ふ〜みんの森便り  第20号



いやぁ〜爽やかな日々が続いてますねぇ。
爽やかな風に触れ、美味しい空気をおなか一杯吸って
目に彩り鮮やかな野の花、若葉を見、野鳥のさえずりを聞いて
おまけに山の幸まで味わって、もぅ五感歓ぶ!!

そんな美流渡の森から
気がついたら、ぉお〜っと20号!をお届けします。

3月は涙・涙で走り抜け


この3月、二人の息子は中学校と小学校を卒業。
特に中学校を卒業する翔太にいたっては、保育園・小学校・中学校と
実に11年間の付き合いのあった仲間たちとの別れとなりました。
翔太は途中からの仲間入りだったけど、
まるで生まれたときから一緒だったよねぇみたいな感じでしたね。
それ程この10人の仲間たちは互いが空気のようで、
別れがきたのが不思議のような。。。

卒業式は今思い出しても涙が出てくるほど、感動溢るるものでした。
特に私なんか人一倍涙もろく、
この日ばかりはアイメイクは極力押さえ、タオル地のハンカチとティッシュを握り締め
いつ泣いても大丈夫だぁ状態の準備万端に。
よせばいいのに一番前の席で、
案の定、卒業生の入場の場面から退場の場面までずっと涙流しっぱなし。

在校生の一人一人が卒業生の一人一人に花とメッセージを送る時に
涙で言葉が詰まりながら、時には泣き崩れる姿に感激の大泣き。
卒業生の別れの歌として泣きながら歌った
「世界で一つだけの花」を聞いてまたまた涙。
気がつけばナント会場中が涙してたという感動の卒業式でした。

その後の卒業生と父母、教職員との卒業を祝う会では
スーパーマルチ母Yさん編集による
10人の赤ちゃんから現在にいたるまでの超お宝場面集ビデオの上映で
涙と笑いの感動のフィナーレとなりました。

人数は少なかったけど、実に充実した三年間でした。
美流渡中学校卒業が寂しかったのは子供たち以上に親たちだったかも。。。
何年か後のクラス会は親バージョンも密かに計画されそうな。。。




4月、弁当作りに燃ゆる母

晴れて高校生になった翔太を中心に家の生活リズムは大きく変化。
なにせ母の動きが大きく変わったのですから。。。
大きく変わった原因のbPは弁当作り。
今までの朝は朝ごはんのみを用意する朝だったのでお気楽者の母でした。
ところが4月からは昼の弁当を作り、
それも部活の朝練のため家を早く出たいというので
時には6時30分まで完成させなくちゃあ〜の時もあったりで、
母の朝のスタートは軽く1時間は繰り上がったのであります。
要領の良い、料理得意の母であれば
「あ〜らお茶の子さいさいよぉ〜」と軽くクリアなのでしょうが、
私といえば料理、特に弁当作りは苦手な母でありまして
されど可愛い息子に母の愛情弁当持たせたい!との思いは熱く
こうなりゃやるしかないっしょ!と奮起の4月と相成ったのです。
その後は、知り合いやインターネットから情報を得、メニューの工夫に明け暮れる日々。
1人分作るも2人分作るも一緒なので、
夫の分も作り感想チェックし、まるで夫はモニター役。

どうしてこうも燃えてるのかというと
あと3年もたてば家から独立するであろう息子への
母としての為すべきことの総仕上げかなと。。。ちとオーバーかな。。
だって、家を出たら本人の自立の時。邪魔する親にはなりたくないもんね。
極力手出し口出ししないと心に決めてます。(できるかなぁ・・)
だから、母として悔いの残らないよう高校卒業するまでは母のやれること
サボらずにしっかりやっていこうと思ってます。

ところで、2ヶ月の日々が過ぎて
弁当作りから以外にもいろんな発見あり、
愉しく感じてきてる母の姿があります。
全ての道はローマに続くじゃないけれど
一つの物事に真剣に取り組んでいけば、得るものの感触は
得意な分野で得られるものと共通の歓びとなるようで。。。ぅ〜ん深いのだわ。。。
苦手なものと得意なことって案外紙一重だったりして。
探検隊の気分で、これからも弁当作り楽しんでいきまーす!!


