駅前の通りから一歩外れると、細い道が蛇のように入り組んでいる。
住宅の中にぽつんと取り残された獣道のような道は、この町の本当の住人でなければ知らないだろう。
おのずと、獣道の先に行き着く甘味処「手鞠堂」には本当の住人しか集まらない。
近代の音など、そこにはあるはずもなく
とても静かな時間が漂い、自然の音が遊んでいた。

 店主は、一体幾つなのかと問いただしたくなるほどの皺くちゃのお婆さん。
(近所の子供からは妖怪などと噂されているが)
誰にでもにこにこしているが、子供達が悪さをするとちゃんと叱ってくれる、
昔ながらの人が細々と店を一人で切り盛りしていた。
これからもずっと一人でやっていくのだろうと誰もが思っていた。
そんなある日の出来事だった。

 九十九里知也(つくもり ちや)は、学校の帰りに真っ直ぐ家に帰るのが、なんだか気に入らなくて
いつものようにいつもの道を通りいつもの店に向かっていた。
手鞠堂は、知也にとって唯一の隠れ家である。
いつからかははっきりと覚えてないが、物心ついた時から一人で手鞠堂に遊びにきていた。
 知也が覚えている一番古い手鞠堂の記憶は、幼稚園の時、自分の大事に飼っていた金魚が父親が誕生日プレゼントとして買ってきてくれた三毛猫に 一匹を残して、食べられてしまったことだ。
 憎き三毛猫に、マジックで眉毛を書いて復讐してから家を飛び出した。
かなりの時間走ったので、遠くまで来たのだろうと思ったのだが、結局は近所の手鞠堂に着いていたのだ。
店の前の椅子に座っていた店主とその膝の上の三毛猫で豚猫に出迎えられた。
涙と鼻水で、ぐちゃぐちゃになった知也に一瞬驚いた店主だったが、
温かい甘酒をついでくれ、知也の頭を笑いながらそっと撫でてくれた。
 それが、知也と店主の出会いだったような気がする。

 家に帰ると、両親が家の門の前で心配そうに知也の帰りを待っていた。
足元には、眉毛のかかれた三毛猫が。
なんだか、おかしな生き物だと思い知也は笑いながら駆け足で家の中に入っていった。

 その後、生き残った金魚の身がやはり心配で川に放流した。
今思えば、そっちの方が危険だったかもしれない。

 それから、嫌な事や、泣きたくなるような事があるたびに手鞠堂に入り浸っている。
あそこに行けば、心が来る前よりも確実に軽くなるのだ。
帰り道は、必ずといっていいほどスキップなんてしながら帰る。

今日もそうなるのを期待していた。

「おばあちゃん、聞いてよ、今日さー…」

 のれんをくぐりつつ、店の奥にいつもちんまりと座っているおばあちゃんに話し掛けた。
そのつもりだった。
視線を向けると、膝の上で気持ちよさそうに寝転がっているデブ猫。
それは大して問題ではなかった。
問題は、デブ猫に膝をベッド代わりにされている本人だった。

 黒のジャケットに、黒のパンツ、黒のスニーカー、おまけに黒渕の眼鏡。
黒々とした頭髪に、長めの前髪はどうみてもおばあちゃんではない。
成人式をとうに迎えただろう男性が、不思議そうな顔をしてこちらを見ているではないか。

 知也は、おばあちゃんがそこにいると思っていたので、突如現れた黒尽くめの男に混乱し無意識のうちに構えの姿勢で対応していた。
ブルース・リーに憧れて、カンフーを少しだけ齧った事がある。
それも、すぐに飽きてしまってやめてしまったのだが、まぁやってないよりはマシだろうと本人は思っている。
大抵の女子ならば、カンフーの道は歩まないと知也の親友の友子は思っているのを知也は知らない。

