(瓜生島考)  
豊府聞書記載の地名位置

  大分市カンタンから5号地まで現在は全て人工海岸となってしまった。しかし、昔は砂浜の海岸で、さらに慶長元年に大地震が発生する以前は、 勢家の浜の沖合い別府湾上には瓜生島(沖ノ浜)と呼ばれる島があったという。島が現実にあったかどうかについて は、明治以降種々議論されてきたが、有無についての結論は出てない。「瓜生島調査会」(現在無し)が昭和50年代、島が沈没した思われる海底 を調査船などで探索したが確証的な遺物、遺構などは発見できなかった。  瓜生島という名前が初めて文献に出てくるのは、府内西郊沖ノ浜に住んでいた戸倉貞則という人物が元禄十一(1698)年に、古記録や古老の話し をもとに書いた「豊府聞書」である。「沈んだ島」(昭和52年 瓜生島調査会)では、「聞書」は原本も写本もないと述べている。しかし、二系統の写本 (由学館旧蔵本、増沢氏所蔵本)は存在する。奥書(巻末)に「于時元禄十一戊寅祀八月十八冥。豊府沖濱之住、戸倉貞則謹門書」の記載がある。 記述は、歴代領主毎に事象を記録する編年体の形式をとっている。「聞書」の執筆は、豊後国志編纂のような藩命によるものでなく、あくまで貞則 個人の自主的、自弁行為によるもので、藩の援助等はなかった。このため古記録収集と現地踏査(古老からの聞き取り)に5年、執筆に5年、即ち 着手から完稿までに計10年ほどを要した労作と推測できる。また、「聞書」には序、賛辞、跋文があり、府内万寿寺の僧揚宗(注)が書いた巻頭 の序文は次の通りである。

(注) 禅余集を著した乾叟の後を継ぎ、延宝2(1674)年万寿寺首座となる。宝永元(1704)年に入寂。


なお、『聞書』の一つの異本と見られる『豊府紀聞』(全七巻 ほうふきぶん)の写本は、従前から存在している事が知られている。『紀聞』には「杵築城」と記載してある(『聞書』では木付城)。木付が杵築と書かれるようになったのは、正徳2年(1712年)、六代将軍家宣が杵築藩三代藩主松平重休に与えた朱印状に「木付」を「杵築」と誤記したことによる。したがって、『紀聞』は正徳2年以降に『聞書』を模写したことが判る。しかし、『聞書』と『紀聞』では、若干語句の云い回しに差異があるものの、大意は変わらない。しかし、神社仏閣の記載(特に万寿寺関係)はやや異なるので注意を要する。『紀聞』には序文、賛辞、跋文がない。

以上のように、『紀聞』という題名は、後世一部の人によって何らかの理由で勝手に変えられたものである。『聞書』の写本が確認されたのであるから、今後は原題『豊府聞書』と称する方が、著者戸倉貞則の意に適うものと思われる。


瓜生島の名は「豊府聞書巻二第十九世大友義長 瓜生島道場」の項に初めて次のように出て来る。



また、「豊府聞書巻三第二十一世 大友義鎮」の項に次のように瓜生島の記述あり。しかし、この一文は、前後関係からあまりにも唐突過ぎる。
「…十一月二十五日瓜生島民、敬崇祭之…」
この部分を豊府紀聞では「弘治元年…豊府城北瓜生島、有天満宮。霊験厳如見掌。故毎歳六月、十一月下旬五日。瓜生島民敬祭之」と記載している。これは、豊府聞書原本を書写する時(由学館所蔵版の写本)、「豊府城北瓜生島、有天満宮。霊験厳如見掌」部分が脱落したと推察される。

瓜生島海没の記述は「第二十三世 早川主馬首」に出てくる。この項だけを見ると、文録五年地震の記載が、唐突、突然に出て来るとの見方、批評がある。しかし聞書全文を見ると他の項目も同様唐突である。このため突然、唐突という批判は当たらない。朱字部は紀聞と表現が相違する部分。

(注1)早川主馬首
生没年、系譜とも不詳。秀吉の馬廻衆。京都方広寺大仏造営では奉行人、文禄の役では船奉行、慶長の役では軍監として活躍。石田三成と相親し。文禄3(1594)年春、関白秀吉により大分郡の内一万二千石を賜わる。その他、秀吉の直轄領四万八千石を預かる。慶長2(1597)年、杵築へ領地替え。関ヶ原の戦いでは西軍に属し、大坂に上り安治川橋を囲む。また、丹波田辺城攻めにも参加。一方、豊後では府内の留守城代早川内右衛門が、黒田如水に降伏し開城。長敏は、大坂の陣(1614年)には豊臣方として入城する。子孫は、所縁のあった仙台伊達家をたより小禄を請うて仕えた、と云う。

(注2)文録5年10月27日、慶長に改元。したがって、「聞書」記載の文禄地震の方が正確(紀聞は慶長地震)
(注3)哺時…現在の午後4時
(注4)大波三度(「紀聞」は三時と記載)
(注5)神護山同慈寺…現在の大分中央郵便局の地にあり。
(注6)法蔵寺…現在のソフトパーク(大分市東春日町)の地にあり。
(注7)沖濱(町)は、この項が初見。
(注8)西南山岸ノ犬鼻邊…方角は島から見て。犬鼻は小字名に残り、場所は現県立図書館付近
(注9)蓬莱山…春日神社の南にあり、昔はかなりの高さであったという
(注10)「之ニ因リ溺死セザル者、纔(わず)カニソノ七分ノ一。凡ソ死スル者七百八人」
島民数をXとすると、下記の数式が一応成り立つ。
X−708=X/7  X即ち島民数は831人となる。島民のみ(本土側を除く)の溺死者を600人とすると、X−600=X/7 この場合は島民数は700人、島民の免死者は100人となる。即ち島民数は700人前後か。
(注11)旧長浜社は荷揚城の東丸にあったという。
(注12)沖大明神…旧府内城下図では、川、湿地帯を隔てて旧長浜社の北方にあり。
(注13)瓜生島道場西辺の一宮
瓜生島古図にある三社天神のことか?。紀聞巻三「豊府城北瓜生島ニ天満宮有リ。霊験掌ヲミルガ如シ。故ニ毎歳六月、十一月下旬五日、瓜生島民敬ヒコレヲ祭ル」とある。現春日神社境内の東に鎮座する天満宮が後身であると云われる。明治年間の頃までは、この社を酢屋の天神と呼び堀川の分限者、かつての瓜生島長幸松家が祭祀の費用を捻出していたらしい。
(注14)府内と府中表現が混記。また聞書の中には「豊府」表現もあり。府内=府中=豊府なのか?
大分は中世通して大体「府中」と呼ばれていたが、中世末期に「府内」と呼ばれるようになった。明の鄭舜功が1562年に著した日本一鑑には「沖ノ浜から府内に陸行すること五、六里」とある。…大分県地方史第73号より


賛 辞
 また、豊府聞書には、俳諧師「大淀三千風」なる人物の次のような賞賛の辞がある。


 
 大淀三千風(1639〜1707)は伊勢の俳人で、天和3(1683)年より日本全国の俳諧行脚に旅立ち、各地の名所、旧跡を遍歴し、紀行文「日本行脚文集(元禄三年)」を残した。三千風の行動、性格は奇矯で行脚の時は「湖山飛散人」、仙台松島に向かう時は、「東住居士」と名乗ったという。こういう全国行脚が行えるようになったのは戦乱が収まり、太平の世の中になったということか。余談だが、三千風は行脚にあたって、九ヶ条の誓約をし、首にかけ自戒自慎したそうだ。面白いものを次にあげてみる。
@山賊、追ヒ剥ギナドニ逢ハバ、裸ニテ(所持品を)渡スベシ。若シ殺害ノ及ババ、首ヲ
 延ベテ待ツベシ。死テ敵ヲ取ルマジキ事。付、四寸(約12センチ)ノ小刀ノ外、刃ヲ持
 ツ間敷キ事。
A船賃、木賃、茶代少シモネギルマジキ事。
B中途ニテ乞凶非人ニ慈悲ヲ加ベシ。カツ病人ニハ所持ノ薬與フ可キ事。
C文筆所望ナキニ書クマジキ事。
D一足馬駕ニノルマジキ事。但シ、不及山上ノ道ハ折ニヨルベシ。

 二豊路には貞亨元(1684)年4月大坂を立ち、中津、耶馬溪、日田と巡遊し長崎に到着、越年したことは記録もあり、分かっていた。その後九州へは三度訪れ、長崎を中心に三千風流の俳諧の普及に努めた、という。
 「田鳥集」(三千風作)によれば、二度目の九州訪問は、元禄11(1698)年「…本朝神道ノ根元。日向鵜戸(神宮)ノ窟へ…」とあるから、日向への途次の9月に府内にも来遊して、沖ノ浜戸倉貞則宅に投宿したと思われる。この時、前月に出来あがったばかりの聞書を読んで賛辞を贈った。さらに別府にも、三千風が来て温泉につかり、長旅の疲れを癒し、次のような歌と句を残した。
「豊後の国弦見農嵩(鶴見山)、猶も高崎の嶺(高崎山)、陰陽両山の麓なる別府てふ閭居に、
 盈々たる熱湯の流あり、されば温泉煖然として常に春の季にかのふ。猶冷陰の凄然として陰
 中の陽、自然とほころび・・・・野衲長途のつかれをはらすに本朝無二の臭味なるを賀して。
 
 月にたに 身にいたつきの あれはかは 御湯の流れに 影ひたすらん
 湯煙に 色つや置ける 紅葉可南(かな)
 日本修行寓堂 三千風」

 貞則も見ず知らずの人を宿泊させるはずはない。このため紅葉の頃、別府など豊後の地を吟遊していた三千風が「豊府聞書」のうわさを聞き、有力者の紹介により貞則宅を訪れ、宿泊したことが考えられる。ということは、豊府聞書の写本が豊後少なくとも別府湾岸の地には相当流布していたことになるのではないか。松尾芭蕉は元禄2(1689)年「みちのく東北」を行脚し、紀行文「奥の細道」を記し有名になったが、これより6年前に全国の行脚に旅立った大淀三千風の評価が低いのは何故であろうか。





(注)関載甫
豊後岡藩の儒医。貞享2(1685)年、中川久恒公が備前より招聘、竹田村杣(そま)谷の自邸に学舎輔仁堂(ほにん)を設ける。のち享保年間、輔仁堂(後に由学館)は藩校となる。正徳4(1714)年は71歳の時である。関正軒(せいけん)とも称した。


聞書(福原直高時代)における「沖ノ浜」、「久光島(村)」の記載


聞書における天災記載

慶安府内地震
慶安元年二月五日巳時《午前10時頃》天下大地震。因之府中等諸人歩行倒而多伏土地者。故
府内等精舎、民屋、庫蔵等損破不少。或府内及領内醴酒○《坩》水等、自瓶溢出、流土地。

鳥越村大雨
慶安三年九月朔日大雨甚降。因之。速見郡鳥越村民屋。忽崩埋谷。故人馬埋土石。死者二十
七人也。


 しかしいずれにしても、沖ノ浜という港町が砂州又は島にあったかどうかは別にして、府内からそう遠くない位置に、少なくとも大友宗麟の頃までは存在していたが、慶長元年閏7月の大地震、津波により海没したことだけは間違いないようだ。沖ノ浜(瓜生島)については、現在まで様々な人が研究しその成果をまとめておられる。私もあらたな視点から考察し私見を次に述べることにする。

(1)豊府聞書と著者「戸倉貞則(又は河田某)」について 
 戸倉貞則については、その経歴はよく分かっていないようだ。しかし、豊府聞書の奥書(巻末)に「于時元禄十一戊寅祀八月十八冥(めい、夜)。豊府沖濱之住、戸倉貞則謹門書」とあるので沖ノ浜に住んでいたと思われる。
 また、聞書序文の末尾に「…商賈デアッタガ、閑暇ヲ得レバ、即チ往時ヲ記録シテ、以テ将来ニ傳フ」とあることから、聞書の「沖浜庫蔵」の項に出てくる沖ノ浜戸長「戸倉助右衛門」の子孫で、何か商売をしており、俳諧師などを宿泊させるだけの家、屋敷があったと思われる。聞書の執筆には膨大な文献資料を調査、参照したであろうことから、相当数の古文書を収集(閲覧)できる資金力、財力があった事も推察できる。
 因みに「貞則」は諱名。ただ元禄年間に一商賈が使用していたか疑問である。しかし、正保年間に処刑された豪商守田山弥は山弥助氏定(大智寺逆修塔刻印)と名乗り、出自は武士階級である。一商賈の貞則も、武士階級の末裔であろうか。
 また、聞書跋文(現在でいうあとがきか)は、岡藩の儒医関載甫が豊府聞書の完成した元禄11(1698)年から16年後の正徳4(1714)年に記した。このことから、著者戸倉貞則は生没年不詳(私の推測 165?〜171?年)であるが、少なくとも正徳4年までは生存していたのであろう。
 余談だが、元禄年間は全国各地で貞則のような民間学者が歴出し、神社仏閣の由来を含んだ地方の歴史、地誌即ち郷土史を編纂した。これは昌平校を設立するなどして学問を奨励した将軍徳川綱吉の影響によるところが大きいのではないか。また、著書の巻頭、巻末に序文、跋文を知人に記してもらうのが、一般的であったようだ。ただ、府内藩から俸禄、扶持を受けている人間ではないようなので、「府内藩の戸倉貞則」という表現は間違いで、府内藩領の沖ノ浜に住んでいただけの話しである。
 また、豊府聞書の記録は、府内城主日根野吉明の治世までで、大給松平氏の時代については全然言及がない。これは当代の領主に多少遠慮したためであろうか。また、大友氏の行く末を最後に〆ていることから、戸倉貞則は大友家と所縁のあった人物であろうか。最後の記述は明暦3年のもので、次のようにある。

