「ただいま、ヒカル。」
佐為のそんな声が聞こえたような気がして、ヒカルはふと目を醒ました。妙にリアルな声だ。
昔はこの声が聞こえるのが普通だったんだよな。佐為がいなくなって1年と少しが過ぎた。
あたりはすでに明るく朝の光が部屋に差し込んでいる。
「ヒカルは相変わらず朝に弱いですね。」
「佐為!?」
ヒカルはそう叫んで布団を跳ね上げ、すごい勢いで起き上がった。まぎれもなく佐為の声が聞こえる。
「佐為!佐為?」
「そんな大きな声を出さなくても、私はここですよ。」
1年と少し前までごく当り前だったように、ヒカルのすぐそばに佐為はいた。
「佐為〜〜〜〜!どこに行ってたんだよ!」
ヒカルは今にも泣きそうなくしゃくしゃの顔になって、そう言った。
「天の神に呼ばれて冥土に…。」
佐為は申し訳なさそうにヒカルに詫びた。
「でもヒカル、私はずっとヒカルの事を見ていましたよ。ヒカルが何をして来たか、ずっとずっと見守ってました。」
「佐為がいなくなって、俺は…お…れは…。」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったヒカルを佐為は困ったような笑みを浮かべて優しく見つめた。
「ごめんなさい、ヒカル。」
「またずっと一緒にいられるんだろ?今度こそ、俺、お前に存分に碁を打たせてやるから。もっともっと俺とも打とう、佐為!」
「いいえ、ヒカル。私はほんの3日間だけ帰ってくるのを許されて来ました。4日目の朝に帰ります。ほら、あの道ばたにおいてあるキュウリの馬に乗って来たんです。帰りは茄子の牛に乗って帰るんですよ。」
佐為はくすくすわらいながら、窓から見える茄子の牛とキュウリの馬を指さした。
「今日は御盆の入りです。御盆の間中ここに来る事ができるのです。」
「御盆…。」
ヒカルは壁のカレンダーを見た。いままであまり気にした事はなかったが、確かに御盆の入り、と書いてある。
「よし、時間がないと分かったら、急ごう。今から塔矢先生にネット碁を申し込んでくる。」
「ヒカル…。」
佐為はそれを止めるような仕種をし、そのヒカルの気配りに感謝する笑みを浮かべた。
「あまり時間がありません。私はヒカルと碁が打ちたくて戻って来ました。あの者とはまたいつか打ちましょう。今はヒカルと…。」
「佐為…。でも、塔矢先生はお前との再戦を期して、更に腕を磨いているんだ。俺だけじゃなくて、先生とも打ってやってよ。」
「知ってます、ヒカル。あの者が更に腕を上げた事も。大変魅力的な打手ではあるけれど、ヒカル、今日はあなたがどのくらい腕を上げたのか見に来たんです。」
「よし!」
ヒカルは急いで碁盤を持ってきた。まるで、またすぐにでも佐為がいなくなってしまうのでは、と心配しているかの様に。
パチ…。パチ…。
夏の朝の強い光が踊る部屋で、碁石の涼しげな音だけが響いた。佐為の指す扇子の場所に、前の様に石を置き、更に自分の石を並べていく。
「だあ〜〜〜〜〜〜〜!やっぱり勝てねえ!」
しばらくしてヒカルが叫んだ。
「佐為、お前、前より更に強くなってねえか?」
「ヒカルもです。」
「佐為は天国でもやっぱり碁を打ってるんだろ?」
「天の国の詳しい話はここではできませんが、魅力的な打手は沢山います。」
「そうだよなあ。碁の神様だっているんだろうし。」
佐為は何も言わずに微笑んだ。
「ヒカル、もう一局、もう一局!」
「ヒカル、ヒカルも私みたいに扇子を持つ様になったんですね?」
佐為はいつの間にかヒカルの手に握られた扇子に気がついて言った。
「ああ、これ。ほら、いつだったか塔矢と打った夜、お前夢まくらにたっただろ?あの時お前にもらった扇子の代わりにと思って…。」
ヒカルは照れくさそうに扇子を見つめた。
「俺のお守りのつもりなんだ。そして俺の決意でもある。」
「精神面でも強くなりましたね、ヒカル。」
しかし、ヒカルは首を横にふった。
ヒカルは分かっているのだ。どこかにまだ佐為に甘えて佐為に頼ってしまいたい自分がいる事を。
「俺、まだいつも困った時、心の片隅でお前に助けを求めてしまうんだ。」
佐為は困った顔でヒカルを見つめる。
「いつか笑って、俺の師匠は藤原佐為っていうんだって言える様になるまで、俺は半人前なんだと思う。」
「ヒカル…。」
佐為はそれ以上は何も言わずにただ、微笑んだ。
ちょっと前までは当り前だったこの風景。でもこんなに大切に感じるこのひととき。1人になってみて初めて分かった佐為の大きさ…。
ヒカルは黙々と碁石を並べた。自分と、そして佐為の分と。
今年の夏ももうじき終わる…。
|
|