 知也の頭の中は、必死に冷静の状態に戻ろうとしているが呑み込めない事実が目の前にありすぎて、余計混乱に陥っていた。 あの、デブ猫のまるがおばあちゃん以外の膝の上で転寝をするのを始めて見たのだ。
まるは、知也の家の三毛猫よりも愛想が悪い、というか猫なのに自分の事を猫だと思っていないオーラが漂っている。
自分を人間のように思い込み、なおかつ自分が偉いと思っている猫なのだ。
そんな猫が、まるが唯一服従するのが、この店の店主、おばあちゃんである。
知也も、毎日のように店を訪れているがこんなに懐かれてはいない。
むしろ、鼻で笑われるのだ。
いつも人を馬鹿にしたような態度を取る、非常に可愛らしくない猫。
いつか思い知らせてやろうと知也は、心に決めている。

構えの姿勢を崩さないまま、

 「あんた、誰なの?」

 黒尽くめの男は、くすりと笑うと

 「君こそ誰だい?」

知也が何か言おうとするのを、右手で制し左手で腹の辺りを抑えて必死に笑いを堪えているようだった。
その様がなんだが、まるを思い出させて、知也は良い気分ではなかった。

 男は、店の奥に向かって「ばあちゃん」と呼びかけていた。

 「ばあちゃん?あなた、おばあちゃんの親類なの?」

そこで、構えを解き、真っ直ぐに男を見詰めてみた。
よく見ると、おばあちゃんに似ていなくもない。
鼻筋のすっきりしたとことか、何もかもお見通しのような賢い瞳とか。
共通点をあげれなくもないが、にわかには信じられなかった。
というか、信じたくなかった。
人を小ばかにしたような態度を取るような奴なんて、最低よ!

 「あれ、ばあちゃん聞こえないのかな。まったく...」

 男が、まるをよいしょとどけて立ち上がり店の居住部分の方に入ろうとしていた。

 「ねえったら。あなたこそ、こっちの話聞いてる?」

 振り返ると、さっきのように小ばかにしたような笑いではなく、おばあちゃんが見せる優しい笑みで

 「ばあちゃんに用があるんでしょう?呼んでくるよ、待ってて」

 行ってしまった。
一人残された知也は、なんだか変な日だと思いながら男が帰ってくるのをいつもの席に座りながら待っていた。

 三つの机と、机一つに椅子が2脚。
とても、小さな店である。
メニューは壁に、かまぼこ板らしきものに毛筆でかかれており愛らしかった。
机の上にはいつも季節の草花が飾られていて、今日は桃が--たしか裏庭に、桃があるといっていた--一輪挿しに一枝いけてある。
 耳を澄ますと、男のおばあちゃんを呼ぶ声と、返事をするおばあちゃんの声がする。
それ以外は、草木が風に吹かれ枝をぶつける音だったり、鳥の鳴き声だったり、赤ん坊の泣き声だったり。
いろいろな音が聞こえてくるが、機械的な音はどこにもなく、ここだけ時間が歩いて通り過ぎているみたいだった。
 男に支えられておばあちゃんが手になにやら持って居住部分との境にかけてあるのれんから顔を出したのは、それから間も無くだった。

「やぁ、チーちゃん良く来たね。今日はどうしたの?」

 そうそう、これだ。
この言葉から、私はおばあちゃんに心に溜まったうっぷんを吐き出すのだ。
しかし、今日は違った。
なんだか、自分だけ見えない波に流されてしまったようで何を溜めていたのかさっぱりと頭から流れ去っていた。
あ、と小さく声を洩らし

 「忘れちゃった。まぁ、どうでもいい事だったしね」

 と笑ってみせる。

 そうかい、そうかいと言いながらおばあちゃんは、いつもの椅子に腰掛けて膝の上にまるを呼んだ。
やっぱり、手鞠堂の絵はこうじゃないといけない。
知也は、そう思った。

 「ねぇねぇ、この悪質不動産の手先みたいな人は誰なの?」

 知也の視線の先には、あの黒い男がおばあちゃんが好きだという近所の子が描いたらしいたんぽぽの絵を眺めていた。
本人は、まったく聞いていないらしく軽く鼻歌を歌いながら顔を絵に近づけ笑っている。
やはり、おばあちゃんと似ている。
おばあちゃんは、あの絵を見て何度も幸せそうに笑うのだ。

