ディープブルー・エッセンス

夜が明け始めた。
深い深い紺色の宝石を通してゆっくりと光が満ちていくような空の色。
地平線だけは、まだ眠りのなかにある街の中で唯一はっきりとした目覚めの証を見せている。
いや、それは正しくない。僕は正に今その景色を眺めている。僕もこの街の中で起きている。
開け放った窓からは湿り気のある冷たい空気が流れ続けていた。
直に雨が降り出すだろう。つけっ放しのラジオから流れてくる天気予報はそう言った。
レースのカーテン越しに吹き込む風。
それは部屋の中の淀んだ空気を掃き清めてくれるようだ。
見慣れた僕の嫌いな街も、この時間だけはなんとなく少しだけ違った感じを見せる。 人々は眠っているから気がつかない。僕だけがそれをキャッチできる。
ラジオが音楽を奏で始めた。古いジャズナンバー。昔の人が憬れていたアメリカの匂いがする。それを象徴するのはジャズであったり、バーで飲むバーボンだったり、雨に濡れたコンクリートが発する匂いだったりする。それら全ては関係はないけれど、僕に懐かしい感じを残す。

どっちが先かはわからない。
僕は多分後者だと思うけれど、いつからか僕は眠れなくなってしまった。
後者というのは、夜明けの出す雰囲気が気になって眠れないのか、眠れないから夜の出す雰囲気が気になってしまうのか、と言う事だ。
僕の住むアパートメントの管理人さんがハーブティをくれる。
「リラックスと言うかね、あなたはもう少しストレスを抱えない事が大事なのよ。ちょっとしたことで起こるらしいから。きっとね、仕事やめたんでしょう、バランスがね。」
ハーブティは試したけれど効果はなかった。僕も気にしていない。
眠れるときは眠れるだろうと思っているからだ。
「いいかい、無理して眠ろうとすると緊張してしまうよ。それは余計によくないことだ。だから、いいかい、そのうち眠れるだろうと思って過ごす事が大切さ。けど僕は君が眠りたいという思いを手伝う事もできる。つまりは薬さ。薬をね、君に渡す事だってできる。」
そう言ってくれた知り合いもいた。薬が嫌いな僕はそれを断った。眠れなくても困らない。眠れなくて困るのは、きちんとした社会に生きている人たちだ。その人たちにあげるべき薬を貰う立場に、今の僕はない。
空はベッド脇のサイドボードに置いてあるスタンドの光がいらないくらいの明るさになっている。
ぱちん。
電源OFF。
それでも部屋の中は薄ぼんやりと明るい。
紺碧が濃い青色になって、地平線は白く変化している。
真夜中にぽつんとつけたままのテレビから漏れてくる明かりのようだ。けれどそんな人工的な光よりも寒々とした感じはない。
時々風でレースのカーテンが揺れる。鳥の刺繍のしてある白いカーテンだ。鳥が四つ葉のクローバーを嘴にくわえて羽を広げている。四葉のクローバーを持っていくあの鳥はきっと幸せになるだろう。その幸せは、僕の頭の中で描くかぎりすべて前時代的なものになってしまう。それは刺繍の鳥にとって不幸な事だろうか?ひょっとしたら社会に出てキャリア・ウーマンになりたいと願っているメス鳥かもしれない。けれど僕はそうは思っていないのだ。
「今年の大卒者の就職率は63%におよび・・・。」
社会ニュースだ。ラジオは1時間前にも同じような事を言っていた。
世界ではいろいろな事が起こっているだろうが、日本はまだ眠りの中だ。だから伝えるべき人間がいないうちにはマスコミも喋ったりはしない。必要のない事は言わない。ずるいと言われようがきっとそれは人間が生きているかぎりマスコミもやめないだろう。
遠くで救急車のサイレンが鳴っている。
こうして日本でだって多くのことがいつだって起こっているけれど、知りたいと思わなければ何も知らないで過ごせるような世の中なのだ。だからみんな自分だけの情報網を持とうとする。今や情報は買うものであって垂れ流されるものではない。高度経済成長期のような「みんな一緒」は通用しない。
空は雲で覆われている。
太陽のないうちにあった紺碧は、いまでは登別カルルスのような乳白色だ。
そのうち雨が降るだろう。
氷の粒がくっつきあって重たい結晶となって降ってくるにちがいない。僕にとっても大地にとってもそれは恵みの雨だけれど、みんなは言う。
「雨なんか嫌いだ。」
ガールフレンドは特にそうだ。
「だって考えてもみてよ。あたしスカートが好きなの。それで、ヒールとストッキングをはくでしょ?雨が降ったら台無しだわ。それに傘も嫌。折り畳み傘なんて最悪よ。だって雨が降るかもしれないってびくびくしながらいるって事でしょ?そういうの嫌なのよ。」
ラジオがポーンと音を立てて6時になったことを知らせた。
僕は考え事から離れられないまま、キッチンに向かってコンロで湯を沸かす。管理人さんから貰ったハーブティは、眠れない事がわかっても飲むことにしている。トースターでパンを焼いて、ベーコンを巻いたアスパラをフライパンの中に転がす。焼き色がついたら皿に上げて今度は同じフライパンで目玉焼きを作る。じゅう。
