチャットで結構仲良くやってるみたいだ。もう40に手が届くような女がだぜ? 信じられるかい?」
別に良いんじゃないかな、多いみたいだしね、そういう人。
楽しんでるんだろ? 彼女自身はさ。
「うん。すごく楽しんでる。僕が外にいる間充実してるなら、それはいいことだと思う」
けど、余り友達が増えても困るって事か。
もしかしてその『友達』の内のひとりと親密になってしまったのかな?
「うん? ───ああ、不倫してるんじゃないかってことか、そうじゃないよ。僕の心配ってのはそういうのじゃない」
違うのか。
「あいつはそういうの好きじゃないみたいなんだ。淡白なんだね。だから大丈夫だろう」
じゃあ、なんなんだ、君の気になってることって言うのは。
「元々のめりこむと抜けられなくなるタイプなんだ。けど、今回は中々重症で」
彼女が、ゲームに、だね? どっぷりと仮想世界に浸ってしまっている。
「現実と非現実がごちゃまぜになってしまうってことはあるのかな、つまりゲームと普段の生活が?」
彼女がそうだって言うのか?
「・・・」
そうなのか。
「あるのかい? 区別がつかなくなってしまうことって」
ある。
勿論、平常時にと言う事ではなくて、精神的に病んでいたり、混乱している人間に起きる事だ。
「この前君にスーパーで会った時、あいつが言ったんだよ。『あの人、アオね』ってさ。」
アオ?
彼の言葉は段々に不可解な物と為っていく。
私には彼の心配事とやらに皆目見当が付かない。然し私を相談の相手に選んだのである。
彼にとっては私が最良の相手であったのであろう。だとすれば、私に利害が関係しないとも限らない。
慎重に聞いて行かねば私が不利益を被る可能性もあると踏み、気持ちを落ち着かせる為に紅茶を一口啜った。

『あの人、アオね』
『アオってなんだい? 青い服なんか着ていたっけ』
『違うのよ、この前やってたゲーム憶えているかしら。パズルゲーム』
『君がやってたゲームの事なら憶えているけど』
『わたし緑と黄色が好きなの。だから青色が来るといつも先に消してしまうのよね。わかるでしょう?』
『それと彼とどういう関係が?』
『あの人は青なの。わたしが嫌いな青なのよ。邪魔なの。消してしまいたい』
『彼は僕の友達だよ』
『ごめんなさい。でもダメなの。青色は消すわ』

さっぱり意味が解らない。私は何故青なんだ?
「僕にも解らないよ。ただ、その日からあいつは毎日『青の人が来たら教えてちょうだい』って言うんだ。
狂ってしまったんだと思って、病院には行かせてるんだけどさ。僕も頭がおかしくなりそうだよ」
今、奥さんは何処に?
「病院だ。たぶん医者と話をしてる、それが終わったら薬を貰って夕方頃帰ってくる」
腕時計に目をやる。15時53分。───鉢合わせない内に帰らなければ危険だ。
部屋の中に存在する多くの機械類の唸りを聞きながら私は焦りを感じ始めた。
「朝食を摂りながら、夕食を食べながら、ゲームをしながら、TVを見ながら、風呂上りに、ベッドで・・・。
あいつはゲームと青色である君の話をする。取りとめのない話さ、殺意とか怒気とか、そんなものがいっそ含まれていたらと思う。
パンジーが咲いたって言うのと同じ口調で『青色の人は元気?』と聞くし、隣の奥さんにお裾分けを戴いたって感じで『青色の人は独身?』と聞く。
雨が降りそうで嫌だ位の雰囲気で『青色の人は子供がいるのかしら?』と呟くし、ニュースで事件を見たとき位の驚きで『青色の人ってそうなの』と受け答える。
コンパなんかで知り合いの知り合いについてレクチャーしてもらっている感覚なんだ。おかしいだろ? おかしいよな?」
彼は少し脳内で混乱を来たしてしまっている様であった。
その時の様子をそっくりそのまま思い出して恐怖しているらしく、膝の間で握り合わせられた手は白くなっている。
視線は私を向かず床に落とされ、エア・コンが効いている室内で汗ばむほどなのである。
「今じゃあいつと同じ空間にいるのも恐い。でもいないと何かしそうで不安になるだろう。もう解決する方法がないんじゃないかってくらいさ」
彼は既に空になった紅茶椀に口をつけ、中身が無いのに気が付いて戻した。
然し恥ずかしさを感じて照れ笑いを浮かべる様な余裕も無い。無表情のまま、少し寂しそうにも見える顔つきだった。
沈黙。
ジジジジジジジ・・・。
ヴィー・・・。
機械類の音だけが響く。
否。
私の心臓の音も、私の内部で響いている。
16時2分。
小さく息を吐いた彼は漸く私に対して目を向けた。
「解決する方法はひとつだけだ」
そう低く、抑揚の無い声で呟き、口元に笑みを浮かべた。

コンコン・・・。

私はソファから跳ね起きるようにして立ち上がり、ドアを凝視した。
ここには私と彼とがいる。この部屋は地下室である。地上には彼と彼の奥方の家がある。
詰まりあの二重扉の向こう側には───。

コンコン・・・。
コンコン・・・。


『ようこそ』

Fin.

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