 「あれでも、自慢の私の孫なんだよ。ねぇ、マコトさん」

 名前を呼ばれ、やっと振り返り「何か言った?」と聞いてくる。

 「マコトっていうの?どのような字を書くので?」

 「誠実の、誠だけど」

 頭にその字を思い浮かべ、誠の顔を見て、もう一度字を思い浮かべてから顔を見た。

 「誠実って感じじゃないわね。」

 おばあちゃんと、膝の上のまるが笑った。

 「おいおいおい、君はどうなんだよ」

 「私は」

 考えた。
自分の名前の字を思い浮かべ、頭を軽く振った。
小さいころは、平仮名でした表さなかったのでなんとも思ってはなかった。
しかし、小学生にあがり漢字で名前を書くようになり、それから自分の名前が悩みの種の一つとなった。
それは、自分の名前が男の子みたいだとからかわれたからだ。
トモヤ。
最初にそう言ったのは、小学3年の担任の化粧のけばい女教師だった。
名前なんて覚えてない。
学校にまで、鼻が曲がるような香水をつけてくる教師の名前なんて覚えるまでもない。
 ショートカットだった髪型も手伝ってか、知也は「男の子」みたいとからかわれた。
学校にいるときは、強気で絶対にくじける様を見せないが 学校の帰りに寄った、ここ手鞠堂では思いっきり泣いたのだ。
 そんな苦い思い出が甦り、苦虫をかんだような表情をする。
とても小さなことだが、とても傷ついた出来事が卒業まで続いた。
それからは、からかわれないように髪を肩より上には切らないようにしている。
長く伸ばして、あくまでも女の子でいようとしているのだ。
それを、おばあちゃんは知っている。
だから、

 「チーちゃんはね、ちやって言うんだよ。綺麗な名前だろ」

 「ちや、ねぇ。どんな字を書くのさ?」

 答えない知也を見て、おばあちゃんはまるの頭を撫でながら優しく言った。

 「チーちゃんは、名前の通り賢い子に育ったね」

 まるが膝の上から飛び降りると、おばあちゃんはよいしょと立ち上がり急須からお茶を注いでいる。
 いつまでもこんな小さな事にこだわっている自分が情けないと思っているが、また人からからかわれるのが怖い。
ちゃんと名前じゃなくて、私のことを見てほしいのに。
結局は、逃げている。
 唇をぐっと噛み机の上に載せた掌を見ていた。

 「おばあちゃんは、チーちゃんの名前好きだよ。もっと胸張ってもいい名前だよ」

 「うん」

 湯飲みに注がれたほうじ茶の香りに包まれる。
 おばあちゃんは、いつでも相手の心の中を判ってくれる。
そして、その部分をそっと撫でてくれるのだ。
時には、背中を押してくれる。

 おばあちゃんに礼を言って、ほうじ茶を飲みながらやっぱりおばあちゃんが好きだなと実感した。

 誠も、おばあちゃんからほうじ茶を受け取り冷ましながら少しずつ飲んでいる。
どうやら猫舌らしい。
人を小ばかにする態度だけではなく、猫舌とは、本当にまるみたいだ。
 それがおかしくて、いつの間にか笑っていた。