眠れない時間が多くなって、いろいろな事を丁寧にやるようになった。
仕事を多くしていたときは朝食を摂ったことなんて一度もない。最初はトーストを作るだけだったのに。空腹を満たすだけの食事じゃなくなったのは不眠のおかげだ。
オレンジマーマレードジャムを塗ったトーストとアスパラのベーコン巻きと目玉焼きができた。葉を入れて用意しておいたポットに湯を注いで待っている間に冷蔵庫からサラダを出す。キュウリとハムとチーズとレタスのサラダ。
そういえばガールフレンドは野菜も嫌いだ。
「レタスなんか特にそうだけど、青虫を食べているような感覚があるのよ、口の中に広がる野菜臭さが。それがたまらないの。堅くてまずいわ。よくあなたそれで平気ね?」
青虫の味って、君は食べた事あるの?と聞いたら、彼女は子猫のように目を丸くしたあと黙ってテレビで流れている映画に集中してしまった。彼女の好みは一貫している。けれど僕とは合わない。良いとか悪いではなく単純に価値観の問題だとは思うけれど、彼女の中で僕はいつも悪者だ。
2分半置いたポットはツンとしたミントと甘ったるい花の香りをテーブルの上から部屋中に広げている。窓から来る郷愁とは正反対のものがこのハーブティだと思う。冷たいままのマグカップに注ぐと、薄く湯気を立てて枯れ葉色の液体が僕の食欲をそそった。朝食の始まり。僕の朝の始まりでもある。
雨はまだ降らない。けれど直に降るだろう。乳白色の空はだんだん灰白色に変わり始めているからだ。ゆるゆると変わる空を見つめながら、1時間半かけて全てを飲み込む。大切な事は時間をかけなければならない。それは食べ物だろうと、恋人との関係だろうと、人生についてだろうと、時間の使い方だろうと、買い物だろうと同じことだ。

メールチェック。
10:03現在、新着メールは12件です。
朝食で使った食器なんかを洗い終わってシャワーを浴びたらすぐに時間なんて経ってしまう。パソコンに向かうのはシャワー後の日課だ。
フリーのライターになって2ヶ月、昔馴染みや契約している出版社からの原稿依頼で僕は死なずにすんでいる。3ヶ月前に編集長がある日突然いった。
「君さ、ビョーイン行ったほうが良いよ。」
「病院? 」
「うん、今日は昼ドンでいいからさ、昼ドンなんて古いか、まあとにかく行っといでよ。僕があとは面倒みますから。」
「俺は大丈夫ですよ。」
「ここん所ろくに寝てないんだって?聞いたよ。うん、なんだ、アンタが倒れたらうちも困るしね。とりあえず行ってらっしゃい。」
僕は編集長の紹介で素直にバスに乗って隣町にある病院に行き、診察してもらった。
そして診断書と睡眠薬を受け取って帰った。それで満足だろうと思って1週間ほど放って置いたら、また前触れもなく編集長が言った。
「ダメじゃないの、診断書見せてくれないとさ。」
「ああ、病院のですか。」
「そうだよ、渡辺に聞いたらさ、渡辺ってこの前の医者だけど、なにも言わないから電話して聞いちゃったよ。」
「はあ。」
「フリーになる気ないかな。そしたらゆっくりできるしさ、ね、いい話でしょう。僕も仕事回してあげるしね。お願いしますよ。おい吉見。お前藤沢の後任だから。『しば屋』行ってレポとってきてよ。」
あっという間に決まっていた、と言うよりも打ち合わせ済みだったらしい。
僕はそのとき手がけていたグルメレポだけやって、出版社から去った。編集長の判断は間違っていないと思う。定職についているという安定感はなくなったけれど、僕が疲れていたのは本当の事だし、編集長も悪気があって僕を解雇したわけではない。もっとも編集長は働きすぎのストレスで僕が眠れないのだと思っていたようだ。
本当は違う。
仕事はとても充実していたから8年やっていても飽きる事はなかったし、人間関係に関して言えば特に不満もない。仕事のできない後輩もいてイライラする事だってあるけれど、そんなことでいちいち目くじらを立てていても仕方がない。そういった事はどこにだって転がっているものだ。スーパーで買い物をしていたって、トラブルが起こらない保障はどこにもない。今こうしてメールチェックをしていたって、10分後に僕がどうなっているかは僕にもわからないのだから。
原稿依頼が3件。
メールマガジンが5件。
迷惑メールが4件。アダルト系が3件、裏ビジネス系が1件。
『★カワイイ娘が総勢1609人!今でもゾクゾク増えてまぁ〜す^^★』
『【!完全会員制!】アナタの欲望(ねがい)、叶えてくれるヨ♪』
『†††今話題の《合法ドラッグ・LinDa》売ります†††』
『こんにちわ。突然ですが、私と割り切ったお付き合いをしませんか?・・・。』
これらのメッセージを消去しますか? 
