昭和初年の別大国道

(1)この写真は、平成17年6月県立図書館に展示されていたものを職員の了解をとり、デジタルカメラに収める。
  説明書きには、「昭和初期の頃の国道10号線沿線を暗箱カメラで撮影したものです。保管していた旧建設省が廃棄処分としましたが、 記録資料として貴重と判断した個人によって保存されました」とある。
  展示されたもの以外にも、写真はありそうなので全ての公開を、職員に要望した。

(2)昭和初年の別大国道拡幅工事(平成年間に実施されている六車線化前の道路、護岸形態)
  この拡幅工事は昭和7年から昭和14年に掛けて実施される。
  @大分市生石に第3号国道第一期工事竣工の碑(昭和8年3月 内務省)
  A高崎山下に国道改良記念碑(昭和14年11月7日 纐纈弥三知事の名前刻印 大理石)
 

@拡幅前の道路幅員は4から5M程度か。当時としては立派な石垣の護岸(高さ3、4M)であるが、台風時の波浪は防げないであろうし、通行不可。蒸気機関車、別大電車も見える。人家があることから、大分市「かんたん」に近い場所と推測する。写真中央やや左の海底にある溝のようなものは何か、この位置に新護岸を建設するのであろうか。干潮時のため海底露出、石ころの岩石海岸である。 A道路の右半分を埋め立て拡幅か、右端は歩道か。別大電車線路、日豊線を跨いで、丘陵へ向かう坂道があることから、大分市「かんたん」に近い場所と推測される。行軍する47連隊の兵士ら、写真では、護岸と海は確認できず。人家がないことから、@の写真よりやや別府方面へ行った位置か。左下の数字は撮影日で昭和12年10月15日。
Aと同位置。左山手の坂道(フェンス付)は日豊本線複線化時に改修か。
B正面が白木の集落、中央左の出崎は鯨崎。別大電車が通過中、土砂を積んだ荷馬車も見える。拡幅工事前の道路幅員は、色んな資料に記されているように4〜5M程度である。 C鯨崎の鼻?を、別府側から撮る。干潮時の為。海岸に人が降りている。海岸から道路上まで高さ5M程の自然崖となっている。撮影時は昭和8年5月5日、この付近では埋立拡幅工事は未着工の段階。海底の溝(梯子を掛けている)は何だろうか。
Bと同位置。中央左手に鯨崎の突端にあるワシントニアパームが見える。道路の1車線目が電車路、2車線目が旧道に相当する。 前方にワシントニアパームのある鯨崎の突端。左手は改修拡幅工事の護岸。護岸から海底まではCの写真に相当する護岸高さである。
D仏崎付近か。左手に直立する崖が仏崎であろう。道路と海の間の埋め立ては終わって、これから埋め立て部分の護岸新設と嵩上げ工事が始まるようである。遠くに、鹿鳴越えの山並みが見える。 E別府市濱脇、道路舗装中。新道路護岸も完成し埋め立て拡幅も終了している。歩道幅も既に確保済み。濱脇の海面埋め立て(大正13年)も、完了しており既にビルが建設されている。手前は別大電車の線路で両郡橋から複線化済み(昭和13年11月)。道路の側溝蓋は、現在とあまり変わらないようだ。
興趣のなくなった仏崎。さらに、前方の建物(市所有)が景観を台無しにしている。 JR日豊本線の石垣を背に撮る。

*写真@からEは、大分市「かんたん」から別府市浜脇へ向かう順番で並べた。