ぬばたまの髪 2
佐為は牛車に乗ってそれはそれは美しい寝殿造りのお屋敷に来ていた。
「佐為、ここが内裏の清涼殿だ。」
父は佐為を連れて清涼殿の奥へ、奥へと歩を進めながらそう言った。すれ違う女房達が父に向けて一礼する。
佐為は心細い思いで、一歩前に行く父を見つめていた。もちろんこんな立派なお屋敷に来た事はない。清涼殿と言うのは帝のいらっしゃるところだ、と言う事くらいしか知らない。時おり垣間見える調度は何もかも美しく、しかし時おり無気味な絵が覗いている前を通った。

これからどこに何をしに行くのだろう?

佐為は広々とした明るい部屋に通された。美しい庭には見事な尾長が3羽ほどくつろいでおり、どんより曇った梅雨空でも灰色の空間に彩りを添えていた。

その人はその部屋の奥にゆったりと座っていた。気品のある笑みを浮かべて。

「遅かったではないか、中納言。待ちかねたぞ。」
「申し訳ございません。」

その人はその時をも楽しんでいたかの様に、ゆったりとそう言い、父もそれを知っていたかの様に答えた。
「それが倅の子息か?」
「左様でございます。」
「碁盤をこれに。」
女房の1人がその人の前に優美な飾りの施された碁盤を運び、礼をして下がった。

父は佐為にその碁盤の前に座る様に促した。
「失礼いたします。」
佐為はそう言うとその碁盤の前に座った。ちょうど縁側の前のあたりだ。外からは湿った柔らかい風がやんわりと吹き込んでいた。

この方が帝…?

佐為は眩しげに目の前の男を見つめた。そしてその脇に父が腰を降ろした。

いつの間にかこの部屋にもう1人男が入って来ていた。そして帝からやや離れた碁盤の見える位置に腰を降ろした。佐為はちらりとこの男を見た。この男はまるで怒っているかの様な顔に見えた。

佐為は女房が持って来た碁石を掴んだ瞬間に、自分の心がすっと落ち着いて行くのを感じた。初めて足を踏み入れた立派なお屋敷、帝と思われる雅びな男、その何もかもが遠くに消えて行くような感触…。

「ほう、こんなに幼いのに、倅の子息はなかなかやりおる…。」
自分の劣勢をも楽しむかのような口ぶりで、帝は父にそう言った。帝の碁の力量はさほどではない、と佐為は思った。友達の伊周のほうが強い気がする。
「これ、中納言…。」
後から入って来た男がたしなめる様に父にそれだけ言った。父は聞こえないかの様に涼しげな顔をして、庭の尾長を眺めていた。

「私が負けたら、倅の教えが悪かったと言う事になるなあ。」
帝は冗談とも本気ともつかない口ぶりで、後から入って来た男に言った。彼が帝の碁の指南役なのだろう。この男はそれを聞いていまいましそうに佐為を見つめ、顔を赤くした。

ゆるゆると時が流れた。
「大君様、少しお休みになられますか?」
父が帝にそう申し上げた。少し疲れた表情を読み取ったのだろう。
「そうしようか。久しぶりに手ごたえのある碁を打ったぞ。」
帝は顔を父の方に向けて、優美に微笑んだ。

佐為は丁寧にお辞儀をして立ち上がった。庭の尾長を見たかったのだ。その見事な尾羽は柔らかい風にそよそよとそよいでいた。

「子童、あのお方をどなたと心得る?」
近づいて来た碁の指南役が、帝には聞こえないような小声で佐為に言った。
「大君様であらせられるのでございましょう?」
「おまえのあの碁はなんだ?大君様にあのような碁を打つとは謀反者も同然。おまえなど役人に捕らえさせる事もできるのだぞ。」
ずる賢そうな顔でこの男は佐為を見つめた。

「あなたはこの私に不正をせよと宣われるのか?」
佐為は大きな声で毅然とそう言った。碁の指南役は少々慌てたような素振りで帝の方を見た。この大声で帝も何があったのか分かってしまっただろう。

「碁とは神聖なるもの。お互いに相手を敬い、思い遣ればこそ正々堂々と戦うものと存じます。不正をする事は、相手と自分と、そして碁の神様を貶める行為です。」
佐為は聡明な目を碁の指南役に向け、はっきりとそう言った。

そのとき、清涼殿に 天の梅雨空の雲の切れ目から、一筋の光が差し込んだ。それは丁度佐為の立っているあたりを照らし、佐為のぬばたまの黒髪を照らした。

「おお!」
帝が思わず声をあげた。まるで夜空の大星が舞い降りたかの様に艶やかに光るぬばたまの黒髪。

「藤原佐為と申したな、倅を我が碁の指南役として迎えよう。元服の後、宮中に入るがよい。」
「ありがとうございます。」
きょとんとしている佐為の代わりに父がそう帝に申し上げた。

「お、大君様!」
現在の碁の指南役が慌てて帝に駆け寄った。
「私は!?私はどうなります?」
「案ずるでない。指南役が二人いたとて、何も困る事はなかろう。」

「ただし。」
帝は付け加えた。
「元服の後も宮中に上がる時は、その髪を髷に結うでないぞ。その神の宿る黒髪をそのように長くして参るがよい。」
「仰せの通りに。」
佐為に代わって再び父が帝にそう答えた。



「佐為、その指南役がお前を陥れた奴なのか?」
「はい。今思えばあの時からあの輩は私を追い落とそうと企んでいたのかと思います。それも不正をしたと言う汚名を着せる方法で…。」
佐為は悔しそうな、しかし切ない目で空を見つめた。
「そう、千年も前の出来事です。もうあの指南役も帝もいない…。」
佐為は自分の髪をそっとかきあげた。