はい。
メッセージを消去しました。
情報が飛び交っているこの国のなかでも、とりわけインターネットは群を抜いて沢山の情報が転がっている。僕もしょっちゅうその中に飛び込んではネタを拾ってきたり知識を溜め込んだりしている。それが本当の話か嘘の話かを見分けるのは自分自身の問題だから、とても多くの嘘がそこここにある。そしてそこにいる大部分の人は、情報の真偽がわからないままに鵜呑みにして踊らされる。本当に情報を欲しがっている人間には、真実を教えてくれる人間はいない。
シャンソンの流れるラジオはキーボードを打つ音とクリック音を紛らわせてくれる。エディット・ピアフ。
雑踏の中の人の声は嫌いだけれど、歌声は安心する。そのもの悲しい声にあわせるように空が泣きはじめた。テレビのサンドストームに似た音が外から響き、空気が僕のむき出しの腕に鳥肌をたたせる。僕は母にもらった古いシャツを半袖のTシャツの上から羽織った。シャンソンと雨はとても相性がいい。シャンソンと紅茶も相性がいいと僕は思う。シャンソンも雨も紅茶も、女性的な香りがする。あくまで僕の私見だけれど。
オレンジの香りのする紅茶を淹れた。
詳しいことは知らないけれど、おいしいと言うことだけは確かだ。
取材の関係で知り合った友人にもらっただけで何も考えずに飲んでいた僕に、遊びにきた別の友人が見かねて一度淹れてくれた事がある。本当に美味しい紅茶を彼女は淹れてくれた。実は趣味が高じて喫茶店まで開いている人だったらしい。淹れ方を教えてもらったものの、未だに彼女の紅茶には勝てていない。僕の性格上、お湯を入れてからの数分が待てないからだ。少し席を立って別の用事を済ませている間に砂時計の砂はすべて落ち切って、彼女の淹れてくれたような澄み切ったブラウンより濃くなってしまう。僕はそのほんの少し濃い紅茶をすすりながらネットニュースを見て情報を集める。

パスタを茹でた。遅めの昼食をとるためだ。
『脱サラ 蕎麦打ち始めました』と言うサイトに熱中していたら昼をとっくに過ぎてしまった。13:27。地方のニュースを聞きながら深い鍋にたっぷりとお湯を沸かす。
鱈子のスパゲッティ。僕の好物だ。
2腹の鱈子の中身を取り出して、マヨネーズ、ケチャップ、牛乳と混ぜて伸ばす。ガールフレンドには不評だった。わざわざ作るまでもないものだし、もっと美味しいのを出す店に行けばいいと考えている。彼女の中では、食事は誰かが作るものか買って食べるものらしい。お菓子くらいは作ることもある。ただしそれは食べるために作るのではなくて、作るために作るのだという。暇つぶしの一環だろう。
7分、キッチンタイマーが僕を呼ぶ。
パスタはタイマーのおかげで茹ですぎることはない。紅茶の場合は、砂時計の雰囲気が好きだからつい砂時計を使い、つい蒸らしすぎてしまう。
笊に空けて湯を切ったら、フライパンで鱈子のソースと和える。軽く火を通さなければ、ソースと麺はうまく絡まない。いい香りがしてきた。重たいパスタはそれら同士がくっつきあってなかなか混ざらないけれど、ゆっくりとほぐして混ぜ合わせてから皿に移す。きざんだ浅葱と細切りの海苔を散らすと彩りも鮮やかだ。空いたコンロに牛乳と砂糖を入れたミルクパンを乗せて火にかける。かき混ぜながら弱火で温めて、細かい泡が出てくる頃にカップに移し変えた。最後にブランデーを少しだけ。鱈子のスパゲティとブランデー入りのミルク。
雨は強くも弱くもならず、ノイズを送り続けている。その音は時折調子を変えながら降り続ける。
ひたひた、ひたひた。ひた。ひた、たんひたひた。ひたたん、ひたひた。たん、たん、たん。
昼食をとりながら僕は考える。
際限なく湧いては消え、どこかに消えていく。
鍋で牛乳を温めたときに立ち上る細かな泡のことだ。
泡たちは何かに呼ばれるかのように、ひっきりなしに出てくる。僕は考える。あれはきっと、何か大きな力が呼んでいるのだ。泡に意思はない。現れたくないなどと拒否する事もできない。それはまるでこの世界に生きる人間を表しているような気さえする。世間の風潮で仕方がなく流されなければならない事が世の中にはある。世の中という大きな力は目には見えないけれど確実に僕たちの生活に深く根付いている。生活だけではない。心の中にも巣食っている。僕がこうして考えている事さえ、時には僕自身の考えではないのではないかと考える事もある。それは捻じ曲げられた意識なのだ。
事実は無意識に捩じ曲げられることもあれば、意図的に捩じ曲げられることもあることを僕は知っている。人は考えて欲しいように考えてもらうために、時には嘘をつく。僕も、個人的な範囲から誌面で紹介する記事に及ぶまで歪曲した事実を伝えることがある。
すべては相手に良く思ってもらうためだ。そういった気持ちは人ひとりから大企業、国に至るまで同じように持っている。残念な事だけれど。僕はそんなことを考えながらミルクを飲み終え、鱈子のスパゲティを残さず食べた。スプーンでできるだけソースを掬うくらい、残さずに。

