高崎山(城)雑記
(1)高崎山万寿寺別院
1.豊陽古事談付図(1857年頃作成)に、当地に安倍氏居館、灘地蔵の記載がある。
2.大正年間 高崎山に山火事あり、猿の頭数が激減し数える程度となる。(大分市史 S30)
猿の頭数 明治末「約600頭」、大正年間の火災後「数える程度」、昭和15年「100頭以上」、終戦直後「200頭」
3.営林署が大正2年と昭和6年の二度、頂上(面積五段歩)に松を植林。昭和7年頃その他数次の山火事あり。(高崎山城史跡 S47)
4.昭和11年、当地を所有していた北九州の炭鉱王が土地を切り開き、別院を創設し万寿寺に寄進。
5.昭和18年、侍者寮に禅修養のため宿泊していた第一高女の三教諭が土砂崩れにより殉職。
6.昭和28年、自然動物園が開園。
7.昭和29年、万寿寺、猿寄せ場を院外に出すよう市に申し入れ。(その後の経緯は不明だが、解決する)
8.昭和37年、小6の遠足で、城の腰から登り両郡橋に下山。(両郡橋への下山道は現在荒廃して通行不可)
9.昭和39年、高崎山下海岸を埋め立て「マリーンパレス」がオープン。
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正面は禅堂、右は侍者寮 |
隠寮と庭 |
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副司寮と三応寮をつなぐ回廊 |
副司寮裏から見た別府湾 |
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手前は複線化のため新しくできた線路(別院下から) |
隠寮の裏手 |
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円通閣跡から隠寮を見る |
円通閣跡、高台の平場であるが、眺望は全くきかず。 |
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円通閣跡の石像 |
円通閣跡の石像 |
円通閣とは
「豊府古蹟研究」高崎山(昭和8年2月執筆)の項に、「北側の海に接する檪山(くぬぎ)の電車の停留所に下車し、、、、別院円通閣の観音に賽して、、」とある。別院の創設は昭和11年といわれるから、禅堂等はなかったが円通閣はあったということか。余談だが、観世音菩薩のことを円通(えんずう)大士というから観音像をまつる建物を円通閣と呼ぶか。また、「ただいま零匹」(火野葦平作)に、「裏の観音堂、、、」とある。開園前は、この辺まで猿が降りてきたようである。当時の市長がほら貝を吹き、隠寮の座敷で猿がさらに降りてくるのを待つ。
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禅堂前の石垣(建設は別院創設時?又は開園時?) |
猿寄せ場に上る階段と石垣(建設年次は?) |
禅宗の用語解説
(2) 鳴川登山口
2003年1月19日(日)
高崎山(城)へ鳴川口(両郡橋)から目指す。鳴川沿いに舗装道を登り鉄柵の入口を過ぎ山道に入る。浜脇、田ノ浦両村入会の秣場(銭瓶石騒動)を経て頂上を目指すが、道が荒れていて分からなくなり途中から引き返す。山道に沿って、上部を黄に塗った木杭(NO記す)あり。木杭NO22(右手下に民家が見える)の所で引き返す。木杭は何のため? 再挑戦!!
天文(永正?)年間、「朽網親満が主家に背き高崎山城に篭った時、この登山口から佐伯氏が攻め上がり、敵を挟撃し鎮圧した」という記録がある。また、私も小六の頃、遠足で高崎山頂から両郡橋へ下った。下りでも結構勾配があり、きつかった思い出がある。
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鳴川(両郡橋)の登山口。右が鳴川 |
浜脇、田ノ浦両村入会の秣場から別府湾 |
2003年3月23日(日)
再挑戦するも、登山道は荒廃し分からず。鳴川沿いに電気柵を設置中(木杭NO43まで)。工事名「高崎山電気牧柵設置工事」○○建設。どこまで設置するのか? 山道沿いに赤土あり、赤野という地名の由来か?
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柵の左側に鳴川、右側は銭瓶石騒動の秣場(入会) |
柵の終点(木杭NO43)、左に鳴川の小流、遠くに赤松嶺 |