ここで、ちぃとばかし身に着けた美味しい情報をご紹介

@超簡単ゆで麺

これは、伊東家の食卓からゲットした優れもの。
どんな麺でも熱湯に中火で1分。その後火を止めフタをして待てばOk!
ちなみに待ち時間は、スパゲティの場合のみ袋に記載されてる時間で
他の麺は、最初の1分も待ち時間に含みます。
この方法だと、ふきこぼれる心配はなく、茹で加減もバッチシ。
朝の時間にちと余裕が持てます。

A山芋のポテトサラダ

これは某レストランのメニューで出て、感動もんだったのをアレンジ。
作り方はジャガイモで作るポテトサラダと同じだけれど
何がいいかって、とにかく茹で上がるのが早い!
そしてしゃもじで簡単に潰れてとってもクリーミーになります。
マヨネーズで味付けして、刻みパセリをさっと混ぜるだけで十分グッドな味になります。
これも短時間で朝のお助けメニューです。

B味付けひじき

ご飯に混ぜるだけで美味しい味付けひじき。
これって量に対して結構いいお値段。
・・・で、記載している材料を見てみると
実にいろんなものが入っておりました。
ここに書いてあるものを真似して作ってみたらできるかも
早速ひじきを水で戻し、昆布茶・梅茶・ごま・調味料もろもろを入れ煮込んだところ。
全く同じ味ではないけれど、近い味のものが完成。
量もたくさんできたし、これってとってもお得!

Cとにかくグリルで

弁当づくりの助っ人として、生協の個配の冷凍ものがあります。
調理済みのものは、ほとんどがレンジでチン!の説明なんだけど、
べちゃっとなる感じが嫌で、極力魚焼きグリルにアルミを敷いて使ってます。
これだったら、適度に水分が飛んで、べちゃっとならず時間も短縮Ok!


D失敗編

お弁当はやっぱり色どりだよねぇと、色のきれいなカラーピーマンを
来る日も来る日も使っていたら、とうとう
「ぇえ〜またピーマン!」と言われてしまった。。。

いやぁホントに頭を使います。




美流渡の森の暮らしは、実はとっても贅沢だったのです

この間、某テレビ番組を見てたら健康用の酸素が売られておりました。
ひょえぇ〜っ!もはやここまで来たか!
そういえば、水が売られ始めたときもひょえ〜っと驚いたけど今や当たり前の認識。
とうとう酸素が売られる時代になったのねぇ。。。

確かに交通量の多い街中に出て行くと、空気の味は排気ガス風味。
目に見えない空気の中の状態は、今や混沌としてきてるのかも。。。

こうしてみると、我が家は目のまん前が森。
朝起きて、外に出ると、ぅん!確かに美味しい空気。
常にリフレッシュした空気の中で暮らしているってことね。
ってぇことは、高級な酸素を常にタダで頂いちゃってる贅沢もん!!
ぅんわぁ〜リッチ!!

こんなおいしい空気、私たちだけではもったいない。
たくさんの人に吸ってもらいたい!
どうぞ皆様美流渡の森にきたら、思いっきり深呼吸をして
身体に高級酸素を供給していってくださいませ。




ミルトコッペ主人の「三丁目の夕日」時代

この冬あたりから、夫は古本屋さんでノスタルジー漂う漫画の本を見つけました。
それは、西岸良平の「三丁目の夕日」。
昭和30年代の日常を描いていて
夫や私にとってはホントにちびっちゃい時の話だけれど
でもしっかり覚えてるぞぉ〜の懐かしい感覚に浸れます。
そんな訳で、今回は夫と私の「三丁目の夕日」時代のお話をちょっと。。。

夫は新潟の越後平野のど真ん中、西蒲原郡分水町で育ちました。
近所でその名をとどろかすほどのやんちゃ坊主で、
それこそ末はやくざか大臣かと噂されるほど。
特に自主独立心が旺盛で、5歳で鉄くず集めに精を出し
売り上げで得たお金はちゃっかし自分のこづかいに。
小学校入学前にあんこの爺ちゃんが、
「自分で家まで机運べるんだったら机をやる」との話を真に受け
即刻、近くの家からリヤカーを借り爺ちゃん家に飛んでいったそう。。。
また、あまりにもやんちゃ度が過ぎるので
母に連れられ、神様のお祓いを受けにいった時のこと、
「かしこみぃかしこみぃ」の祝詞に続いて
「プゥ〜ッ」とおならをし、かしこみぷぅとあだ名がついたそうな。。。
とにかく話題に事欠かない少年時代でありました。
アルバムのセピア色の写真にはコボちゃんそっくりな
刈上げ頭の少年が二カッと笑っておりました。