『あなたがそれでいいって言うならそうすればいいわ。けど、あたしはついていきませんから。わかるでしょ、仕事してるあなたとなら結婚してもいいのよ』
「仕事はしてるよ、今だってね。」
『揚げ足取らないでよ、違うわ、そうじゃないの。父さんがうるさいの。お願いだから、きちんと考えてちょうだい』
「考えてるさ、眠れないって言ってもまったく寝てないわけじゃないし、仕事もちゃんとしてる。フリーっていうのが君のお父さんは気に食わないんだろうけど、いずれは戻れるんだし、第一僕が結婚するのは君であって君のお父さんじゃない。」
『あたしの立場ってものも考えてよ。』
「考えてるって。」
『考えてるなら病院に行って、きちんと治療して。別に恥ずかしい事じゃないわ、ただ眠れないだけでしょう?イボ痔だとか、水虫だとか、性病とは訳が違うの。心の病は。あなただって、前にうつ病の取材してたじゃない。わかるでしょ?まずは相談しないと。』
「うつ病の取材ったって、あれはさわりだけだよ、そのときの医者も言ってた。耳慣れない言葉ばかりで説明してもうまく伝わらないだろうから、形でわかる程度でいいって。」
『そんな事はどうでもいいの、そういうことをいってるんじゃないのよ、あなたは仕事はちゃんとできるから、あとは不眠を治して仕事をすれば結婚できるの。』
「君がお父さんを説得するって事はできないの?」
『何でそんなこと。それにこれは父さんだけの問題じゃないわ、私だってあなたにはきちんとして欲しいもの。確かにフリーだってライターはライターよ。けどいつまでもそんな風にふらふらもしていられないじゃない。それに紹介しづらいのよ、父さんの部下の人なんかには・・・。』
「そりゃあ、君のお父さんの会社は堅い所だし、君のお父さんはそれなりの地位の人だって聞いてるよ。けど君は君だろう?それとも僕が気に食わないのか?」
『もう何でもいいからとにかく治して。お見合い話は減ったからいいけど、結婚はいつかって、部下の、家にいらっしゃったときとかにね、うるさいのよ本当に。いえないじゃない、精神病で、家に引きこもって、ライターで、定職にはついてないですなんて・・・。』
「精神の問題だって決まったわけじゃないし、突然眠れるようになるかもしれない。早合点しすぎだよ。それに取材のために家をでる事だってしょっちゅうだ。君みたいに休日出勤とか残業はないけど、同じくらい働いてるつもりさ。」
『内容じゃないのよ、ライターだって事はもう父さんだって受け入れてるわ、けどずっと家にいたんじゃ。わかってよ。そろそろ切るわ。これからまた企画会議なの。あなたに構ってばかりもいられないんですからね。じゃあ。』
電話はひどく大きな音を立てて切れた。
まるで鼓膜が破れたときのような音だ。僕は昔、耳に野球のボールが当たって鼓膜が破れたことがある。ぱん。痛みと共にその音を聞いてから手術をするまで、僕はイヤホンが右の耳だけで充分だった。
ガールフレンドからの電話だった。
疲れた。
思わず僕は切れた電話の受話器を戻す事もなく、電話機の前の床に座り込んだ。自然と溜息が出る。
彼女の言いたいことはわかる。僕だって早く復帰したい気持ちはある。けれど医者に行く事が怖い。
歯医者が怖いというのとは違う。それはどちらかと言うと、ものすごく酷い頭痛がするけれど、脳腫瘍ができているといわれるのが嫌だから行く気になれないのと似ている。相手の気持ちは知りたいし、自分の気持ちも伝えたいとは思うけれど、断られたり嫌われたりするのが嫌で告白するのがためらわれるのとも似ている。つまり、真実を知るのが怖いのだ。その真実という物は、自分自身にとって有利だろうと不利だろうと変わる事はない。だから知りたくない真実はあえて見て見ぬ振りをする人もいる。知らなければ、自分にとってはなかったことと同じになるからだ。ただし真実そのものは消えてなくなる事はない。だから見ぬ振りをしたことでまた窮地に追い込まれても、その人自身は泣くことしかできない。
僕はもう一度ゆっくり、深く、溜息をつくと、受話器を元に戻した。
15:41。
彼女は毎日、午後3時過ぎに電話をかけ、僕を叱責して、また忙しそうに電話を切る。これが、彼女の日課。
ユニットバスに向かって洗面台の蛇口をひねり、勢いよくでた水で顔を洗う。
彼女との電話の後はいつもそうだ。なんだか自分の中に大量のヘドロがたまったような感覚に陥る。その気分を少しでも和らげようと、僕は景気よく水を出しながら顔を洗う。それが済んだらまた湯を沸かしてハーブティを淹れる。ミントが気持ちをすっきりとさせてくれるからだ。それとは別に、減りが遅いと管理人さんにちゃんと飲めと急かされるのもある。
彼女はひと月に一回葉っぱを持って僕の部屋に来る。そしてまだ残っていると、飲みたりないから眠れないのだという。無くなっていると心がけが足りないのだと諭す。だから最近は何かにつけて飲み、あと葉の残りが少しだけになったところで止めておく。そして管理人さんと一緒に、最後のお茶を楽しむようにしている。そうすれば管理人さんは満足げにハーブティを飲み、新しい葉を置いて満足げに「しっかり飲むのよ」といって帰る。僕は怒られずに済み、管理人さんを不快にさせたことで気まずくもならず、管理人さんも満足できる。残念ながら本当に彼女の望む、不眠の改善にはならないけれど。