「明暦三丁酉年(1657年 他資料によれば9月16日)、大友豊後守源義統二男松野右
京亮正照之三男大友内蔵助源義孝、厳有院殿(徳川家綱)ニ初拝謁。コノ時厳有院殿、
大友内蔵助義孝ニ資給ヲ賜フ。(1657年12月27日、蔵米五百表を賜る)」

また、西応寺の項には次ぎのように書かれている。
「…明暦二冬、十一月二十八日。広度山西応寺第八世中興開山。称蓮社念誉専哲和尚。
監検使、代官ノ命ヲ受…鳥羽院ノ仏工雲慶…」

ここでいう監検使(目付)とは、日根野氏断絶(明暦2年5月)のため幕府から派遣された城受取りの使者である。監検使及び代官による旧領の統治は、萬治元(1658)年4月、大給忠昭が高松(大分市)から府内に入城するまで約2年間行われた。そうして、豊府聞書は安定した時代となった元禄年間、大給氏2代近陣(ちかのぶ 1676〜1705)の治世の頃に書かれたのである。
 さらに、豊府聞書は神社、仏閣などの由来については、詳しく述べられているが、大友宗麟の時代に行われた南蛮貿易や府内におけるキリスト教(当時はキリシタン)関係の事が一切ふれられていない。著者が意図的に割愛したのであろうか。また、沖ノ浜の住人であった貞則が、当地に鎮座する「恵美須神社」について一言も言及してないことも気になる。

沖ノ浜庫蔵


 石川總輔は九州最初の譜代大名として、元和元(1615)年日田の地に着任した。石川氏の支配は、18年後の1633年頃までである。日田はその後、1639年まで幕府の直轄地(大名の預地)となった。府内隣郷五千石の地がどこであったかのかは不明である。1615年から1633年頃までの府内藩(竹中氏)周辺を確実に領有していた大名などは次のようである。

府内藩領   竹中氏 1634年改易 日根野氏           56改易
 一伯領  23萩原 26津守                  50領地没収
      5000石(津守他)         
松平大給領            34 36中津留42高松        56府内へ
                  22000石(速見,大分郡他)
日田藩領
(石川領)
5年    33転封
 5000石(府内近郷)

 府内隣郷五千石の地とはどこであろうか。大分川東岸の津留、萩原地区については、@元和年間は、岡藩領、一伯領であった記録があること、A土地もやせており米の石高も低いこと、B今津留などの年貢米の積出港があること(沖ノ浜を借用する必要なし)などから当該地とはとても思えない。また、津守、下郡地区は下記のように、一伯領のため対象外である。

 [豊後國八郡見稲簿 1700年頃の領地高から推定]  一伯(忠直)領
乙津(188石)、山津(554)、津守(939)、下郡(1088)、羽田(371)
片島(533)、鉄輪(593)、北石垣(831)     計5,097石

 府内隣郷の地から沖ノ浜までの年貢米の運搬は川の水運を利用したと思われるので、その地は大分川沿い、宮崎、鴛野、寒田、判田あたりの地区(江戸後期は天領又は延岡領)ではではないか。そうしてこれらの地域を1634年、大給松平氏が豊後に入封になった時、そのまま継承したのではと推測する。(ただし、府内入城後は当該地を返納する)この地域の石高が、下記の通りほぼ5000石に相当する。

[豊後國八郡見稲簿 1700年頃の領地高から推定] 大給松平領(高松陣屋在)
上光永(286)、下光永(594)、高江(281)、住床(207)、昆布刈(380)米良(265)、
寒田(328)、鴛野(587)、且野原(232)、宮崎(375)光吉(406)、田尻(371)、雄城(224)、
栗野(174)、口戸(380)、木ノ上(30)   計5,120石

 雉城雑誌の「瓜生島址」の項では、豊府聞書は河田某が著者のように書かれている。この河田某は、聞書において「住吉神社」の謂れのところでも名前が出てくる「…慶長年中、沖ノ濱町ノ住人河田助左衛門…」の子孫ではないかと推測する。

雉城雑誌(瓜生島址)
「…此島ノ所在、傳説紛々トシテ、一定ナラズ。前条ニ記シタル聞書ノ説ハ、沖ノ濱町ノ
 住民、河田氏ガ元禄年間ノ手記ニシテ、其實父何某ト話説シタルモノヲ、誌シタルニア
 ラズ。…」

 ここで、雉城雑誌の編者阿部淡斎は、聞書の著者を戸倉貞則ではなく河田氏とし、瓜生島を河田氏の作り事、架空の話しと述べている。しかし、聞書はその序文で神社仏閣の興廃を明らかにして、後世に伝えると述べている通り、作り事を書く必要もない。なぜ淡斎が架空の話しと断定したのか疑問である。

(1) 高崎山について
@豊府聞書 日根野吉明傳略 
「寛永十四(1637)年三月、城主吉明、謂今日遊田浦海濱。時維弥生。
天晴風和。而佳気洋盈。鳥囀花開。樹林可入。此時不出。賞竢何日邀
遊哉。○是城主。伴丹山和尚。自共歩行。而逍遥吟歩于青山。郊野中
一径逶?而頭磽○。頗艱蛙歩之労。暫踞岩上憩樹根。跳望遠近。逸奥
轉多。浮雲没影層巒鐘秀。残雪消光。隠澗呈奇。萋々芳草纏崖刀B翩
々戯蝶掠面飛。又府主自励踈情。扶藜起陟?経行。漸到於田野浦海邊。
披緋氈坐花園。金塁酌霞郢曲。商發嶺響谷応。於是、城主楽遊之可可
言有。暫府主問高崎山故事於丹山和尚。山師答曰。此山云芝積山。又
名四極山。…此山而青芝見之。因号之芝積山也。二品親王守光俊頼卿。
有四極山之歌。然此山多自古猿。國俗見人子少器量者。称高崎之息。
似其形類猿也。山中亦出酒。又此高崎山之東北之崖。水際石下。有龍
宮穴。潮落即見龍宮穴。如赤塗丹。旱即登岸上。無誦経不雨焉。元和
年中。応前主竹中氏請。予(丹山)祈雨於此未回。雨滂沱矣。寛永初。
予(丹山)亦応府主重興命祈雨。於是。龍宮其夜大雨矣。昔大友氏○築
軍城於是山頭。菊池来圍之。翌年 孟陬二九日聿潰伝。山上古湟礎石
猶歴々然。于時吉明聞大感之。設酒筵乗興詩曰。

嵯峨海立直衝天    曲折穿登徐立嶺
萬嶽千峯皆踞下    九州四國略窮邊
菊池戦鼓和何日    大友槐宮徒跡傳
最憶乾通求願實    至今後裔?甘泉

於是。城主與家臣傾?更酌。各々沈酔閑吟。而樂陶々。既而不知斧柯
将腐。于時丹山和尚相語曰。日影傾斜胡不帰乎。是時。城主愕爾而立
?衣乃更前路赴上道。四顧新樹含緑。残花猶盛也。春光融々既而夕陽
在山。鐘謦告暮。鳴鳥四散也。阿寂寥。於是。府主及黄昏帰城」

*丹山和尚は、この時48歳である。
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(2)笠結島について
@豊府聞書 早川主馬首傳略
「…同年八月、豊府主在府内城。問府之名所於老夫。答曰生石浦有島。曰
笠結島。俗呼曰生石小島。島廻百歩高数仭。項有老松数株。遥望之即似
古制結頭笠。似故名笠結島。土御門院有御製之歌。是郡中名所也。主馬首
聞之、即往見笠結。有詩曰。

 何世海翁遺棄去      傍汀漂泊竹皮?
 旅舟今古往来客      一聴其名笑首肯
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 また、河田氏と戸倉貞則は同一の人物であろうか、またいかなる関係があったのか、この辺はよく分からない。さらに、この河田、戸倉の両氏が元禄年間以降どうなったかについては、戦乱もなかったのに記録はないようだ。しかし、瓜生島の島長をしていた幸松氏は戦前までは消息が分かっていて、子孫は大分の某銀行の頭取などをやられた。早速、大字勢家に属する地名の電話帳を調べたが、当該地域に河田、戸倉性の人は見当たらなかった。この、元禄年間の戸倉貞則、河田某がいかなる人物か、また子孫がどうなったのか、郷土史家の方々の調査に期待したい。


(2)雉城雑誌(豊府雑誌)と豊府聞書との瓜生島に関する相異点
 雉城雑誌は阿部淡斎が独自に収集した資料もあるが、そのほとんどが豊府雑誌、豊府指南、豊府聞書、豊後国誌などからその材料を得たもので、特に淡斎の父阿部正名が収録した思われる豊府雑誌ついては、現在まで原本も写本も伝わっていない貴重な資料である。
 雉城雑誌の記述形態は、豊府雑誌などその出典元が口伝も含めて明記され、自説を述べる場合は「予按ズルニ」という表現をとっている。これに対して、豊府聞書の方は瓜生島の項も含めて、全く出典元の記載がない。この点が阿部淡斎から「作り事」ではないかと指摘される由縁か。以下に「豊府聞書」と対比しながら「雉城雑誌(豊府雑誌)」の瓜生島跡を記す。

 「雑誌 (豊府雑誌)曰、相伝、此島一名沖ノ浜トモ云エリ。東西三十六丁( 約4KM)、
 南北二十一丁余(約2.3KM)、街筋三筋、東西ニ開キ、南ヲ本町、中筋ヲ裏町、北ヲ
 新町ト号ス。家数凡千軒、島中威徳寺、住吉、菅神、蛭子( 島ノ西境ニアリ)、及び島
 津勝久ノ居館等アリ。・・・・此島旧府ノ西北三十一町四拾間( 3.5KM)、今ノ勢家町ノ
 北、二十余丁(2.2KM)ニ在リ。北ノ方、速見郡ノ地ニ、拾九丁余(約2.1KM)。
 其西北久満島(家数五百軒、火王宮アリ)東住吉島、松崎島アリ云々。以上、豊府聞
 書及、里民ノ口実ヲ等ヲ以記ス。…」

 豊府雑誌では「聞書」に記されていない島の大きさ(ここで、初めて島規模が東西約4KM、南北約2.3KMと大きくなる)、島から速見郡(大崎鼻付近の陸地か)までの距離十九町余(約2.1KM)、町名(家数)、島津勝久居館、瓜生島、久光島以外の島名などが具体的に記載されているので、この部分は古老から聞いた話である。しかし、勢家町からの距離二十余丁は「聞書」説をそのまま記載したのか同一である。ここで、淡斎は島から速見郡までの距離は、頭に三の文字を漏らした書写誤りで、実際には三十九町余ではないかと論じている。また、「豊府聞書」とあるので天保年間の頃までは、少なくとも写本があったことになる。

 雉城雑誌(瓜生島跡)
 「…慶長元丙申年閏七月十二日、( 或説云、文禄二年七月九日、或二日、又十九日ニ
 作レ共、十二日ヲ以テ証トスベシ。慶長ヲ、又文禄五ト記シタルモアレ共、此十一月改元
 ユエ此如シ)未上刻(午後2時)或申刻(午後4時)共。諸国大地震…」

 雑誌では、地震発生の日付が諸説あることを記載している。しかし、発生時刻は午後2時又は4時の二説しかないようだ。豊府聞書は午後4時発生と述べている。さらに、「由原宮年代略記」には地震発生の日時について次のようにある。
 
 「閏七月九日、戌刻( 午後8時)、大地震、当社拝殿廻廊諸末社悉ク顛倒ス。又此日府
  中洪濤起テ、府中並近辺ノ邑里、悉ク海底トナル。黄昏時分ナリ。同慈寺本堂斗(ば
  かり)相残ル。大波三至ル」

 今村元東大教授は昭和21年の論文で、「由原宮年代略記」を山間の一神社の記録を以て、津波の現場における多数の記録を打消すことに、不適当だと述べておられる。
 しかし、地質学が専門の今村氏が「由原記を熟読して見ると、誤写の潜在することが・・・・」の述べているのも気になる。いずれにしてもちょっと言い過ぎではないか。現場における多数の記録とは何か、記録的(実際に被害に遭遇した人が記述)なものは「柴山勘兵衛記」(9日説)くらいである。他は(豊府聞書、雉城雑誌、ルイス・フロイス報告など)全て古老又は被害者からの聞き取りで、この方が不正確で信用ならないと思うが。
 
 雉城雑誌(瓜生島跡)
  「…予按ニ當代、今ノ勢家町ノ海濱ヨリ、北ノ方速見郡深江ノ港及日出城ノ港口迄ヲ
  海上三里餘(約12KM)トス。然ルニ、聞書ニ載ス處ノ説ハ、此瓜生島ト勢家町トノ
  間、二十丁餘(2.2KM)、島ノ幅員南北二十丁餘(2.2KM)、此島ヨリ北、速見郡
  地十九丁餘(2.1KM)ト記セリ。此丁數計六十丁程ニシテ、二里(約8KM)ニ近シ。
  恐ラクハ件ノ丁數ニ書寫ノ誤脱アリテ、速見郡ノ地ニ、三十九丁餘ノ三ノ字ヲ脱スル
  ニヤ。又、彼地モ此水災、及ビ當代ニ至テ、海岸没入モアリテ、里數ノ違ヒモアルベ
  シ。…
   此島、今ノ勢家町ノ北ニアリシ事ハ、舊府の圖中ニ見ヘテ、其全形ハ載ザレ共、古
  老ノ傳説ト符合ス。尤其東西三十六丁餘トアルニ付テ、其説ヲ為ス。此嶋、東ハ高田
  ノ庄、原邑ノ浦ヨリ、西ハ當郷(笠和)白木邑ノ沖ニ至リ、此島ト速見郡竈門庄、南石
  垣邑ノ東ニ、久光島ト云モアリテ、其間纔ニ廿餘間(約36M)計ヲ隔テ、海水ヲ通ジ、
  其内ヲ函タンノ江トモ、港トモ唱ヘ来ル由云ヘドモ、是ハ全ク謬説ニシテ信ジ難シ。…」
   