ミルトコッペおかみの「三丁目の夕日」時代

私は道産子。親が国鉄で鉄道官舎暮らしが思い出です。
ちっちゃな頃は留萌の駅前官舎で育ちました。
官舎の裏には畑があって、どこの家も野菜を作ってたなぁ。
父親は、休みの日には畑の世話に精を出し
私の記憶の中では、一番美味しかったトマトは父親の作ったトマトの味。
そして、近くには農家がたくさんあったので
農家から直接、鶏や卵を買い、母が家で解体して
けっこうワイルドな鶏肉料理を食べ、最後は鶏のガラをしゃぶるのが大好きだった!
牛乳も一升瓶で農家から買ってきて、家で沸かして殺菌して飲んだなぁ。
鍋に浮く膜が大好きで、今よりも随分濃い味がしたような。
魚は浜から直接買ってきて、どこの家でも軒下とかに魚を干していたのですよ。
魚も身を食べた後は、ストーブの上に骨乗っけて、カリカリに焼いて食べたっけ。
これがまた美味しいのなんのって大好物でした。
そして、今だったら考えられないだろうけど
当時は電化製品があんまり普及してなくて
冷蔵庫はなく、蝿帳や戸棚に食べ残しのおかずを仕舞ってました。
今みたく、ある程度買っておかなくても
その日食べるものは、近場で手に入る環境だったり
冷蔵庫を必要としない保存の知恵があったのだろうなと思います。
洗濯機だってなかったからタライで手洗い。
冬なんか干してある洗濯物がパリパリに凍ってたものです。
ぁあ〜なんか懐かしいなぁ。
それにしても最近の出来事よりも鮮明に覚えていて
私にとって古き良き時代の1ページかな。。。

おっと、私はどんなコだったのかというと
7歳と5歳違いの姉の後を、いつも懸命に追ってた
おしゃまなガキンコでした。
とにかくおしゃべりで、よく口に絆創膏貼るよ!と叱られたものです。
好奇心も旺盛で出かけると必ず迷子になり
名前は文江だけれど、お前の場合は行方不明だとあきれられてたり。。。

こんな父と母の遺伝子は間違いなく、我が子に継がれていると実感する日々。
翔太と了亮が今の私たちくらいの年代になったときの
「三丁目の夕日」はどんな思い出になるのかなぁ。。。




ただいま自転車で通学中!

この春から高校生活をスタートさせた翔太くん。
中学校で火がついたバスケット熱は更なる熱き炎となって燃えております。
最初は車での送り迎えだった通学も
季節が良くなった5月から自転車通学に切り替えて
片道16kmの道のりを元気に通っております。
私もあれは三年前。。。諸事情により自転車で岩見沢まで行ったことがあったけど
足はよれよれのガクガクでしんどかったぁ〜の一言だったわ。。。。
いんやぁよく通ってます。我が子ながら拍手もん。
おかげで足の筋肉が育ってきてますよぉ。
バスケにとってはいいトレーニングにもなるし
身も心も育つこと願っとります。
フレーフレー翔太!




こちらはギターにはまってます

この冬から父と共にどっぷりギターにはまっている了亮。
今はお下がりのギターで日々練習中。
父は念願のギブソンのギターを購入し、その音色にうっとりしております。
その父の姿羨ましく了亮も欲しいギターがあるようで、
そのギターを買ってもらうために父に交渉。
父はいろんな関門をだしたそうな。。。
日ごろの行い、中学校の初の期末テストの目標点数などなどe.t.c。
いずれにせよ母に似て、いたって単純な了亮は
ギターを買ってもらいたい一心で、けな気に出された目標に向けて励んでます。
夢はギターを作る職人になること。
陰ながら母は応援しておりますよぉ。