雨の降り続けるベランダに出て、もう5月半ばだというのに白い息を吐きながら、淹れたての暖かいハーブティを飲んだ。甘い香りとミントの爽涼感が、子供用の風邪薬に似ていると思った。僕をささやかだけれど落ち着かせてくれる薬だ。けど薬だと思って飲むととたんに不味くなる。なぜだろう。飲んでいるのはいつものハーブティだ。変わったのは僕自身。当然のことだけれど、僕は僕によって生きているんだと実感できる。自分の気の持ちようだ。自分のスタンスを保ち続けるには、自分がまず強くならなくちゃいけない。
ひたひたひた・・・。
たん、たんたん。
ひた、ひた、ひた・・・。
ハーブティの入ったカップを空にしても、僕はしばらくベランダから外の景色を眺め続けた。彼女に対して僕が抱いている感情は、僕にとってもいいものではないから頭を冷やしたかった。僕は彼女より大人だ。年齢でいってもそうだし、人生でもそうだと思う。僕が冷静にならなければ、いけないのだろう。体も、頭も冷えた僕は部屋に戻った。ラジオからは音楽が流れている。彼女の好きなミュージシャンの曲だ。
ぷつん。
TURN―OFF。
明るいポップな歌を歌っていた男性ヴォーカリストが黙った。
声を奪われたラジオは死んでしまった。
突然静寂に包まれた室内には雨の音だけが響く。
ひたひたひた・・・。
たん、たんたん。
ひた、ひた、ひた・・・。

予定が遅れたけれど、朝刊をポストから取り出して僕は丁寧にそれを読み始めた。
僕には新聞を読むときの癖がある。一面を見て、三面記事を読んで、地方面を読んで、それからまた一面から順繰りに読み直す。まず手近な事件がないか、主要な事柄は何かをチェックする癖がついてしまったのだ。
『三重県で引ったくり相次ぐ』
『怪現象? セミの大量発生の謎』
『【暮らしの声】山梨県在住 福山朋子(46) ゴミ問題に物申す!』
『政治で暗躍する「某企業社長」の影!!!』
『中国国境で不審船 東南アジアの船舶か』
『【はぐくみ】おじいちゃんありがとう なかのだいち 6さい』
僕は株価から投稿欄、連載小説に、広告まで目を通す。勿体ないと思ってしまうからだ。せっかく買った情報は全て吸収する。それは一般紙でも、スポーツ紙でも、経済紙でも、海外の物でも一緒だ。僕は先輩の教えに従って、今でも5つの新聞を取っている。
「情報はナガレモン、イキモンだからな。すぐに染まっちまう。ホンモノを見るにゃ、ひとつで満足しないこった。」
先輩は僕らのデスクの二つ下の階で、政治部にいた人だ。その筋では有名な人だから、僕は本当に信頼している。それはある意味では、うちの編集長よりも信用の置ける人だ。
一通り新聞を読み終え、パソコンを起動させる頃には雨が弱くなっていた。風に乗って入ってくる水のにおいはまだ強く漂ってくるけれど、ノイズは聞こえてはこない。窓際に立って様子を見るとあらかた上がってしまっているようだった。僕はワープロソフトとブラウザを立ち上げて、情報を集めながら記事を書き上げていく。なにも邪魔する物がない分、さらさらと草稿ができあがっていった。3本ある原稿のうち2本をあらかた書き上げて、メールに添付して依頼人に送る。失敗の手間を減らすために、僕は一度草稿を書いてそれにチェックを入れてもらうようにしているのだ。相手方の反応は様々だった。特に忙しい相手にやったときには、次にこういうことがあれば仕事相手を変えるかもしれないと脅されたこともある。大抵の人には少々煙たがられる。そのかわり苦心して書き上げたものがまったくの無駄になることは割合少なくなった。
3本目のものはどうしても取材をしなければならない。
僕はやはり草稿まで書き上げて、必要な写真などの細かな部分の指定を欲しい、それともカメラマンがつくのか?というようなことを書いたメールに添付して送信した。そこまでやって気がつく。
もう陽が落ちて、部屋はディスプレーの明かりだけで照らされているようなものだ。僕はパソコンを一旦シャットダウンして、部屋の明かりをつけた。
蛍光灯が目に痛い。
白い無機質な明かりに照らされた部屋と僕は、なんだか電気を点ける前と違うもののようだ。ついでに窓も閉める。19:02。
ぱちっ。
僕はラジオを再びつけてチャンネルを選び、『名曲の調べ』に耳を傾けて、読みかけの本のページを開いた。不条理な世の中に翻弄される男の話。彼はちょっとした手違いで、仕事も女も地位も名誉も失ってしまった。いずれは命も失いそうだ。彼にとっては生き続けることが幸せだろうか?それとも死んでしまった方が幸せだろうか?それは窮地に立たされた人間がよく考えさせられる問題だ。その重大さは本人にしかわからないし、いくら他人が諭しても他人がそれに成り代わる事はできない。たとえどんなに頑張ってもそれは偽善になってしまうだろう。そしてそれは実際に偽善でしかないから仕方がない。