 聞書には勢家町から瓜生島までの距離は二十余丁と記されているが、島の大きさは記載していない。編者淡斎の勘違いか、もしくは豊府聞書(現存しない原本)には記載されていたか。また、纔ニ廿餘間というのは、久光島と別府間又は久光島と瓜生島間のどちらを指すのであろうか。この位の距離であれば、干潮時には陸続きとなったのではないか。また、春日神社北裏から深江港(大神港)までの距離は、約11KMである。
 旧府の図というのは、日根野吉明が府内城主であった頃、古老の話をもとに藩の絵師「長谷川等修」に書かせたもので、現在高山氏所蔵の絵図(「大分市史掲載」府内士族渡邊瀧右衛門方蔵の元府内圖 文政十二年牧在氏書写とある)の事であろう。この図も瓜生島(沖ノ明神社在り)の全形は描かれてない。府内士族渡邊氏とは、雉城雑誌(瓜生島址)にでてくる「…吾友渡邊何某ガ話ニ、先年、此島ノ全図、府民ノ旧家(幸松家所蔵の図のことか)ニ収蔵セル事ヲ仄ニ伝ヘ聞リ。今所在詳ナラズ…」といかなる関係があるのか。上記のことから、阿部淡斎は、「旧府内の図」は確認しているようだが、「瓜生島の図」は見ていないようだ。
 
 雉城雑誌(瓜生島跡)
  「…此島ノ所在、舊府の圖及聞書ニ載ル所、勢家町ノ北二十二間餘(約40M)ニ在シ
   事ハ、慥成(ぞうせい)ノ事共ナレ共、當代ノ地形ヲ以、按ニ海岸ヨリ泥沙相雑ハリテ、
   漸ク深ク十餘丁(約1.1KM)ニシテ、海底數十尋(約20M程度か)、古来、島嶼アリ
   シ地共覚ヘズ、又、怪シムベシ。遺老ノ傳説ヲ聞ニ、此島没入ノ後モ、猶當町春日社
   ノ北裏ニ掛ケテ、十餘丁(約1.1KM)ガ程モ、寄洲ノ地續キシテ、其六七丁(約700
   M)丁計ニハ、七本木ト云地モアリ。今ノ沖ノ濱町ノ東裏ニ掛テ、野原等也。此處ヲス
   ベ凡テ春岡ト呼デ、西春岡、東春岡ノ名アリ。件ノ七本木ト云ハ、近邑ノ荼毘處ニシテ、
   新田ノ墳墓累々タリ。然ルニ、寛永年中、竹中氏在封ノ日、故アッテ、今ノ法蔵寺ノ地
   ニ荼毘所ヲ遷サル。其後、此地モ年月ヲ遂テ、海中ニ没入シ、享保年中ニ至テハ、今
   ノ海濱ヨリ猶三四丁餘(約400M)モ、地方ナリシ事ヲ云傳ヘ、予ガ亡父ノ俳友、山田
   楚雲其祖父ノ話ニ聞タリ迚、予ニ語リシハ、今ノ春日浦ノ御旅處ナル、華表(鳥居)ヨリ
   海岸ノ垢離場(こりば 神に祈願する時、水を浴びて心身の汚れをとり去る場所)迄ハ
   二丁ノ餘(約220M)モアリテ、件ノ華表ヨリ、海岸迄一息ニ走セ付クモノノナカリシ由、
   此楚雲モ、其比七十餘ノ老夫ニテ、其祖父ガ話ノ由ナレバ、是モ享保前後ノ事ナルベ
   シ。
    今ノ勢家町北裏ノ並木ノ松ヲ七本木共云ハ、舊名ヲ名ケタルニテ、浪除ニテハナク、
   田圃ノ為ニ風ヲ防グ料ニ、此七八十年前ニ植タルモノノ由ニテ、已ニ此松ヲ植タル者
   杯ハ、近キ比迄存在シテ、予モ慥(たしか)ニ聞ケリ。今ハ享保ノ後、百餘年ヲ経テ、此
   松山モ、浪除ノ如クニゾ成行タリ。是即チ慶長ヨリ、天保ノ今日ニ至テ、此地ノ変革アリ、
   件ノ水災以来…是等ニテモ、両村海岸遠ク、田圃ノ北裏ニアリシ事了知スベシ」

 瓜生島沈没の後も、勢家の浜に寄州(砂州)があって、江戸享保年間(1730年頃)まで存在したようだ。寄州の長さについては年代を追って暫減していく状態が書かれているが、どんな形状をしていたものか。一般的に砂州には、海岸に沿って平行に発生するもの(横州、沿岸州などを指すか)と垂直に発生するもの(立州、縦州、竪州、陸繋砂州などか)との2種類がある。立州という言葉は、「豊後國古城蹟並海陸路程」(三佐村中川内膳正船手)の項に「此州より丑の方へ向沖に立洲有。・・・・」という表現で使用されている。
 砂州の長さが、春日神社御旅所の華表(現在の春日浦球場前駐車場にある鳥居付近のことだろう)から最長時約1KMというのは距離は縦州にすると、今の西日本電線沖合い(住吉泊地赤灯台付近)となる。冬季は北西風が強く、波の荒くなる別府湾に仮に瓜生島があったとしても、これだけの長さの縦州があったとは思われない。横州はどうか、明治30年代後半の近代測量地図には、恵美須神社北側から海岸と平行に長さ約200Mの横州が延びているのが描かれている。雉城雑誌に云う寄州とは、このような横州ではないかと私は推測する。この横州の先端付近に「沖の浜」又は「瓜生島」があったかも知れない。なお、「豊府聞書」には序々に没入していった砂州のことは一言も述べられていない。また、伊能忠敬が文化7(1810)年旧暦2月、勢家の浜を測量した時には、この寄州(砂州)は既に海没してなかったのであろうか、記載がない。もっとも、忠敬は測量だけに意を払っており、沈没してしまいそうな砂州などは気に留めなかったのか。現に、杵築の住吉浜(砂嘴)の記載は測量日記にはない。もちろん、伊能図にも砂嘴部分に相当する朱線の測量軌跡は描かれていない。
 この寄州の中間に「七本木」という集落があって、付近には墳墓が多く、荼毘所(火葬場)もあったが、海底に没入したという。集落があったことから相当大きな砂州であったことが覗える。現在、小字名に新「七本木」(寄州にあった位置とは別の場所)、「東春岡」という地名は残るが、「西春岡」の位置は不明である。新「七本木」の松並木は、波除ではなく、田圃の風除け防風林として1750年頃、植林されたという。私の実家(七本木)近くの旧電車通りに沿ってあったという松並木がこれに該当するのであろう。


(3)慶長地震時における別府湾岸の領主

早川長敏(府内)    文禄3(1594)年入封 大分、鶴崎?を領す。
福原直高(臼杵)    文禄3(1594)年入封 旧北海部郡(佐賀関町)を領す。
杉原長房(杵築)    文禄5(1596)年入封 速見郡(別府、日出)を領す。
中川秀成(竹田)    文禄3(1594)年入封 今津留(飛び地)を領す。

 このうち、早川、福原の両氏は関ヶ原の戦いで西軍につき改易。杉原氏は西軍につくも、改易は免れ但馬豊岡へ減封となる。しかし、承応2(1653)年、嗣子なしで断絶。幕末まで続かなかったため、藩史(正史)として瓜生島の記録は残されず。
唯一、幕末まで続いたのは、内陸の竹田を有する中川氏のみで、瓜生島に関する船奉行柴山両賀の記録が残っている。


(4)天正の兵乱以前の「沖ノ浜」について
浦上氏の辻間弾正忠あて書状
「辻間弾正忠殿
  態(わざ)と一書を用い候。仍(よって)山香日差村の公米の事、津出しの刻(とき)は、別
 して馳走の由、承わり及び候。 必々披露を遂げ、御感成られ候様、申し上ぐべく候。
  当時は日田郡へ大殿様へ供奉仕り、堪忍仕り候間、その儀無 く候。仍って大善寺・浄土
 寺の公米、その方宅所へ津出しの由、承わり候。近来心存じ無く候といえども、沖浜へ運
 送の儀、頼み存じ候、木付所へ先々預け置きたく候間、是非とも馳走憑み存じ候、必ず上
 聞に達すべく候、御存知を為し候、恐々謹言。
 十二月八日 (浦上)宗鉄」

(解 説)
 大友氏の重臣浦上宗鉄が辻間氏に宛てた天正13(1585)年の書状と思われます。山香郷の野原地区の大善寺と向野地区の浄土寺に集められた年貢米を府内(大分市)へ輸送するに際し、鹿鳴越峠を越えて辻間まで陸送された米穀は、辻間氏の「宅所」にて船積みされて府内の沖浜まで運ばれようとしています。
(大分県立先哲史料館研究員 鹿毛敏夫氏)

………………………………………………………………………………・……………
雉城雑誌(親治ノ項)
「木付氏ノ家譜ヲ按ズルニ、義右ノ長男義鑑、其祖父政親、實父義右、年ヲ並べテ此人(親冶)
ノ為ニ弑害セラレシ事ヲ憤ルト雖共、其頃ハ幼年ニシテ、高崎ノ城ニアリシガ、永正二(1514)
年十六歳ニモナリシカバ、内々申進ル族モ多カリケルニヤ。父祖ノ讐ヲ報ゼン為、豊前妙見嶽ノ
城主田原治部少輔親直、臼杵山城守、古庄蔵人、三千人、木付大炊介親實、入田丹後守、山
下和泉守、小田原土佐守三千人、并内應ノ士ヲ合セ、由布嶽ニ狼煙ヲ揚テ勢ヲ揃ヘ、同年六月
二十日、不意ニ府内ノ館ヘ押寄。其勢都合七千余旗、城中ニハ無勢ニテ、防戦叶難ク、親治父
子四人、藤原信濃守親清、永松刑部大輔春政、本庄九郎左衛門満季、本多與二郎興秀等、男
女三百余人、夜中潜ニ館ヲ落テ、沖ノ濱浦ヨリ船ニ乗、國東郡黒津ノ崎ニ至ルニ、風悪ク船ヲ留
メ、同郡伊預野城主田原中務少輔親述ニ便リケルガ、親述モ心悪ク思ヒケレ共、重代ノ主君ナレ
バ、余儀モナク領掌シテ、コレガ館ヘ招入シガ、府内ヘノ聞ヘヲ憚リ、潜ニ其領地成佛村ニ送リテ
米穀塩醤ヲ給資セラレシガ…」

(解 説)
大友義鑑(1502年生、1515年義長の病没により家督を継ぐ)の父は義長、祖父は親治のため、本事件について真偽は疑わしい。 


(5)天正の兵乱後の「沖ノ浜」について
 島津軍の府内侵攻後、別の言いかたをすれば、天正14(1586)年12月の大友、四国連合軍の府内撤退以降、どういう訳か、急に「沖ノ浜」という名が古文書から消えている。「沖の浜」の名が最後に出てくるのは思われる古書には、次のように記載されている。

 「豊臣鎮西軍記」(天正14年 戸次鶴ヶ城後援ノ條)
 「長宗我部元親争戦利ナフシテ、府内ニ退キ、此日(12月12日戸次川の戦いがあったの
  で12夜又は13日)、沖ノ濱ヨリ舟ニ取リ乗リ、伊與(予)ノ日振ヶ島ニ皈(かえ)ルト云々」
 「立花家家譜」
 「天正十四年十月三日豊太閤ヨリ立花左近将監宗茂ニ賜フ處ノ、御書ニ曰、今度其ノ表ニ
  オヒテ、粉骨ノ至リ、聞コシ召シ届ケラレ候フ。然レバ、仙石権兵衛尉、長宗我部宮内少輔、
  其ノ外四國衆、沖ノ濱ニ至リ差越シ候フ。並ビニ毛利、吉川、小早川、門司表ヘ今度、渡
  海行キ及ブベシノ由、出ラレ候フ。此節候間、イヨイヨ越度無キヨウ忠節…肝要候フ也云々」

 これ以降、「沖ノ浜」の港は利用されなかったようで、天正15(1587)年3月下旬、島津征伐のため派遣された豊臣秀長軍の豊後上陸は、府内から既に島津軍は撤退済みであったが、「三佐」、「家島(よしま)」(秀長が本陣を設営する。豊前に逃れていた吉統もここに拝謁に伺候した)、「鶴崎」、「佐賀関」の諸港に入船した。文禄元(1592)年、大友吉統の朝鮮出兵は「家島」から出陣した。文禄3年春の早川長敏の入府は、大友氏の残党による反抗も考えられないのに、府内から遠く離れた「家島」に上陸した。しかし、天正の兵乱による府内の荒廃がひどかったので、そのまま「家島」に仮住まいしたという。文禄3年、中川氏(秀成)が播州三木から豊後竹田に転封になった時は、2月に速見郡小浦港に上陸した。翌文禄4年春、中川家家臣柴山勘兵衛は、豊後の高松(大分市)に着船する。
 ここで、南蛮船も入港し賑わいを見せたという「沖ノ浜」港が使用されていないのは何故であろうか。「沖ノ浜」は文禄3年8月から中川氏の領地(飛び地)となった縁があるのに、柴山勘兵衛は何故この地に上陸しなかったのか。文禄2年5月の大友氏断絶を経て、翌文禄3(1594)年3月の検地終了、そうして各大名が封ぜられるまでは、代官熊谷直陣(注)(府内在住)が豊後国の豊臣家直轄領を管理していた。
 思うに島津軍の府内侵攻時には、町屋、寺社などの作戦上の意図的焼き討ちはなかったのではないか。島津軍による暴行、略奪はあったかもしれないが、むしろ、府内を兵站基地、沖ノ浜を港湾施設として有効利用しようとしたが、秀吉軍の進軍情報を聞き、天正15年3月撤退にあたって、豊臣軍に利用されないため「沖ノ浜」の港湾施設を徹底的に破壊していったのではと推測する。この後「沖ノ浜」の港としての機能は失われた。ちょうど、朝鮮戦争時の中国義勇軍に追われた米国海兵隊の元山撤退に類似している。この時、米軍は港湾施設、工場など軍事的に利用されそうなものは爆破、破壊している。
 豊府聞書の大友吉統の項に次のようにあることから、島津軍による略奪が行われたのは確かであろう。