 ここは、そんな空間なのだ。
気が付くと笑みが零れている。

 「あのね、誠さん。あたしは、知識の知に、金五萬円也とかの也で知也って書くの」

 ほうじ茶をすする。
香ばしくて、好き。

 「ほう。というか、もっとスマートな教え方は無いのかい?金五萬円也っていうのは、どうもなぁ」

 「なによ。他にどう説明しろっていうの?」

 「だから、もっと、こう...」

 「あの漢字は、他に無いのよ。元は助詞だから、単語だと無いから」

 冷えた指先で温かな湯飲みをつつみ、もう一度笑って見せた。
 気付くと、男も笑っていた。
 おばあちゃんは、そんな2人を見ながらまると一緒に幸せそうに笑っていた。

 すると、男が

 「ねぇ、ばあちゃん」

 呼ばれたおばあちゃんは、なんだい?とお茶を口に運ぶ。

 「あのクレヨンで描かれたたんぽぽの絵さ、もしかしてこの子が描いたの?」

 思わず含んだお茶を湯飲みに戻す所だった知也は、男の顔を困惑の表情で見つめなおした。
そんな知也を知ってか知らずか、おばあちゃんはゆっくりと首を縦に振り

 「優しい気持ちになれる絵だろう?」

 まるが喉を撫でられて、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。

 「知也って、最初ともやって読んだから男のかと思ったんだけど」

 誠は、ちらりとこちらを申し訳無さそうに見た。

しかし、知也は、自分が描いた記憶がどこかにいってしまっている為、困惑するしかなかった。

 「小学校入学の時に、お父さんからもらったんだと言って、そのクレヨンで描いた絵を私にくれたんだよ」

 そうだ。
父親からもらった最後のプレゼントだった。
なぜ今まで忘れていたんだろうか。
三毛猫、金魚惨殺事件などは覚えているのに。
自分の記憶は、曖昧だと知也は思った。

 「その時の、チーちゃんの嬉しそうな顔が今でも忘れられなくてね」

 自分はどこまでも逃げているんだなぁ。
自分が嫌だと思う事、認めたくない事からずっと逃げている。
果ては、記憶を自分で改ざんまでしているではないか。
 おばあちゃんの幸せそうな顔を見て、目頭が熱くなりながらも

 「ありがとうね、おばあちゃん」

 「お礼はね、私がしたいぐらいだよ」

 湯のみの中身が無くなったのを確認すると、知也はゆっくりと席をたち誠の前に立った。

 「誠さんって、おばあちゃんに似てると思う。少し、まるにも似てるかも」

 悪戯に笑って見せると鞄を肩にかけ

 「おばあちゃん、いつもありがとうね」

 店を出ようとした。
そこに、誠が声をかけ

 「これからよろしくな」

 「へ?」

 「これから、ばあちゃんと一緒にこの店やっていくからさ。いつでもどーぞ」

 くるりとおばあちゃんの方に振り返ると

 「そんなの聞いて無いわよ。どうしたの、一体?」

 おばあちゃんは笑っているだけで、答え様とはしない。
なにかきっとあるんだろうなと思いながらも、それ以上は追求しないでいよう。
いつかまた、どちらかが話してくれるわ。
そう思って誠に向き直ると、

 「あたしの好きなのは、甘酒だからね。覚えてて」

 へいへいと気のなさそうな返事を返してくるが、知也は気に止めなかった。
また新しい人と会えたなぁと。
悪い人ではないみたいだから、ひとまず胸をなでおろした。

 「じゃあ、あたしそろそろ帰るね」

 「気をつけるんだよ」

 「おばあちゃんも、風邪ひかないようにね」

 店を出る。
いつのまにか、夕焼けがさしていた。
頭の中に、父親からもらったクレヨンを思い浮かべながら、あれでもう一度ぐらい絵を描いてみようかなと思った。
クレヨンがなくなるのが嫌だからと、大事に使わないで机の奥に入れっぱなしのはずだ。
使っていなかったから、存在も忘れてしまっていたけれど。
もう一度、あれで描いた絵をおばあちゃんにあげたいな。
幸せな笑顔になってくれればいいなぁと、知也は思いながら帰宅した。