それでも僕は出来たら生きていて欲しいと思う。そしてまた幸せになれればいいとも思う。
僕は20ページほど読んだところで止まった。
ラジオが時を告げる。
20:00。
そろそろ夕食の支度の時間だ。

僕はいつも日付が変わる頃に眠り、3時間ほどで起きる。
それからラジオを聴きながら夜が明けるまで過ごす。外にでて、人気が少ないうちに散歩に出たりもする。近所にはちょっとした遊歩道があって、朝日を林の中から浴びるのは気持ちがいい。
6時には朝食を作り始め、ハーブティと一緒にゆっくりととる。全てが終わる頃にはもう8時だ。シャワーを浴びて、一日おきで洗濯をして、10時ごろにパソコンでメールチェックやニュースチェックをしてネタを集め、新聞も読む。気になった記事にマーキングしたり、調べて欲しい事について電話をしたり、取材の打ち合わせをする。買い物に行くこともある。予定がなければ13時には昼食だ。
15時。ガールフレンドから電話が必ずかかってくる。取材があるから出られないとメールをしてもかかってくる。彼女にとっては電話をするという行為そのものに意味があるのかもしれない。30分ほど話すと予定があるといって彼女は一方的に切ってしまう。それが終わると僕は顔を洗い、ハーブティを飲み、原稿をかたづけにかかる。3時間から4時間かけてそれらを済ませ、20時頃に夕食のことを考える。作って食べて、それから日付が変わる頃までまたラジオを聴きながら過ごし、たまにビールを飲んだり、ワインを飲んだり、大抵はハーブティを飲んで眠る。
そのまま朝になっていればいいと思ってベットにはいるものの、なにかの気配を感じて目を覚ますと部屋は真っ暗で、そしてその気配が僕は気になってしまってもう眠れなくなってしまう。夜気に耳を澄ませ、世界の動きに耳を澄ませ、震えながら目覚めて動き出す大きな流れを見つめながら僕は朝を迎える。

ジャー。ざっ、ざっ、ざっ。ジャー。
ジャー。ざざっ、ざっ、ざっ、ざっ。ジャー。
規則正しくかき混ぜて磨かれていく米が水の溜まったザルの中で踊る。丁寧に水がきれいになるまで研いだら、釜に移して炊飯器で炊く。その間に鍋でワカメとネギとオクラの吸い物を作る。オクラが自然ととろみをつけるのが僕の気に入っているところだ。
それから鮭をワサビ醤油に漬け込む。少し揉んで15分ほど冷蔵庫で寝かせると充分に味が染みこんでいく。それを胡麻油で焼くのだけれど、強火で両面に焦げ目がつく程度が一番僕は好きだ。中に火の通りきらない柔らかな身を残すために、強火で30秒くらいずつ焼いて皿に盛りつける。白髪ねぎを飾って、漬け込んだときの残り汁を鮭に少しかけるのがポイントなのだ。それから胡瓜とワカメの酢の物も作った。
全ての料理をテーブルに運んだ頃、ちょうど炊飯器が音を立てた。ピーッ。まるで試合終了のホイッスルのようだ。それは何もかもが終わってしまった合図のようでもあったし、これからなにか素晴らしい事が始まる予兆のようでもあった。言い換えれば僕が料理を丁寧に作るという時間はホイッスルが音を立てた瞬間にもう終わってしまったし、それらをまた丁寧に食べるという行為はまさにこれから始められることなのだ。物の見方には必ず多面的な要素が必要だ。マイナスと見るかプラスと見るか、両方を一度に見ることなどは出来ない。
炊飯器の蓋を開ける。熱さに顔をしかめるような湯気が立ち、炊き立ての白飯があらわれた。白胡麻とじゃこを入れて混ぜる。それを茶碗によそい、きざみ葱をかけた。
できあがり。これにハーブティは合わないので、僕は番茶を淹れることにした。これもまた時間をかけて食べる。ラジオは和風の食事にあわない曲を奏でている。『イエスタディ・ワンスモア』。気になった僕はまたラジオを切った。TURN―OFF。
透き通った声のカレンは無理矢理に沈黙させられた。
静寂の中では食器と箸とテーブルが鳴りあう音しか響いてこない。
僕の食事は決して量が多い物ではない。ゆっくりと食事を取るとすぐに満腹になるからだ。それから運動量も多いわけではないし、体がそれほど食料を必要としていないからでもある。遠いところまで取材に行ったり、朝靄のかかる公園の中を散歩したり、炎天下のなか街頭で長い間気に入った写真が撮れるまでいることもある。だから摂った栄養はそれなりにきちんと消化しているのだ。僕の採った食物は栄養となって僕の体の中を駆け巡り、僕の体の中を駆け巡った栄養は余すところなく僕が使う。僕という小宇宙では、無駄なものなど一切ない。
ガールフレンドは「そんな食べ方は男らしくない」と言う。食べ方に男らしいも女らしいもないと僕は思うけれど、彼女はきっと古風な女性なのだろうと納得している。豪胆な夫と華奢で可憐な妻が彼女の中では夫婦の典型モデルなのだ。彼女の両親の話を聞くかぎりではそんな印象を受け、又そんな家庭を彼女も何の疑問もなく目指したいらしい。今時珍しい古典的な考え方だね、と言ったら彼女はバカにしたような目で僕を見た。