 「…翌天正十五年三月、殿下(豊臣秀吉)西征ノ先手、渡海ノ風聞アリテ、薩兵日
  州ヘ引入ルニ臨ンデ、寺社民屋ノ重器財宝ヲ拂ヒ盡シテ、兇賊ノ為ニ?奪セラル」

 慶長水災後の慶長2(1597)年3月3日府内城主となった福原直高は、臼杵から府内「沖ノ浜浦」に上陸したとあるが、この地はもちろん「新沖ノ浜」である。
 以上のように破壊された「沖ノ浜」の港であったが、文禄3年8月から新たな領主となった中川氏が舟奉行を配置するなどして、序々に港としての機能を修復していったが、最終的に慶長元年の地震と津波により島自体が海没した。
 一方、府内の外港たる沖ノ浜の港としての機能、利便性はどうだったのだろうか。少なくとも、大友宗麟治世の天文の末、弘治、永禄年間には南蛮船(ポルトガル船)が5回程、沖ノ浜に来航した記録がある。これらの大型のポルトガル船が接岸するからには、相応する水深があり、浚渫などを必要としない天然の港であったと思われる。
 明治初期における大分市の遠浅の砂浜海岸(即ち埋立前の生石、駄原、勢家の海岸線)からは想像できないことである。ただ、日本一鑑を著した鄭舜功が、「海曲ノ中、澳浜(おきのはま)ト曰ウニ次(いた)ル。澳浅、膠船繋泊ニ堪エズ(即ち港は遠浅で船の接岸に適していない)」と記しているのが気になる。この繋泊に堪えない港が、府内堀川港(江戸期堀川町に有)を指すのか府内外港たる沖ノ浜をいうのか、文面からではよく分からない。ちなみに、「澳」の意味を辞書で調べたら「水の陸に湾入したところ」とあった。また、膠船とは船板をにかわ膠で接合した船をいうか。
 「戦国時代の豊後府内港」を著した岡本氏は、この繋泊に堪えない港は入り江内にあった堀川港を指すとしており、外港としての沖ノ浜は大型のポルトガル船も接岸可能で、かつ日本船による兵員、物資の揚陸に充分耐えられる港であるとしている。その証拠として宣教師フロイスの次のような報告を挙げている。

  「…府内の近くに、半里離れた沖ノ浜と呼ばれる大きな村があります。多くの船の
   寄港地であり、揚陸地です。…」
  「…これらの港の中で沖ノ浜に非常に多くの船隊が泊まっていました。その大部分
   は太閤のもので、これらの船は王国の徴収のため豊後に来ていました。…」

 沖ノ浜港かどうかは別にして、少なくとも府内近郊に大型のポルトガル船が接岸できるだけの港があったという岡本先生の説を私もとりたい。 
 このように、ポルトガル船が豊後(府内)に来航したということは、それなりに理由があったのであろう。その一つは、天文から永緑年間の頃までは大友氏の全盛期で九州六ヶ国を支配するなどして、府内の治安が安定していたためであろう。二つ目は、大友宗麟がキリスト教はじめとする南蛮文化、技術(特に鉄砲か)に非常に興味があってこれを保護するとともに、進取の気性があったこと。三つ目は、一項と関連するが、府内では安全な商取引ができ、かつ南蛮貿易における輸出入のための品物を容易に集散できたためであろう。
 しかし、天正年間に入ってから大友氏の武威に翳りが生じはじめると、南蛮船はいつのまにか府内を諦めて、肥前横瀬浦(長崎県西海町)、福田(長崎湾北側)、長崎、平戸に来航するようになった。これらの港は、自然の沈降海岸に出来た入り江又は湾を利用したもので大型船の入港、接岸に充分耐えうる水深があった。加えて、領主の大村氏がキリスト教や南蛮貿易に理解があったことも一因ではないかと推測する。

(注)文禄3年、一万五千石にて安岐城主となる。朝鮮の役では、福原直高、早川長敏らとともに軍目付けとして活躍。石田三成と親しく関ヶ原の戦いで西軍に付き改易。直盛ともいう。


(6)イエズス会司祭の府内脱出時おける沖ノ浜見聞記録
天正14年12月13日(新暦1987年1月21日)、薩摩軍の豊後侵攻に伴い、イエズス会の司祭らが府内を脱出した生々しい記録である。

「・・・本年すなわち1587年1月16日に、薩摩の軍勢は府内から三里離れたところにある利光と称するキリシタンの貴人《利光宗魚》の城を襲った。城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦・・・府内にいる味方の豊後勢は、利光殿の城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティチャンの祝日に府内を出発した。
 府内からは、仙石(権兵衛)がその兵士を率い、土佐国主長曽我部(元親)とその長男(信親)が同様の兵を伴い、さらにパンタリアン(親盛)も兵を率い、その他豊後の特定の殿たちがそれぞれ出発した。清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

・・・薩摩勢は、その日《新暦1月20日、 旧暦12月12日》の午後には府内から四分の一里の地点まで到達し、その途中にあったものを、ことごとく焼滅し破壊した。
 府内の学院にいた我らの同僚たちはそうした動きを見て、上原の新しい城に身を寄せた。同城へは、それより先に家財を送っていたのであり、他方教会には幾人かのキリシタンを置いて見張りをさせた。一同は、敵がその同じ夜に府内に侵入しなければよいがと大いなる不安に怯えながら、その晩は城内で過ごした。というのは、もしそうなれば市民も城内の者もお手上げだったからである。だが同夜は豪雨に見舞われたので、敵は市(マチ)を攻撃して来なかった。
 
朝《1月21日》になって、司祭《フランシスコ・カリオン師》は一同がいるところは、後日薩摩の連中までが語っていたように、人間が住む城というよりは、野獣の洞窟にも等しいものであるのを見て、国主フランシスコ《宗麟》の息子パンタリアン(親盛)に相談した。司祭が府内に留まったのは、ほかならず彼のことを思えばこそであった。これについてパンタリアンは司祭に「この場所は安全ではないので、明日カルヴァリャール師と日本人修道士が住んでいる予の妙見城に移るがよろしかろう。そしてそこで府内のこれから先の様子を窺うことにされるがよい」と。かくて司祭たちは同所から学院に戻って待機していた。まさにアヴェ・マリアの祈りの時間《6時、12時、18時の三回あるが、前後の文脈から18時か》にパンタリアンは使者を寄こして、話したい用件があるからジョアン・デ・トルレス修道士を至急派遣されたいと伝えて来た。その後、修道士は戻って来ると、次のようにパンタリアンの伝言を語った。「嫡子と二名の主将《長曽我部と仙石》は、かの城にいたのでは安全でないので、同城を手放して嫡子の伯叔父(田原)義賢が監視している、高崎城に行くことを決めている。ところで今後どのように情勢が変わるか判らないから、伴天連殿は上原の城や学院に置いてある家財のことは断念して、ただちに今晩にでも妙見城に赴かれるがよいと思う。そのために伴天連殿に同行する人を派遣することにする。伊留満方は教会に留まり、城が放棄されるのを見届け、城が実際に放棄されたならば、予が学院に立ち寄って二人の伊留満をお連れしよう」と。

この伝言によって司祭は急ぎ始めたが、さりとてすでに時計は夜の八時を告げていて、そう早く行動に移るわけにはいかなかった。司祭は一人の修道士《トルレス師》とともに、それぞれ馬に乗り、修道院の使用人たちは何も携えないで出発した。というのは同所《府内》から妙見城までは十三里もあったし、大雪が降っていたからである・・・・。
 修道院を出ると、一同はそのあたりの田畑から大勢の人々が出て来るのを見て驚いた。我らの同僚たちは、すでに殿たちが城を放棄したのかしないのかを知らなかった。だが司祭に付き添っていた男たちは、あまりにも大勢の人々が逃げて行くのを見て、皆が修道士と司祭に急ぐようにと督促し始め、脚をしっかり馬につけるようにと言った。こうして彼らは他の人々と同じように野道を精一杯走った。
 まだ府内から出てしまっていないうちに、市(まち)から半里離れたところにある、船の碇泊地沖ノ浜の村落が焼けるのが見られた。外の方を眺めると、別の地方でもやはり同じように火の手があがっていた。市から逃げ出した人々はそれを見て、さらに急いで逃亡した。平地が続いている間、人々は思いきり走る事ができたが、一方がそそりたつ山となり、他方が海となっている狭い道に入ると、そこに群がりながら進む老若男女の数は実におびただしく、彼らの間に割り込むことも前に進み出ることもできなくなった。夜間のこととて、人々の叫び声や泣き声や歩けなくなって後に残されて行く人々の悲痛なうめき声が聞こえていた。すなわち、親たちは心ならずもその子供たちを、そして夫は妻を置き去りにして行かねばならず、大声と悲鳴をあげながら彼女らを放置し、逃げ終えるために持ち運んでいたものを捨て去って行く始末であった。
 司祭の馬は粗暴であって、人々の喚声や人いきれに盛んに足蹴りし始めたので、人々はやむなく道を開けたから、司祭は前方に出ることができた。かくて司祭は三里《別府村付近か》あまりというものは、つねに仲間の人々を後方に残したままで進んでいった。そして後ろを振り返って見るたびに、すでに府内から立ちのぼっていた火炎がますます拡大するのが認められた。
 
このようにして一同は同夜《13から14日》は一晩中、夜明け前の三時《7時間》まで旅を続け、雪が積もったある野原で一休みした。それからまもなく旅を続け、ようやく妙見に到着できたものの、それはまさに奇跡的な退却であった。もし半時間でも長く学院に留まっていたならば、彼らより少し遅れて出発した人たちのように捕らえられ殺される羽目に陥らねばならなかったからである。そのようになった原因は、嫡子と他の殿たちが、なんら通告することもなく突如として逃走し、秩序を欠いたことにあった。そして哀れな民衆と府内の市民及びその周辺の住民が、その犠牲となったのである。
 同夜《13日》、府内の町を脱出した老若男女は無数であった。ある者は船で逃げ、他の者は死物狂いで深い山の中に逃れた。だが、府内の川の対岸にいた敵はそれに気づいて、彼らを襲って苛酷な損害を与えた。
 土佐の国主長曽我部(元親)はすべての馬を放置したまま、数名の部下と一緒に船で脱走し、家財は途中で放棄した。
 讃岐の国主で、もう一人の主将である仙石(権兵衛)と称する人物も日出から乗船しようとした。彼は関白から、豊後勢を敵から救助するために遣わされていたにもかかわらず、悪事を働き、豊後の人々を侮辱し暴政を行ったために、深く憎悪されており、陸にいる人たちが彼を殺す危険が生じた。仙石殿は片足を負傷したが、二十名とともに脱出し、家財を放棄して妙見にたどりついた。それより先彼は千名以上の兵を従えて讃岐の国を出たのであるが、その兵士たちは、仕えている主人と同類であった。……。
 嫡子も、また妙見にたどり着いた。彼がそこに身を寄せた時はわずか八名の家来しか従えていなかった。……
 それより先同夜、嫡子は高崎に避難したが、そこも安全ではなかったので、彼は伯叔父の親賢とともに彼の本城へ逃れていったのであった。妙見にいる時、嫡子は弟のパンタリアン親盛に、妙見城に居所を移したいと告げさせた。親盛は食料の備えがないことを理由に、それは不可能であると、答えた。
 これらのことは、同じ夜に生じたことである。府内の市は、その晩、夜通し燃え続けた。こうして府内は壊滅し、豊後では、異教徒の三寺院を残すのみでほとんど全てが焼けてしまい、我らの修道院もすべて破壊されたり掠奪されたりした。・・・・・
 フランシスコ・カリオン師が妙見に着いた同じ日・・・・
 だが、妙見においても身を養う術がなかったから、司祭たち全員は下関に赴き、そこでペドロ・ゴーメス師と会い、主において喜び合った」(フロイスの日本史より)

(解 説)
府内の中心にあった大友館(顕徳町)を起点とする「フロイスの日本史における」距離(里程)の記載は、おおむね正確である。ちなみに府内から臼杵7里、朽網(久住)9里、大在3里、戸次3里、日出5里、妙見13里というのは、現在の地図と照合すればぴったり一致する。このため、瓜生島という島であったかどうかは別にして、南蛮船の停泊地「沖の浜」まで半里という距離も信頼性が高い。「沖ノ浜」の場所は現在の勢家町威徳寺あたりになる。

