空が薄暗くなるのが早いか、あの鳥の群が寝床に帰るのが早いか。
それとも、僕があの店に入るのが早いか。
僕は、足を速めた。

 結果は惨敗で、走っている途中に大粒の雨が無情にも地面を鮮やかなまでに濡らしたことだ。
この調子だと、あの鳥の群も濡れてしまっているに違いない。
 なんとか本屋の軒下に入り空の様子を眺めていると、同じように雨に降られた白のシャツが薄っすらと透けている女子高生が雨宿りに来た。
やましい気など微塵もないのだが、変な誤解をされるのも面倒なので視線をすぐに空へと戻した。
 雲は、ところどころが明るく輝いており、長雨になるのではなく夕立であることを物語っている。
それでも、2,30分は続くと思われるこの雨。
荷物が多くなると思って、傘を持ってこなかったことが非常に悔やまれるが、仕方が無い。
 小脇に抱えていた茶色の封筒に入った大事な資料が濡れていないことを確認し、封筒を持っていたハンカチで軽く拭く。
水滴は、表面張力によって封筒の上で綺麗なドームを幾つも作っていた。
それを、丁度目線までもってきて水滴のドームごしに世界を眺めてみることにする。
 通りを走る人たち。
雨宿りをする時間さえないのだろうか。
時間に縛られた悲しき人たちの群を、僕は鳥の群を見るような同じ気持ちでは見ることができなかった。

 その時、辺りが一瞬明るくなって、水滴も光を増した。

  稲光だ。

 僕は、封筒をだらりとぶらさげて空を眺めた。
そんな不思議な様子の僕を、少しも警戒もしないで口元に笑みを含ませながら例の女子高生は眺めていた。
視線を感じ、そちらを見たのだがなんだか恥ずかしくてまた空を見上げた。

 少し送れて雷鳴がとどろく。

 まだ遠く。

 遠くの雷鳴に負けそうなぐらいの小さな声で、

 「音はかわいそうですよね」

 と言った。

 僕は、思わずどうして、と聞き返してしまった。
これまでの人生の中で、音を可哀想だとは思った事は一度たりともないからだ。
思い当たる節が、全然にない。

 少女は、こちらを見やった後に空を眺め再び光った稲光に驚きもせずに答える。

 「だって、どんなに頑張っても光には勝てないでしょ?」

 「でも、雷鳴が無かったら、大抵の人はかみなりを怖がりはしないと思うな」

 なんとなくだ。
なんとなくそう思ったから、口にした。
 空を切り裂く一瞬の光を見て、昔の人は龍なんていう空想上の動物を生み出したという。
さしずめ、雷鳴が鳴き声に当てはまるのだろう。
光、つまりは龍だけでも怖いだろうが、僕はその龍に目の前で鳴かれた方がよほど怖いだろうと思う。
光は、目に見える。
音は、目に見えない。
逆に、体の芯に響くような重低音。
よくあるように、グラスの中の水に波紋を作り出し、水滴を弾くすさまじい力を持つ音。

 「地上にいる人をどれだけ驚かせるか、という事をしているのだったら、どちらが勝つと思いますか?」

 彼女は、、別に親しい間柄じゃないが、、彼女は、真剣な顔をしてそんなことを訊く。
僕も、その心に応え真剣な表情を作り真面目ぶって答える。

 「カマイタチみたいに、それぞれ役割があるのさ」

 「カマイタチ?」

 「そう、三兄弟なんだよね。一番上が人を転ばせて、二番目が鎌で斬る、そして最後に一番下が薬を塗って、小さな傷に留めるっていう」

 横で彼女は面白そうに笑っていた。
僕は真剣に話していたので、何が面白いのかまるでわからなかった。
だから、話を続ける。

 「だから、雷だってそうで、まず稲光が人々の注目を集める。
 一瞬でも作業を止めて空を見たりするだろう?
 そのときに、大きな雷鳴で留めをさす。
 すると、人は驚き恐怖するってわけ」

 僕は、始終真面目な顔で言った。
彼女は、始終面白そうに笑っていた。
 よく笑う子だ。
僕はそう思った。

 「じゃあ、かみなりもカマイタチと同じですか?」

 「かもね。案外、妖怪だったりして」

 「雷のメカニズム、科学的に説明できますけど」

 「そんなの、人間が勝手に後からごたごたと説明しただけだよ。
 動物の名前だってそうだろう?
 僕らが、ライオンって思っている動物は、実際はノミって種類かもしれない」

 「そのノミっていうのは、誰が決めるんです?」

 「そりゃ、動物たちで話し合って決めてるんじゃないのかな」

 どっちみち、僕たち人間の出る幕じゃない。
もしかしたらだ、もしかしたら動物や植物は共通の言語を持っていて仲良く話せるというのはどうだろう。
人間は、住んでいる地域に寄ってですら言語が違うっていうのに。
なんて、人間はちっぽけな生き物なんだ。

 「やっぱり、貴方って面白い人だった」

 彼女は、ひとしきり笑うと右手を差し伸べてきた。
僕は、その様子を不思議そうに眺め、次の行動をどう出ようかと迷っていると僕の右手を強引に連れ出して握手されてしまった。

 僕は少しだけ唖然として、彼女を取り巻く空気がすぐに気に入り、彼女と同じように微笑んでいた。
雨も、いつのまにか小さな粒となり僅かに地上に降り注ぐのみとなっていた。
 僕は、胸元から小さな紙の束を取り出し、それを一枚彼女に渡す。
自分の素性を、簡略化して印刷された白い小さな名刺。
滅多に人に渡す機会というものがないので、手持ち無沙汰になっているのだが。
彼女は、戸惑い気味だったがちゃんと受け取ってくれた。
 それを確認すると、僕は本屋の軒下から飛び出して腕にひっついている時計を見やった。
約束の時間までには、なんとか間に合いそうで一安心。
 その時、再び稲光が生じ一瞬の間を置くこともなく地を響き渡る雷鳴が轟いた。
僕は、自分の心臓がほんの一瞬縮まるのを感じた。

 彼女は大丈夫だろうか。
そう思い、後ろを振り返る。
一匹の狐が、街中を走り去る後姿が見えた。
 人でない人間と会うのは、久しぶりだ。
僕は、もう一度だけ空を仰ぐ。
空から人を見下ろして住まう目に見えない者を見上げるようにして。

 「我が、神、なり」

 僕は、足を速めた。