「古典的だとか斬新だとかそういうことが問題なんじゃないわ、そういう生き方をすることが家庭生活を送るのに上手く行くコツなのよ。私の両親を見て私はそれを学んだから、あなたにもそうして欲しいの。わかるでしょ?」
僕はその時のガールフレンドの目つきが気になって仕方がなかった。
彼女にとっての自分の存在が疑問になった。
彼女の言い分は解っても、彼女の望む男になれる確証はなかった。
僕にとってはその一瞬、彼女は僕の理解を遥かに超えた存在だった。
そしてその時に抱えた僕の不安は、いまだに僕の耳の裏側だとか足の指の間だとか臍の裏側だとか髪の毛の先だとかにくっついたまま離れることはないのだ。
すべての食べ物を胃に収めた僕はハーブティを飲む事にした。複雑な事を考えて気分が悪くなったときにそれを改善させるのに、このお茶はとても効率がいい。食器を2回に分けてキッチンへ運び、食器を洗いながら湯をコンロで沸かす。
食器を2回に分けてキッチンへ運び、食器を洗いながら湯をコンロで沸かす。昼間温めた牛乳のことを思い出した。何らかの力で仕方がなく浮かび上がってくる泡たちは、今もこの薬缶の中で生まれ続けているに違いない。カタカタシューシューという音の一つ一つをきっかけに、生まれ消えていく泡。きっとそうなのだ。そんな自然に出てくる泡を考えながら、僕はとてもとても人工的な泡に手をまみれさせて食器を洗っている。ふてぶてしい泡だ。水で流すまではなかなか消えない。作られたどぎついオレンジの香りを打ち消すみたいに、僕は調整された水で丹念に食器を洗った。洗いかごにすすぎ終わった食器を入れる。調理器具も丹念に洗ってすすぐ。フライパン、菜ばし、ボウル、鍋、包丁、まな板。洗い終えた僕はその上にふきんをかけてホコリが被らないようにした。少し水の量が多かった薬缶はまだ湯を沸かしきってはいない。洗いかごからお気に入りのマグカップを取り出してふきんで水気を取り、すすいだだけのティ・ポットも水気をとってテーブルへ移した。
かちり。ざぁっ・・・。
一瞬の砂嵐の後にラジオはまた目を覚ました。22:12。
そろそろ世界はまどろみの中だ。ラジオからもセレナーデが聞こえてくる。フルートが高らかに独奏するなか、不協和音が聞こえた。
ぴぃぃぃぃぃぃっ。
薬缶の笛の音だ。女の叫び声のような、僕の心をかきむしる嫌な音が響いている。いつもは口笛が鳴らないように上げておくのだが。ついてない。今日は本当についていない。
少し気を滅入らせながら僕はキッチンへ行ってコンロの火を消した。吸い込まれるように弱々しくなり、最後は女の悲鳴はかききえてしまった。火傷をしないようにミトンをはめてテーブルに運び、空のポットの中へ湯を注ぐ。温めるだけに使われる最初の湯は何だか哀れだ。明確な区分けはできないが、薬缶の下のほうにある湯だったら捨てられずに済むかもしれない。もっとも僕は勿体ないのでそのまま使ってしまう。きっと淹れたお茶の味が悪い一つの原因はこれだろう。例えそうだとしても、僕は哀れな湯のためにこの行為は止める事はないと思う。
ポット温まる間に曲が変わった。誰がリクエストしたのか、昭和の歌謡曲だ。正確な曲名が思い出せない。でも物悲しいメロディーだけが、何となく昭和の匂いを僕に送り続けている。温まったポットからマグカップに湯を移して今度はカップを温める。緑茶の場合はこうして湯の温度を冷まして使うことで丁度の温度に調整するのだそうだ。これは玉露なんかの低温で淹れるものに対してで、番茶みたいなものには当てはまらないらしい。実際に試したことはないけれど、ガールフレンドにそういう話をしたら「会社では最初にそういうこと教え込まれるのよ」と言われた。僕には経験がないから彼女の言っていることが本当なのかわからない。別の友人に聞いてみたらアナタは多分担がれたんじゃないだろうかという返事だった。
彼女は時々気まぐれを起こして、よく解らない冗談を言うのだ。そんな非建設的なことはやめようといくら言ってもムダだった。逆にユーモアがないと僕が怒られるようになってからは、もう彼女にその類の意見は言ってはいない。空いたポットの茶漉しにハーブティの葉を入れて湯を注ぐ。1分半。砂時計の通りに。蓋を閉じると同時に僕は砂時計をひっくり返す。

ガールフレンドと出会ったのは僕が27の夏の時のことで、それはもう5年も前のことになる。
彼女は取材先の会社で僕の担当をしてくれた人だった。
そのとき彼女は23歳で、ピンク色の制服を着て、長い髪の毛をゴムでまとめて、そして僕のことを好きでいてくれた。
3回の予定の取材で、1度目に彼女の名刺を貰って名前を知った。
2度目で食事に誘われて、週末に二人でイタリアンレストランで夕食を食べた。
3度目に彼女の連絡先を書いた紙を貰った。
僕は彼女に対して好意を持っていたけれど、内向的だったこともあってすぐには連絡しなかった。