 旧暦12月12日(聖セバスチャンの祝日、1月20日)に、豊後勢は利光城(鶴賀城)の囲みを解くため府内を出発した。途中の高田、清田庄(現在の中判田付近か)の兵を徴集し進軍。府内からの進軍経路は、「古国府の渡し」がまだ開設されていなかったので、「坊ヶ小路の渡」しから下郡、高田(猪野、横尾)、松岡、成松、清田(光永)、冬田を経て大野川西岸を通って鏡山城に入り、対岸の薩摩軍と対峙する。なお、嫡子大友吉統は出撃せず。薩摩軍の府内進撃も、このルートを進み、途中邪魔になった妙林尼の立て篭もる千歳城を攻めたのであろう。
 天正年間の日向道は、宮河内から戸次を通り、犬飼、市場(三重)、三国峠、重岡(宇目)、梓峠から日向へ入ったという。豊後国志(享和三年 岡藩唐橋君山、田能村竹田らの作)付図大分郡でも、府内から戸次への道は、高江の切通しではなく、猪野、横尾、松岡を経るルートである。

およそ3里の行程、徒歩3時間である。鎧、甲冑の軍装姿で三里の道を行軍した兵が短い休憩をとっただけで、同じ日に厳寒の戸次川を渡って薩摩軍と戦かったとは、とても思えない。たとえ、主将の一人仙石権兵衛が血気に逸っていたとしても、兵を休息させ一日置き、薩摩軍の状況を偵察するべきであろう。(信長の桶狭間奇襲戦は充分に諜報活動したので成功した。清洲城から熱田神宮まで三里の道を一気に駆け、同神宮で暫時休息。時期は旧暦6月の盛夏である) 
しかし、「フロイスの日本史」では12日の午後には、薩摩軍は府内から1/4里の地点まで進出したというから、戦いは12日であろう。豊後勢は、早朝午前7時府内進発、午前10時鏡城着、1時間程休憩して、午前11時に戦端が開かれ、4時間程(二時)戦い、午後3時頃勝敗が決着。薩摩軍の先鋒が、夕闇迫る午後5時30分頃、大分川河畔の森岡に進出し展開、その後主力は森岡城に陣を敷いたか。この夜は、豪雨と夜間のため薩摩軍は府内への突入を、あきらめ中止する。(この時期に、豪雨とは非常に珍しい)

参考までに述べると、大友家文書録(公式文書?)によれば、大友・四国連合軍の府内進発は11日で。、翌12日に戦闘。義統も出陣したことになっている。戦い当日の日時(12日)はフロイスの記述と一致する。
「(天正14年12月)十一日、義統及仙石秀久、長曽我部父子、義援鶴城。共率兵発府内。
到義統屯利光村、仙石、長曽我部屯山崎、家久、解鶴城圍屯岡山、隔戸次川対陣。十二
日秀久、欲渉川而撃敵。義統、元親、不肯。然秀久不聞既而、其先鋒三好正安、田宮氏、
渉川、自藪裏、伏兵起、放炮矢、河中兵皆、中矢而死…」 

 12日夜、司祭(フランシスコ・カリオン師)らが身を寄せた上原に新しく吉統、仙石らが築いた城とは? 私はこの城が現存する上野の大友館(大分市上野丘西 石垣が残る)ではないかと推測する。ただし、住民らが立て籠もるには小さすぎるので外郭はもっと広かったのであろう。しかし、仙石、長曽我部氏らは真面目に、この城の普請に取り組まなかったという。

吉統は13日の早い段階で、府内を脱出し高崎山城に避難したのであろう。ただし、長曽我部元親は沖ノ浜から海路、伊予の日振島に逃れたので、吉統には同行していない。仙石秀久も同行はしていないようだ。(秀久は日出で乗船しようとしたが果たせず、妙見を経て、最終的には下関付近まで逃れている) 高崎山城に立て籠もり、一泊した吉統は翌朝(14日)、城の搦手道を東別府に降りたのであろう。なぜなら、表道を下った銭瓶本道は薩摩軍で満ち溢れている、と推測されたからである。以上のような理由で、吉統の妙見到着は、司祭よりも一日遅くなったのである。

夜8時という事であるから、天気が良ければ月灯り(13日の月)の中、脱出か? ただし、前夜は豪雨、当日は大雪というから天気は定かでない。脱出の経路は、顕徳寺(デウス堂 現大分市顕徳町)、上野丘陵、現高崎団地丘陵(この付近で遠くに沖ノ浜が燃えているのを遠望か)と迂回し、生石の浜に降りる。別大国道(海岸道)、片側に崖のそそりたつ仏崎や鎌崎の難所を経て別府浜脇に至る。幸い旧暦12月13日、夜9、10、11時前後の別府湾は引き潮で潮位は各々106センチ、74センチ、45センチである。すなわち干潮時であったため、馬も仏崎、鎌崎の鼻を越えられたのであろう。
江戸正保年間(1640年代)に著述された正確度の高い「豊後國海陸路程並古城蹟」では、大分と別府間の海岸道について馬はかよえずとある。いずれにしても、「フロイスの日本史」は別府大分の海岸道の地勢、状況について、はじめて記載された書物である。

何故、府内から沖ノ浜、勢家、駄原、生石を経由する最短ルートを脱出路として選ばなかったか? 午後8時の時点で沖ノ浜の集落が既に燃えており、薩摩(水)軍が沖ノ浜に上陸し放火、略奪中で通行するには危険と判断したのであろう。しかし、薩摩水軍の活動はなし、また大友方の若林水軍の寝返りもなかった。薩摩軍は水陸の連携作戦を採れば、もっと早く容易に別府湾岸を制圧でき、敗退する豊後勢(四国応援軍を含む)を別府付近で壊滅できたかもしれない。
脱出路として豊前への本道、即ち高崎山の南麓を経る銭瓶街道ではなく、何故難所の多い海岸道を通ったのか? 銭瓶街道は、「戸次川の戦い」で敗れた大友方の軍勢(仙石氏らの四国援兵軍を含む)の撤退で、兵馬が満ち溢れ混雑をきわめていたのが理由であろう。即ち民間人の通行は禁止となっていたのか。

歩行速度4KM/hとして、三里行った3時間後の午後11時前後に別府付近を通過、府内(沖ノ浜)が焼失している火焔を見る。午前3時頃(七里)暗闇の中、鹿鳴越峠(東西は判らず)を越え、薩摩軍の追跡、襲来がないのに安堵し、雪の積もった野原ではじめて長い休息をとったのであろう。その後、妙見岳城にはいる。

「フロイスの日本史」にもあるように、府内からは船でも逃れたようで、「豊府聞書」には以下のような記載がある。
春日神社の大宮司"寒田左衛門"が行方知れずになり、宮師が同神社と神宮寺の宝物を持って海路、速見郡小浦港へ避難しようとしたが、高崎山沖で強風が起こり宝物を海に投棄せざるを得ない状況になった事。若宮神社の大宮司高山氏が宝物と洪鐘を持って京都に逃れようとしたが、乗船した船が、佐賀関沖で沈没、大宮司が溺死した事。

 フロイスの日本史には「修道院」は破壊、略奪されたとあるが、火災は免れたようである。薩軍の府内突入時、「修道院」には関白秀吉から派遣された高野山の木食上人、元幕臣一色昭秀が豊薩の和睦工作のため在泊していた。薩軍が退散し、府内に入った豊臣秀長は滞在中、同院に泊している。

(注1)
「戸次川の戦い」(帆足溢夫氏)による。

午前4時前後? 府内出立
午前6時    津守、鴛野、丹の原、判田を経て、冬田村鏡城着
午前10時 渡河開始
午後 2時 渡河完了
2時間の戦い

仙石秀久 1552年美濃生まれ。戸次川の戦い時は、脂の乗り切った35歳、秀吉子飼いの堀尾茂助(43生まれ)と加藤虎之助(61年生まれ)の中間世代にあたる。


(7)地震と大津波
 慶長の地震の大きさ、震源地はどこであろうか。「理科年表」(国立天文台編)によると震源地は東経131度36分(又は42分)、北緯33度18分で大きさはマグニチュード7.0(又は6.9)とある。ちなみに大正12年の関東大震災はM7.9、平成7年の阪神大震災はM7.2である。高崎山頂上の岩石が転げ落ちたというからかなりの揺れがあったのであろう。震源地は経緯度からすると、日出鵜糞鼻の真南約5.1KM、旧電車通り春日浦交差点の真北約6.3KM(住吉泊地赤灯台から真北約5.3KM)、別府春木川の河口から真東へ約8.8KMの位置(水深約40M)で、ちょうど別府湾の真中(瓜生島があれば島の北側の海)となる。津波を伴った地震は閏7月12日に発生したが、地震の前兆は数日前からあったようだ。「理科年表」では7月3日(閏月ではない)より前震があり、閏7月11日から多発したとある。したがって、閏7月9日(瓜生島沈没については、この日をとる場合もある)にも強震程度の揺れがあったことは充分推測できる。しかし、津波をともなった地震が発生したのは閏7月12日のことであろう。また、前震はあったが、余震については記録がないことから台湾中部地震におけるような大きなものはなかったようだ。
 津波の大きさ、影響はどうであったのか。種々の文献から推測すると、地震の揺れで、「由原神社の社殿が崩壊」、「高崎山頂上の大岩が落下」、「由布院の山崩れ」したとの記録もあるが、ほとんどが津波による海没、流失の記録で津波による被害が大きかったことが分かる。津波の大きさ、被害の状況は宣教師ルイス・フロイスの「豊後の国について」という報告記録(慶長元年12月28日 長崎発信)に次のようにある。

  「 この地震(慶長)と同時に、豊後において起こった事件は非常に重大で且つ恐る
   べきことで、これを報告した彼の地から来たキリスト教徒の口から、その報せを受
   けなかったら信用出来ないことでしょう。
    豊後の最も古いキリスト教徒の一人が到着するのを待っていました。(禁教令が
   出た後のことである。都ではなく、長崎、平戸あたりに滞在していたか)その男は
   ビアジオ(ブラス)と呼ばれ、立派な男で、神を畏れ、めぐり合った大きな危険から
   逃れた男で、この地に到着するや、あの場所で過ごしたことをわれわれに物語りま
   した。そして現在でも(そのことが起ってから既に二ヶ月にもなるのに)自分自身を
   取り戻していないし、自分の生国の瓦解の驚きを取り除くことが出来ないと言って
   います。
    府内の近くに、マイル三哩(約4.8KM)離れた沖ノ浜と呼ばれる大きな村があり
   ます。多くの船の寄港地であり、揚陸地です。この立派な男は、この地名にちなん
   で沖ノ浜のビアジオ(ブラス)と呼ばれ、豊後では良く知られていますが、それはこ
   の男の家が各地から来る多くの人たちの宿泊所になっているからであります。この
   男の言うには、夜間突然あの場所に風を伴わず海から波が押し寄せて来ました。
   非常に大きな音と騒音と、偉大な力で、その波は町の上に七ブラッチョ(約4M)以
   上も立上りました。
    その後、高い古木の頂から見えたところのよると、大変吉狂いじみた激烈さで、
   海はマイル一哩(約1.6KM)も一哩半(約2.4KM)以上も陸地に這入りこみ、波
   が引いたとき、沖ノ浜の町の何物をも残しませんでした。…同じ海岸の沖ノ浜の近
   くの四つの村、即ちハマオクナイ、エクロ、フィンゴ、カフチラナ及びサンガノフチエ
   クイ(岡本良知氏によると浜脇、津留、日出、頭成及び佐賀関に相当するという)の
   一部は同様に水中に没した言われています。浜脇ではキリスト教徒は一人だけだ
   ったので、多くの中でこの人だけが助かりました。
    これら港の中で沖ノ浜には非常に多くの船隊が泊っていました。その大部分は太
   閤のもので、これらの船は王国の徴税のため豊後に来ていました。これらの船の多
   くは、既に積荷を終って出帆の時を待っていましたし、他の船は積荷を始めていまし
   た。その外、多くの商人の小舟がいましたが、これらの船についてビアジオは、確
   かに聞いたこととして次のように断定しています。即ちこれらの船は一隻さえも助か
   らず、同一場所で砕け、全部が沈んでしまったと。…
    府内の市は、いつも強情で頑固な頭をもつ人物(早川長敏)の所有であった。司祭
   や修道士たちがこの市に住み始めてから43年になり…この地震によって五千の家
   屋があったと言われる町が、やっと二百になったといわれています。…
    ファカタ(大分市高田郷)の地においては、四千人以上のキリスト教徒がおり、善良
   な老人イオラン(ジョラン)が殉教したところですが、この地震のとき大河(大野川、乙
   津川か)を通って海が三里(約4.8KM)も這入りこみました。…しばらくすると河はも
   との河床に帰りましたが、大きな破壊をもたらしました。即ち多くの家が崩壊し、多く
   の人が死んだのです。…
    国王太閤の徴税役の頭目をしている或る異教徒(代官熊谷直陳、別名直盛)は、性
   質と習慣が邪悪で、府内の市に居住しながら妾とその一人の息子をもっていた。
   家が倒壊した時、この(妾)と息子は押し潰された。しかし、彼はもう一人息子をもって
   いたので、同様な事件で(息子)を失うことを恐れると、高田のキリスト教徒達のもとよ
   り安全な場所避難所はないと考えて、この(地震の)嵐が鎮まるまでキリスト教徒に(
   息子)を預けた。…

    以上のことは、これまでの我らの司祭たちや、自分の眼ですべてを見た、他の信頼
   に値する人々の書簡から集めることのできたものである。」

 これらの記録から類推すると、12日午後4時地震が発生し、暫くして揺れは収まったが、海が鳴動、井戸の水が枯れた。ただし、水枯れは沖ノ浜だけのことか、或は旧府内も含むのかは不明。この後、夜になって津波(波高約4M)が襲来し、海水が「沖ノ浜」の 陸地に2.4KMも這入りこんだというから、入り江、大分川沿いにあった旧府内の町(顕徳町を中心)も怒涛に洗われたではないか。長浜社、同慈寺仏殿が崩壊、流失したが、海岸に近い浄土寺(生石)、春日神社(勢家)の神殿が、流失などの被害を受けた記録がないのは何故か。(もっとも春日神社については、豊府聞書に「・・・・春日大明神寶殿、前年罹大地震洪波。将壊・・・・」)むしろ、神社境内に長浜社の祠が流れ着いたという記録があるくらいだ。
 旧暦閏7月12日は新暦では9月4日となり、日没は18時20分頃となる。ルイス・フロイスの記録では、「夜間海から波が押し寄せてきた」というから津波の来襲は少なくとも19時以降であろう。さらに、大正4年発行の大分市史には次のようにある。

  「我が豊後(別府)湾の海岸地方にても、激震ありて約2時間30分以上を経て、海水
  一旦遥か沖合いに引き退き、海岸干潟となりしこと数里、かくて約1時間半の後、高さ
  数丈の大津波来りしことは…」

 これが事実とすれば、波間に漂流した人は、暗い月明かり(12日だから満月に近い)中を、人家の灯り(火災によるか)を目印に勢家、駄原、津留の浜に流れ着いたことになる。地震、津波の被害の全容が分からぬまま、不安な夜を迎えた府内や沖ノ浜の人々の気持ちはどうだったのであろうか。しかし、幸いなことに初秋の頃であり、海水温が25度位のため漂流していても体温が低下せず、助かった人も多いのではないか。
 津波による死没者(溺死)は708人(数字はほとんどの瓜生島関係書で同一で、この数字は別府などを含まない瓜生島及び府内周辺のものと推測する)とある。島民の1/7が助かったと聞書には記されているので、島民数をXとすると、下記の数式が一応成り立つ。

X−708=X/7  X即ち島民数は831人となる。島民のみの溺死者を600人とすると、X−600=X/7 この場合は島民数は700人、島民の免死者は100人となる。

死者が少なかったのは、「井戸の水枯れ」「海は引き退き干潟露出」などの前兆現象があって、本土府内側住民に避難する時間、余裕があったことによるのであろうか。しかし、それでも死没者は708人にものぼったというから、府内近辺にこれらの溺死者を埋葬した場所に、供養塔や慰霊碑があってもよさそうだと思い調査したが見当たらないようだ。ただ、別府海門寺では旧暦7月16日に毎年追悼の法要を開催していたり、また豊府聞書によると「春日神社境内に漂着した瓜生島天神を、村民毎年6月25日祭る」などとある。
 ところで、私の実家は海から数百Mの距離にある。瀬戸内海、豊後水道、日向灘、北太平洋などで地震が発生し、気象庁から津波警報が発令された場合は、一応避難の準備はした。しかし、実際に人的被害を与えるような津波が襲来した記憶は、最近50年間、つまり私が誕生してからない。また、明治中期大分に測候所が設置されてからも、大分市を含む湾岸が津波に襲われたという記録はないし、さらに慶長の水災以降400年間、死者が発生したような津波災害はないようだ。地震のエネルギーは充分蓄積されているはずである。過去の経験を元に、別府湾岸で津波が発生する場合を予測すると次のようになると思われるので参考にしたい。
  @別府湾内を震源とする地震(M7.0程度)であること。(湾外で地震が発生しても
   津波の襲来はないようだ。別府湾の地勢によるか)
  A海鳴りがすること。(どんな音か聞いてみたい気もするが)
  B湾岸の井戸の水が枯れること。(我が家にも井戸あり、大切にしたい)
  C海水が引き退き、干潟が出現すること。
 最後に、別府湾内、湾外で地震が発生したと想定し、各種地震データによるシミュレーションが行われ、湾岸に襲来する津波の状況(波高など)を分析した調査報告書があるそうだ。この調査、分析結果を是非見たいものだ。
 また、慶長地震から約50年後に書かれた「豊後國古城蹟並海陸路程」(正保年間1644年頃作、信頼性の高い資料)の筑紫右近佐領分の項に「別府村より未ノ方は、濱脇村之内、鍋山古き要害有。先年の大地震に嶺残分、南北に二十間、東西五間。・・・・」とあるところから、慶長年間に別府湾岸に大きな地震があったのは間違いない。当時(正保年間)は、まだ、慶長の地震、津波被害を実際に体験している人(60歳以上)が生存しており、地震の恐怖の記憶が残っている時期である。


(8)「新沖ノ浜」と呼ばれる地域
 ここでいう「新沖ノ浜」とは、慶長水災時に瓜生島から逃れてきた人達が移り住んだ集落である。では、「新沖ノ浜」とはどの地域をいうのであろうか。雉城雑誌などには現存する寺社の町名を、次のように記している。

寺社 町村名 寺社 町村名
威徳寺 沖ノ浜 住吉祠 勢家村
蛭子祠 沖ノ浜 西応寺 勢家村
法専寺 勢家町

 これから江戸天保年間時に「新沖ノ浜」と呼ばれた地域を推測すると、現浜町交差点を中心として、北は現恵美寿神社付近の海岸線、南は西応寺、住吉社の北側、西は威徳寺、東は入り江水際までの南北に細長い町であったのではないか。竹中氏治世の慶長10(1605)年に描かれた府内城下絵図でも、前記に相当する部分が澳濱町(沖ノ浜町)と記載されている。他に勢家方面では、勢家本町(神宮寺温泉前通りに面す)、勢家裏町(法専寺東側通りに面す)の町名が見える。天保年間は、威徳寺が沖ノ浜、法専寺が勢家の感覚である。


(9) 海岸線の変遷と砂州
 奈多海岸の沖合いには、砂浜の浸食、流失を防ぐための離岸堤が設置されている。奈多海岸の砂浜が減少、陸地が後退するようになったのは、河川から運ばれ海に流れ込む土砂の量が少なくなったことによるようだ。これは、国東地方の山間部で江戸期まで盛んであった河川流域における砂鉄の採取が行われなくなったためである。砂鉄採取時にでる大量の廃土を河川に流していたが、明治大正期には鉄鉱石を輸入するようになって、効率が悪く、採算に合わない砂鉄採取が行われなくなった。中国地方の山間部でも砂鉄採取が行われ、この結果、土砂により海岸部にかなりの平野が形成されたという。また、明治以降河川の氾濫を防止する目的で多くのダムが建設された。しかし、副次作用としてダムに土砂がせき止められ、下流に流出しないようになった。
 以上のような理由で、砂浜の前進、後退は沿岸流が運ぶ漂砂(河川から流入する土砂など)の量に大きく影響を受けるのである。砂浜を回復するために、離岸堤はどれほどの効果があるのであろうか。効率的に砂浜を増やすために、海岸線から離岸堤までの距離K、離岸堤の長さM、離岸堤間隔Nはどうやって決めるのか、興味のあるところだが専門家でない私には分からない。素人なりの分析では、離岸堤による砂浜(砂州)の形成過程を図に示すと次のようになるのではないか。
 
       砂   浜 
 
                           K
         砂州        波線
 
    漂砂  離岸堤         離岸堤
        寄波の方向  N     M
        
       

       砂州形成過程

       砂    浜              砂     浜
        
         砂州                  砂 州
                   
                   経 年
    漂砂   離岸堤                  離岸堤


        (a)                  (b) 

 砂浜(海岸線)にほぼ平行に離岸堤があり、これらに垂直な寄波があった場合、離岸堤、寄波、漂砂及び砂浜の相互関係によって、波線の方向が変わり図(a)のように離岸堤の中心を頂点とする砂州の突起がまず発生し、これが長年にわたって続くと図(b)のように砂州が離岸堤まで繋がることになる。このような離岸堤を何個も連ねれば、砂州が出現して砂浜が増加、前進したことになる。奈多海岸では、砂州の出現は顕著でなかったが、別府的ヶ浜のスパビーチでは離岸堤の効果が充分現れている。また、大分市田ノ浦の人工海水浴場でも人工島と砂浜との間に砂州が現れつつある。
 今までは離岸堤と海岸に対して寄波が直角に当たる場合であったが、次のように直角でない場合(45度)はどうか。下図のように、この時も砂州は形成されるが、注目すべきは離岸堤際の片方の海底がえぐられ、水深が深くなることである。
 
        砂  浜                 砂  浜
 
     浸食   砂州      深くなる        砂州     浸食
                                 
                 漂砂の流れ         
              離岸堤
     45度                           45度
      
      寄波の方向                    寄波の方向

    砂  浜                  砂  浜

        砂州                     砂州
                  深くなる
              

                  漂砂の流れ   


      寄波の方向                   寄波の方向
(寄波の方向による砂州形成)

 砂州の形成には、離岸堤のような構造物が最適であろうが、海岸から少し沖合いに何か波線の方向を乱す(回折)ものがあればよい訳で、これは島、岩礁、消波ブロック、難破船、人工島など何であってもよい。特に陸地と島を繋ぐような砂州は専門用語で「トンボロ」と言うようだ。
 ところで、瓜生島(沖ノ浜)は「豊府聞書」、「雉城雑誌」によると勢家町の北二十余町(約2.2KM)にあったという。このうち、「雑誌」は「聞書」の距離をそのまま転載したものと思われる。距離2.2KMという場合、起点、終点とも海岸線をとるのが一般的であろう。このため、起点は勢家の浜、終点は瓜生島(沖ノ浜)の海岸線となる。しかし、前述「雉城雑誌」(瓜生島跡)の通り、沖ノ浜没入後、勢家の海岸線が浸食され後退していったことが分かる。次に明治初年から慶長年間までの勢家の浜における海岸線の変遷を推測してみる。

     年 代      海岸線(陸地)の位置    備  考
@明治初年  明治38年参謀本部地図よりやや後退 1870年頃
A江戸天保年間 @よりやや後退 雉城雑誌編纂の頃 1840年
B江戸文化年間 Aよりもさらに後退  伊能測量時 1810年
C江戸元禄年間 @より海岸線500M前進状態と想定  豊府聞書編纂の頃 1700年
D江戸慶長年間 @より海岸線1KM前進状態と想定 沖ノ浜海没直後 1600年

 ここで、注目すべきは、府内勢家の浜は瓜生島の海没後、海岸線の後退(海進現象)が江戸文化年間の頃(1810年)まで続き、これ以降は逆に明治中期の頃(以後は自然海岸に埋め立てなどの手が加えられたので対象外)まで土砂堆積(大分川が運んだか?)などによる海岸線の前進(海退現象)があった。つまり、勢家の浜は江戸文化年間の頃が、最も海岸線即ち陸地が後退していたと思われる。豊府聞書は元禄年間の作であるが、瓜生島までの距離の起点を、元禄時又は慶長時のどちらを勢家の海岸線としたのであろうか。
 文化7(1810)年に伊能忠敬は勢家の海岸線を測量している。この伊能図(府内近辺海岸線の測量軌跡を朱字記載)を見ると、当時の勢家の海岸線は西応寺門前(仙石橋付近)から威徳寺前道路方向の延長約450Mの位置となっている。すなわち、旧電車通りを渡った浜町北「現恵美須神社」と「○○理容店」の中間付近に海岸線があって、「旧工藤商店」(我々はシンミセと呼んでいた。屋号か? 現在○○酒店がある)付近に測量杭"沖印"を設置したことになる。旧工藤商店の前には、従前(明治年代の頃か)から赤い円筒形の郵便ポストがあった。(現在、郵便ポストの位置は昔より50M程南に移設されている)
 一般論として、ポストは利便性を考えて、人の集散しやすい場所に設置される。したがって、江戸後期はこの場所が現浜町の中心地で、府内藩の日記に出てくる「沖の浜番所」など府内藩の公的機関があったのではないか。またこれからすると、文化年間は現恵美須神社が海中にあったことになるのだが。・・・・(伊能測量における測量杭"沖印"については別項で詳しく述べる)
 しかし、「豊府古蹟研究」(昭和6年発行)という本によると、「…此の社地(恵美須神社の現在の社地)は大正5(1916)年頃に移転したもので、それ以前は現在よりもずっと南で、現に同町(濱町)平松重太郎氏の宅地となって居る場所に鎮座されてあったといふ。…」と述べている。簡単な地図を書くと次のようになる。大正3年発行の地図(2万5千分の1 参謀本部陸地測量部)でも鳥居の神社記号は、現恵美須神社の位置よりずっと南に記載されている。
 神社が移転するというのはそれなりの理由があったのだろう。大正5年頃に大きな天災地変がこの地にあったという記録もない。しかし、大正初期大分港の開港に伴う埋立地に、大分市は海岸道を新設した。そうして、王子町、春日浦、浜町を経るこの海岸道が新川までつながり旧電車通りとなった。浜町(沖ノ浜)の集落はこの旧電車通りにより分断された。このため、旧恵美須神社周辺が旧電車通りの開通に伴い支障となるので、現在地に遷宮したのではないかと推測する。遷宮年次が電車通りの開通時期と妙に一致するのも事実である。
 恵美須神社が移転したという「話し」を知る人は90歳位の年齢となるため、浜町界隈でもほとんどいないであろう。神社が移転してから、あまり年数の経ってない16年後に「豊府古蹟研究」が執筆されていることや公的機関発行の地図の神社記号から「恵美須神社」の社地が移転したことは間違いないであろう。祖父(明治22年生まれ)から、もうちょっと浜町界隈のことを詳しく聞いておけばよかったのに・・・・悔やまれてならない。ただ、祖父の話しでは旧恵美須神社付近で「西南戦争」における仙石橋を挟んだ戦闘でたおれた戦死体を、荼毘に付したと言っていたのを聞いたことがある。
 また、母の話し(母は戦後、浜町に嫁してきたので祖父母からの又聞き)では私の実家は元々電車通り付近にあったという。文化年間(1810年頃)の海岸線は図又は前述のようであったから、この話しは間違いないであろう。土砂の堆積で序々に海岸線が前進し砂地が造成されていった。この砂地(国有地)に、電車通りにあった我が家が移転したのは、大正年間の頃であろうか。移転の理由は漁業をしていたので海岸線から遠くなって、便利が悪くなったことなどが考えられるが、実際の理由は、家業が傾くなどの理由があって土地を手放したのではないか。いずれにしても、国有地に引っ越すなどとはあまりよい理由ではなかったろう。