1週間ほど迷っていたら、彼女のほうから連絡があったのだ。それも、とても怒った声で。
「どうして連絡をくれないんですか?」と彼女は僕に問いかけた。
正直に僕は、今まで電話をかける勇気がなかったことを彼女に説明した。
そうしたら、僕は泣かせるつもりなどなかったのに、受話器の向こうから聞こえてきたのはしゃくり声だった。
「ずっと待ってたのに、連絡がなかったから、嫌われたかと思ったんです」
僕はそれについて本当に深く詫びた。それから彼女をドライブに誘った。
「どこに連れて行ってくれるんですか?」
「どこでもいいよ。君を泣かせたお詫びだから、好きなとこに行くといい」
彼女は遊園地に行きたいと言った。
もう夕暮れ時の高速を飛ばして、遊園地とは少し違うけれど、大きな観覧車とジェットコースターとお化け屋敷と子供ランドがある場所へ行った。
「ごめんなさい、泣くつもりじゃなかったんですけど」
ライトアップされた観覧車から夜景を見ながら彼女は僕に謝った。
「いいよ、僕も悪かったんだし」
「でも、嫌いになりませんでしたか、私のこと?」
「嫌いとかそういうんじゃなくて、あの時も言ったけど、僕はあんまりそういうことが得意じゃないから」
「じゃあ、好きですか」
「好意は、あるよ」
彼女は僕のことばを聞くととても嬉しそうに僕を見た。雰囲気としては、欲しい物を手に入れたときの嬉しそうな子供の笑顔だった。
「私、藤沢さんのこと、好きですよ」
「ありがとう」
何となくそんな会話を観覧車の中でして、そのあと二人でアイスクリームを食べて、夕食に誘ったけれど彼女は遠慮をして、真夜中に彼女を送って、別れ際にキスをして帰った。

ラジオが明るいポップスを奏でている。
僕が気がつくと砂時計の砂は落ちきってしまっていた。また時間通りにはいかなかったらしい。仕方がない。
そういえばカップの湯を忘れていた。慌てて流しに捨てに行く。せっかく再利用しようと考えていても、僕の思考からそれが全てどこかへ行ってしまったあとではどうしようもない。カップを持ってテーブルへ戻り、ポットの中身を覗く。予想通り少し濃いようだ。僕は少し葉を躍らせてからハーブティを淹れた。枯れ葉色の透き通った液体が満たされていく。
僕は再び窓を開けた。
部屋の明かりを消し、ベッドサイドのスタンドを点ける。
外に広がる闇。
また徐々に夜の気配が世界に満ちてきている。
今はまだほんの小さな息遣いだけしか聞こえては来ない。まるで眠っている赤ん坊の寝息のように。
僕はマグカップをテーブルから取り上げて、ベランダで外を見ながら飲み始めた。雨が降った後の湿った空気だけが余韻を残している。空にはもう雲はない。地面に目をやるとあちこちに水溜りができてはいるけれど、それも本当に大きいものがいくつか残っているだけだ。湿り気を帯びた冷たい風が僕を取り囲み、巻きついて、通り過ぎていくのを感じる。優しい、優しい風だ。僕を切ない気持ちにさせて仕方がないけれど、それは容赦なく吹き付けてくる。風を感じながら僕はハーブティを飲む。ラジオは別の曲を流し始めた。『夢で逢いましょう』。そういえば僕は眠れなくなってから殆んど夢を見ることがなくなってしまった。夢で逢いましょう。夢の中でしか会えない人がいたら、僕はどうやってその人に会えばいいというのだろう?夢の中で僕のことを待っていてくれる誰かがいたとして、僕はその人にいつになったら会えるのだろう?夢の中で待ち続けてくれる人は一体誰だっていうんだろう?
答えはでない。
僕が夢を見ることができなければ、誰が待っていようと、僕が会うことは、できない。
マグカップのぬるくなったハーブティを飲み干し、僕は部屋に戻る。新しいハーブティを淹れ、読みかけの小説を僕はまた開いた。哀れな主人公。何もかもを失って、残っていた全ての金を使って彼は北へ北へ向かっている。その汽車の中で彼は夢を見ていた。昔、金に目がくらんで捨ててしまった恋人の夢だ。眠りながら彼は涙を流す。僕にもこうして、いつか涙を流してくれる人が現れるだろうか。それともガールフレンドが僕の為に泣いてくれるだろうか。ゆっくりとハーブティを飲みながらページを繰っていく。ことばを噛みしめながら読む。噛みしめたことばは、僕の体内にとりこまれ、同化していく。
彼が終着駅まで辿り着く直前で、2杯目のハーブティがなくなった。
23:49。
僕はそこで本に付箋をはさみ、ベッドへと潜り込んだ。眠るためだ。
夜の息遣いは、今はまだほんの小さな小さなものでしかない。
それが大きくなる前に。

スタンドを消す。
部屋は冷たく柔らかな夜の光に包まれた。
ラジオは点けたまま。
クラシック。ムーン・ライト・セレナーデ。
両目をゆっくりと閉じる。
音楽に呼吸を合わせていくと、意識がだんだんぼやけていく。
『夢で逢いましょう』。
夢で僕は誰かに逢えるだろうか。
聞こえてくる心臓の音が、大きくなって、そして─────。

Fin.

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