(10)瓜生島(沖ノ浜)の位置と砂州
 前(6)項で述べたように海岸線の変動があったので、豊府聞書などで勢家村から瓜生島までの距離は明確であるが、起点がはっきりしないため島の位置は不明、推定困難である。
 ただ気になるのは、勢家沖にあったという瓜生島が勢家村を領有する府内領(慶長地震当時は早川氏)ではなく、今津留村を領有した岡領(地震当時は中川氏)に属していたということである。一般的に領地の境界は、自然地形(山、川、海などの障害物)を利用して決められるものである。瓜生島が島であったとすれば、府内領と岡領(瓜生島)の境に海が横たわり地形という点では特段問題はない。また、一般論として、瓜生島と本土側の今津留村の土地(島、本土側とも岡領)がそんなに離れて存在するはずはないと思われる。ここで、読者のかたは思い出してほしい。大正11年までは、弁天島、中島一帯は東大分村(今津留)に属していたのである。慶長年間、岡藩領となった今津留村は当然弁天島、中島(湿地帯でほとんど価値なし)を含んでいたであろう。したがって、瓜生島が勢家沖にあったとすれば、岡領今津留村東端の弁天島からもそんなに遠い距離ではないと思われる。
 また、瓜生島が府内の陸地(勢家の浜)から砂州で繋がった島であれば、当然勢家村と政治的、経済的にもつながりが深くなり、府内領になるのが当然のことである。では何故岡領になったのであろうか。
 一つの考え方として、私は当時陸地と島を結ぶ砂州の形成が不充分で、その真中部は満潮時には海に浸かり、干潮時には露出するといった程度の物でなかったかと推測する。このため、砂州の真中部分を境に岡領(今津留村)と府内領(勢家村)が分かれていたのではないか。このことを類推させるような古文書があるので次に紹介する。弘治元(1555)年に海賊倭寇の取り締まり要請のため、豊後に来着した鄭舜功(ていしゅんこう)は「日本一鑑」という本の中で沖ノ浜について次のように述べている。

  「澳の濱(沖ノ浜)の港から、馬に乗り5、6里(中国里のため約4KM)の距離に
   ある大友館まで行った。港は浅く、船底がつかえ停泊できなかった」

 鄭舜功は沖ノ浜から馬に乗り、住吉社前の入り江沿いを通過していったのであろう。このことから、沖ノ浜は府内と陸続きか、もしくは干潮時には、歩渡りが可能であった程度と思われる。また、大分川(干潮時でも歩渡り不可能)渡河の記載がないことから、沖ノ浜は大分川/住吉川東岸の今津留村ではなく、西岸の勢家村の沖合いにあったことになる。
 さらに、天文20(1551)年、大友義鎮に招かれたフランシスコ・ザビエルの府内上陸の模様が次のように書かれている。(17世紀作者不明)

  「…華やかにパードレ( ザビエル)に随行する行列をつくった。小舟に乗り移ったと
   きには、船は動揺していた。(沖ノ浜港で小舟に乗り移ったか)覆いに絹の旗を
   押し立て…(小舟は)進行した。かくして(本船の)祝砲に送られて河(大分川)を
   相次いで上がって行って上陸した」

 小船に乗ったというから、本船は日出港から府内に近い「沖ノ浜」港に回航したのであろう。小舟は湿地帯の入り江(現府内城北の中島)を過ぎ、大分川(支流又は本流)をさかのぼり、現長浜神社付近にあった舟着場に接岸したと思われる。
 二つ目の考え方は、砂州は勢家の浜からでなく、弁天島西から瓜生島(沖ノ浜)に向って延びていたのではないか。このような状況であれば、瓜生島が岡藩領となったのも理解できる。では鄭舜功が馬に乗って、府内に向ったという記録はどう解釈すればよいのであろうか。瓜生島から弁天島までは、砂州により陸続きとなっており問題はない。弁天島と対岸の勢家は、住吉川で隔てられているが、干潮時は歩渡り即ち徒歩で渡河可能程度の水位ではなかったか。これを示す証拠として、時代は250年程隔たるが「伊能測量日記」に弁天付近の次のような記述がある。

  「…2月13日朝晴天、先手後手六ツ頃、府内城下出立。後手我ら【忠 敬】沖浜
   町、沖印【仲町ではない】より初め、勢家町由布川"川幅百間"【約182M】を
   渡る。今津留村・・・・」

 日記や府内藩の記録によると、弁天島から由布川(大分川)を舟にて渡河し、今津留村に上陸したことは間違いないようだ。しかし、勢家側から住吉川をどのようにして渡ったのか一言も触れられていないことから、干潮時に徒歩で越えたと思われる。当時、大分川河口部は現在のように人工堤防できちんとしきられている訳ではなかったので、満潮時は川水が一面に広がり、干潮時は水位が下がり湿地帯になるというような状況ではなかったか。


(11)勢家砂州の発生過程
 ここで、読者の方は、川が大きな出現要因となった糸ヶ浜海岸休暇センター前における砂浜と人工構造物との間に出来た砂州を思い出してほしい。さらに、前(6)項の「寄波の方向による砂州形成」によると、離岸堤(ここでは瓜生島)が勢家の海岸線に対して、平行ではなく西南から東北に傾きをもっていた時、@勢家の浜に直角に向う寄波、A大分川が流出する土砂が西に運ばれ、漂砂となるなどの環境であったため図のような砂州(勢家砂州と以後呼ぶ)が発生したと思われる。また、沖ノ浜港が島の西端(即ち砂州の西)側にあった場合、府内まで小舟で行くには砂州(干潮時)が邪魔になるので、島の北側を迂回することになり都合が悪い。このため、図のように勢家砂州は港の西側に発生していたか。
 一方、瓜生島と弁天島間に砂州(図では弁天砂州)が生じたのは、住吉川、大分川の両川が運ぶ土砂が、弁天島の北側でぶつかり徐々に堆積して繋がったのではないかと推測する。しかし、これらの推測はあくまで専門外の私の所感である。


(12)瓜生島(沖ノ浜)登場人物
@プラス(ブラス)またはピアジオ
  プラスという人物については、岡本氏が「戦国時代の豊後府内港」の中で、「 ザビエルの沖ノ浜における宿舎の主人で、本人、妻やその兄弟などがその時からキリスト教信者になる機縁を得、天正7(1579)年には沖ノ浜において、プラスとその弟 のペドロとが熱心な信者であった」と述べている。さらに、岡本氏はプラスなる人物について、慶長地震の被害の模様を宣教師(ルイス・フロイス)に伝えた沖ノ浜の有力者「ビアジオ」なる人物と同一ではないかと思われ、そうだとすれば、慶長地震及び水災当時(慶長元年)は、66歳以上の老人ではないかと推測している。

(注)プラスとペドロの兄弟(1579年 フロイスの日本史より)
「…これらと同じくして、親賢(田原紹忍)が自分の妙見の城に向かう途中、府内を通過すること
になった。…大勢の人々は、親賢が府内に行くのは、教会を破壊し、司祭や修道士たちを殺すた
めだと思い、また事実公然とそのように話されていた。こうして同日の午後、それらの報せはただ
ちに司祭館に伝わり、宵の口には一人のキリシタンが同じことを言いに来た。彼は町で人々が話
していることを通告し、それは間違いないと述べた。夜半に先立って、沖の浜ブラスという世帯
持ちの、はなはだ信心深い我らの親しいキリシタンが、ペドロという教名の兄弟とともに武装して
駆けつけた。彼らは半里以上も遠いところから急遽駆けつけたのであって、こう言った。『親賢が早
朝にも、同行の別の殿とともに教会を襲撃してくることは、もはや絶対に間違いありません。彼らは
既に嫡子(大友義統)から、そのことで許可を得ているのです。そのことが判明しましたので、私達
は教会で伴天連様たちと死ぬ覚悟で、こうして参上したのです』と…
 だが親賢は、一度決行を決めていたものの、我らの主なるデウスが彼にそれだけの力をお与え
にならなかったために、同夜は我らの仲間一同危惧していたような襲撃は敢行しなかった…」

A幸松家(勝忠、信重)
 瓜生島の有力者として島長の幸松氏(丹次郎勝忠、甥左門丸信重)がいて、瓜生島古地図に居宅は「埴屋敷」として記載がある。幸松家所蔵記録「瓜生島崩れの由来」( 明治初年編纂のため信頼性に欠ける面もある。原本は戦災で焼失したという)によると、「…幸松勝忠、信重は慶長の水災に遭って、加似倉山( JR西大分駅南側の山か)近くの陸地に漂着。加似倉山を始めとして、向かい側の大寶山、大平山(一の坂を登った小山か)を見ると由原宮善神宮と記した御神燈が数百あった。その夜は、加似倉山にて一夜を明かし、早朝海上を見渡すと瓜生島は跡形もなかった。悲しみにくれていたところ、浄土寺四世の住職聲譽上人が来り招きて、両人とも浄土寺に寓居する」とある。
 幸松勝忠なる人物は、浄土寺の住職と以前から親交があり、熱心な浄土宗の信者であったようでキリスト教徒ではないようだ。したがって、幸松勝忠は沖ノ浜の有力者「プラス又はビアジオ」と同一人物ではないことが分かる。また、沖ノ浜には浄土真 宗(一向宗)の道場(威徳寺の前身)があり、寺内町ではなかったかといわれるが、有力者幸松家は一向宗の門徒でもなかったようだ。島長幸松家は慶長の水災により、家運が傾き没落しかけたが聲譽上人の尽力があっ たことを「豊府古蹟研究」は以下のように述べている。
  
   「慶長二酉年福原右馬助直高入國の節、駄原浄土寺の聲譽上人が、幸松家を沖ノ濱
   長として復興の嘆願をなし…許可された。さらに、甥信重は聲譽上人の扶助を受くること
   甚大であったので、其の後上人が西応寺を開くや其の檀越(檀那)となり、爾後幸松本家
   の当主の墓は総て西応寺にある由である。…」

 さらに「豊府聞書」によると、この幸松勝忠、信重の子孫が堀川町長となり、府内城主日根野吉明の承応2(1653)年に仙石橋の改修(土橋から木橋へ)を行った際、一族郎党、奴婢を引き連れ渡りはじめをしたことが記載されている。
 幸松という姓を電話帳で調べたが、堀川(現都町、住吉町)付近には見当たらなかった。しかし、昭和初期まで幸松家の直系は堀川に 在住し、酢の製造、販売(商品名豊府酢という)をしていたようである。この豪商幸松家屋敷を昭和16年頃の大分市内絵図で調べたが、屋敷はもちろん屋敷跡も堀川通り沿いに見当たらなかった。幸松家は終戦後その消息が分からなくなったというが、昭和16年頃には既に家業、家運が傾いていたのであろうか。姓の読み方は「さきまつ」、「ゆきまつ」どちらをいうのか。また、大正年間「大分県と地震噴火」という論文を発表した大森房吉理学博士が、「慶長地震と伏見地震の関連について」説明をした別府亀川の「幸松嘉作」という人物は堀川幸松家とどういう関係があるのか。

B岡藩士柴山了賀及び重成
 岡藩の沖ノ浜における舟奉行となった柴山了賀( 両賀、重祐)、養子勘兵衛重成という人物がいる。岡藩主中川氏は文禄の役で藩主が不慮の死を遂げるという不祥事が あって、播磨三木12万石から豊後岡(竹田)6万石に移転、減封を命じられた。豊後の国は大友氏が領地没収となり、その後に石田三成と親しい武将(早川長敏など)が、石高は小さいが大名として取り立てられた。そういう意味から言えば、中川氏の転封は左遷、降格人事である。
 中川氏の豊後転封から慶長地震に遭遇するまでの年表を、柴山勘兵衛記(詳細は別途紹介予定)を元に、次に記載する。

文禄2(1593)年 5月   大友吉統、豊後国を没収される。
 同年       11月   中川秀成豊後岡へ転封を命ぜらる。
文禄3年     2月8日  中川秀成 播磨三木から速見郡小浦に着く。3月2日岡(竹田)に入城。
 同年      8月25日  岡藩、今津留村御拝領。同所沖ノ浜を「舟着き」とする。今津留村石高462石、萩原村843石
 同年       10月   早川氏豊後へ入府、高田庄家島にぐうきょ寓居。慶長元年3月の説もある。
文禄4年       3月  了賀堺より大舟15艘に武具、兵糧などを積み、高松(大分市)に上陸し、竹田に着く。竹田城下の土地を切り開き、武家屋敷を新設、整備。
 同年        6月  了賀沖ノ浜の舟奉行となる。(禄高千石)
 慶長元(1596)年1月  了賀(勘兵衛も同行と推測)沖ノ浜に移り住む。堺時代に劣らぬ居宅、土倉を造る。
  同年       2月  了賀慶長の役で朝鮮へ出陣。沖ノ浜留守居勘兵衛重成。
  同年     閏7月  大地震、津波襲来する。地震により被害を受け、両村の石高が減少する。今津留村石高105石、萩原村238石となる。
両村の石高は「豊後國八郡見稲簿」元禄14(1701)年によると次のようになる。本書は岡藩主、臼杵藩主の両名が調査し幕府に提出したもので、正確度が高い。村高は、今津留村石高101石、萩原村104石である。
   同年     11月  岡藩、今津留村(本土)に「舟着き」を変更。
  慶長19(1614)年     勘兵衛重成死去(47歳)

 以上から分かる通り慶長大地震に遭うまで、沖ノ浜に了賀は1ヶ月、勘兵衛は7ヶ月という短期間の在住である。そうして、両名は舟奉行相当規模の堺時代に劣らない屋敷と倉を現地に普請した。(地震当時はほぼ完成か)沖ノ浜を含む今津留村の飛び地は、内陸の岡藩に朝鮮出兵のための軍船建造、兵站基地として秀吉から特別に認められたのであろう。軍船建造のための材木は、竹田から大野川の水運を利用して運搬したのであろうか。幕藩体制が固まった江戸時代中期以降、外様大名に対してこういった便宜を与えるのは、到底考えられないことだ。秀吉から拝領した今津留村の石高は462石であったが、地震により357石に相当する田圃が消失し( 沈下又は流失か)、約100石となった。被害の状況は、隣の萩原村のほうがひどく、約700石の田圃が消失した。消失した石高から推測すると、慶長年間の今津留村、萩原村両村の海岸線は明治38年の頃(5万分の1地図)よりもかなり海側に前進していたのではないか。勢家の浜においても同様に陸地の沈下、流失があったことだろう。地震、津波災害の後、岡藩は新たな舟着き場を、今津留村(本土側)に設けた。しかし、元和9(1623)年、越前から松平忠直(一伯)が豊後に配流されたことにともない、岡藩は幕府から今津留村の「船着き場」(中津留、花津留村も含む)を返上して、大野川河口の三佐に移転するよう命じられたそうだ。石高は下表に示す通りほぼ同じである。また、元和5年頃は津留だけでなく、牧、萩原村も岡藩領であって、萩原の港から乗船し江戸へ出立した記録がある。

  「元和五巳未十月  竹田御領牧村庄屋並に萩原村 岡甚右衛門
               中川様御通行道造入箇・・・・
               殿様(中川公)並御行列御供衆方萩原船着場より御乗船、江
               戸へ向け御出立」
  
     津留が岡領だった時の石高(豊後國八郡見稲簿による)
    今津留(101)、中津留(なし)、花津留(26)、牧(228)、萩原(104)
     計 459石

    三佐が岡領だった時の石高(豊後國八郡見稲簿による)
    三佐(154)、海原(108)、元三川(今三川の半分 65)、その他(94)
    計 421石

C沖ノ浜住人 河田助左衛門
 「豊府聞書」において、住吉神社の項に、「河田助左衛門」なる人物が出てくる。助左衛門は旧沖ノ浜(瓜生島)に住んでいて、慶長の水災に遭遇し、新沖ノ浜(現住吉神社の近く)に移り住んだ。住居の近くの藪林中に、住吉神社の荒廃した祠があったが、清浄の地でなくなったので、慶長4年再建なった西応寺の住侶菴甫(または安保)と相談して、当寺境内に神体を遷した。この辺の経緯を年表化してみる。
  
豊府聞書(住吉祠)
  「…正保二年(1645)乙酉春、日根野吉明西應寺境内ニ小社有ルヲ聞ク。家臣
   木口氏ヲシテ西應寺ニ遣シ、其ノ神名ヲ問フ。住侶江庵答ヘテ曰ク、此ノ神一之
   宮ト云フ。木口氏之ヲ城主ニ白ス。城主聞キ再ビ之ヲ問ハズ。其ノ後江庵一之宮
   之故事ヲ由原神職ニ問フ。神職答ヘテ曰ク是レ正ニ住吉大明神也。…
     豊府城北沖濱住吉宮ハ往昔攝州ノ住吉宮ヲ勧請スル處ニシテ、社廟儼然トシ
   テ、祭祀時モ違ハズアリシヲ、天正之兵亂ニ罹リ、瑞籬荒廃シテ華表破壊ス。其
   ノ宮地阡陌タリ民家ト成。故ニ其ノ地之民人壊朽ヲ恐ル。住吉神像ヲ禿倉ニ営シ、
   之ヲ安ンジ奉ル。…既而有歳時。
     慶長年中、沖濱町住河田氏助左衛門、西應寺ノ住侶ニ語テ曰、予(河田)舊
   ノ濱(即瓜生島)ニ住居セシガ、前歳洪濤ノ急難ヲ免レテ、今沖ノ濱ニ住ス。予ガ
   居地境内ノ藪林中ニ禿倉(小祠)アリ。住吉大明神ト名(なづ)ク。舊此邊ハ其神ノ
   舊地タリト雖、民屋ト成テ、浄境ナル地ニ非ズ。是レ故一之宮ヲ西應寺之境内ニ遷
   サンコトヲ請フ。住侶之ニ應ジテ、禿倉ヲ西應寺之境内ニ営シ、遷宮成ル。今一宮
   是レ也。…」 

慶長元(1596)年閏7月   地震、大津波により瓜生島沈没。
同 2(1597)年       浄土寺第四世聲譽上人、津波災害に遭遇した幸松氏を庇護。
同 4(1599)年        聲譽上人、西応寺を再建。住侶を菴甫(安保)とする。
幸松氏、西応寺再建を援助する。
同 4(1599)年 3月    河田助左衛門、住侶菴甫と図って住吉祠を西応寺境内に遷座。
元和元(1615)年      竹中氏、新沖浜町長戸倉助右衛門を蔵役に命ず。
寛永11(1634)年以降   寛永年中(日根野吉明治世以降 )、吉明西応寺の住侶江庵に境内の祠の謂われを問う。助左衛門悔しがる。
同 15(1638)年      浄土寺第六世信譽上人、西王寺から西応寺に寺名を変更する

 当初この助左衛門が、ザビエルを泊めたプラスではないかと思っていたが、助左衛門のこのような行動を見ると、熱心な神仏信仰者であると思われる。したがって、キリスト教の信者ではなく、ブラスとは同一の人物ではないようだ。上記の年表から河田助左衛門の生没年を推測すると、元亀年間(1570年頃)に生まれ、70歳を越えて寛永年間末(1640年頃)に没したのではないか。さらに、戸倉助右衛門と河田助左衛門は、同じ新沖ノ浜に住していたので面識があったはずである。また、この河田助左衛門の子孫と、阿部淡斎が「豊府聞書」の著者という元禄年間に生存した河田某との関係は如何なるものか。

D道場の開祖植木氏
 瓜生島に「威徳寺」の前身となる一向宗の道場があって、島住民の植木氏が開いたという記載が「豊府聞書」(大友義長の項)にある。

「威徳寺ハ…豊府之北、一万千九百余歩瓜生島ニアリ。累世之住民植木氏、其ノ性実
 ニシテ阿弥陀仏ヲ信ズ。…然レバ植木氏道場ヲ成サント欲ス。永正己巳(1509)年秋
 七上旬、商船ニ付シテ大坂ニ至ル。本願寺ニ詣ズ。実如上人剃髪シテ弟子トナリ、道
 正ト名ズク。…道正甚ダ喜ビ新タニ道場ヲ営ム。…俗ニ呼ンデ瓜生島道場ト云フ」

 また、「雉城雑誌(豊府雑誌)」の威徳寺の項に次のようにある。
「…開基ハ釈道ニシテ、当府瓜生島ノ住民植木氏也。永正六(1509)年、本願寺実如上
 人ニ随仕シテ、剃髪ノ後、名ヲ道正ト玉フ。同十年帰国ニ臨デ…島中ニ一向専修ノ教ヲ
 導ク。時ニ俗称シテ瓜生島ノ道場ト呼ベリ。…」

 大字駄原(王子町)には、植木姓の方々が多いが、瓜生島に在住していた「植木氏」の子孫であろうか。


(13)瓜生島図の比較
瓜生島図は次に示す通りの2種類(他に植木氏所蔵の物があるが、これは省略する)がある。ここで、これらの地図の違いを比較してみる。
@「豊陽古事談」に掲載の付図
 宝暦10(1760)年、麻田某が記した「豊陽古事談のはし書き」は次のように述べている。

 「 本書は元々、寛文年代(1670年頃)に誰か(作者不明)が編纂したものであったが、百年後、府内高屋氏宅の庫中から偶然発見さ れたという。これを高屋氏が書写して秘蔵していたという。さらに、この写本を宝暦年間、故あって麻田某が手に入れ所蔵することになった」

 府内高屋氏とは、「豊府聞書」(浜の市)にでてくる高屋某のことか。

 「聞書曰。日根野織部正諸州ノ政事ヲ聞ニ、国民ヲ安ンゼンガ為、多ハ新市ヲナス。…即、
  府内町ノ長、高屋氏ヲ召シ、新市ノ事ヲ示シ…吉明、市ノ日員ヲ七日ニ定ム。自十一日
  至十七日。然シテ高屋氏、吉明之命ヲ奉ジテ…時ニ、寛永十三(1636)年八月二日吉
  明御殿ノ原ニ至リ…」

 この豊陽古事談に、安政4(1857)年、別府市朝見の長松寺住職「仙玉」が自ら収集した資料を追記し、編集したのが「新豊陽古事談」である。この瓜生島図が寛文年中に編纂された古本に既に付図として掲載されていたものか、安政年間に「仙玉」が創作して追録したものかは、はっきりしないという。



A幸松家所蔵の地図(大分市史掲載)
 瓜生島の島長であった幸松家に伝わる地図。


                       豊陽古事談付図と幸松家所蔵図との比較(NO1)

豊陽古事談付図 幸松家所蔵図 備考
瓜生島、久光島他2島の計4島。大洲あり。 瓜生島1島のみ、久光島は陸続き。大洲あり。 雉城雑誌では、瓜生、久満、住吉、松崎島の4島
渡しの距離 勢家濱から瓜生島 2町半
瓜生島と久光島間 8町
    −
瓜生島と久光島間 8町
瓜生島 豊陽古事談付図 幸松家所蔵図 備考
村名
(西から)
申引村、森崎村、中津村、濱村の4村 申引村、森崎村、中津村、濱村、マツサキ村の5村
出崎の名称 向崎、毛利崎、磯崎、恵悦崎、神崎の5崎 ー 、松崎、磯崎、恵悦崎、神崎の4崎 西から時計廻り
神社
(西から)
宇那大男、三社天神、蛭子社、住吉社 宇那大明神、三社天神、道祖社、蛭子社、住吉社 豊府紀聞
沖ノ浜鎮守天神
仏閣
(西から)
垂井寺、西応寺、道場 ー 、ー、道場
居宅等 埴屋敷、勝久塚、塩釜 幸松氏埴屋敷、勝久塚、塩釜
大きさ 雉城雑誌
東西36町、南北21町
大久光島 豊陽古事談付図 幸松家所蔵図 備考
地勢 浜脇から離れた島 浜脇から陸続きの半島
出崎 後崎(東端)        −
大久光村 大久光、小久光の2村
仏閣等 道場 道場
小久光島 豊陽古事談付図 幸松家所蔵図 備考
地勢         −
出崎 西から前崎、海門崎         −
小久光村         −
仏閣 久光寺(火王石)         − 火王石△印表示

                   豊陽古事談付図と幸松家所蔵図との比較(NO2)

海岸沿いの状況(東から時計廻り) 豊陽古事談付図 幸松家所蔵図
村名 原、高松、新貝、萩原 ○、ー、○、○ ○、○、ー、○
鼻(花)津留、中津留、今津留、牧 ○、○、○、○ ー、○、○、ー
同慈寺町、笠和、勢家、駄原 ○、○、○、○ ○、○、○、○
生石、御殿原(村名ではない) ○、○ ○、ー
白木、田浦、高崎 ○、○、ー ○、○、○
赤野、赤松、田野口、浜脇、朝見 ○、○、○、○、ー ー、○、○、○、○
別府、南石垣、中石垣、北石垣 ○、○、○、○ ○、ー、ー、ー
石垣、平田、亀川、古市 ー、○、○、○ ○、ー、○、○
河川 大分川 ○裏川、津留の三角州表示
二葉川(祓川) 生石
桜川(鳴川) 両郡橋
朝見川 ○(河内川の名は未記載)
某川(春木川?) 北、中石垣村間 ○(川の名は未記載)
某川(平田川?) 平田、亀川村間 ○(川の名は未記載)
某川(新川?) 亀川、古市村間 ○(川の名は未記載)
出崎 芦崎 勢家 勢家(凸状ではない)
出崎(名無し、瓜生島への渡し場)
浜町恵美須神社前道路の延長?
芦崎と黒崎間(凸状) 凸状
黒崎、寶崎(祓川河口の東岸) 駄原、生石 ー、生石
鯨崎 白木 白木
仏崎、高崎、鎌崎 全て田ノ浦 全て田ノ浦
出崎(名無し、久光島への渡し場) 浜脇付近 半島
出崎(名無し、境川河口付近?) 別府、南石垣村間
出崎(名無し、上人鼻か?) 北石垣、平田村間
出崎(名無し、八郎鼻か?) 古市村北
寺社他 春日社、神宮寺(現青松園の位置) ○、○ ○、ー
火王石(宮)△印表示あり ○(生石)
笠縫島 島らしき地形あり
洋(灘)地蔵、安部氏居館、四極山 ○、○、○ ー、ー、○
朝見八幡、天神(石垣) ○、○ ー、ー
街道 銭瓶街道(高崎山南越え) ○(赤野西側、勢家分岐)
豊前街道(別府方面)
鶴崎街道 ○(牧村経由)
方位 方位マーク ○明治以降に追加?


大正4年「大分市史」掲載の府内古図