蝦蟇異形異聞 5

「なんと情熱的な…。」
佐為は自分の心が高ぶってくるのを感じた。
時おりぱち、ぱちという碁石の音が聞こえ、しばらくすると姫の置いた碁石の位置を告げる女房の声が聞こえる。それはあの異形の者と一緒であった。だが、その手は全く異質のものだった。

全く先が読めない。色々な手で自分を翻弄しようと仕掛けてくるのだ。このまま翻弄されてみたい、しかしここでその術にはまればきっと自分の勝つ路は無くなるのだろう。もし自分が負ければ二度と誘ってはもらえないかも知れない。佐為は本能でそう思った。いや、集中しなくては。今は勝つ事だけを考えよう。

このまま弄ばれるのは癪でもあった。佐為は手許の碁盤を見た。扇子を少し広げ、それを口元に押し付ける。確かにこの人の腕はなかなかのものだ。だが、この人は勝とうと思ってないのではないかと思われる節がある。相手が翻弄され、戸惑う様子を楽しんでいるかの様にも思われる。この誘うような沈香の香りもまさにそんな雰囲気を醸し出しているではないか。

佐為は冷静になってもう一度碁盤を見た。ならば主導権を握られなければよいのだ。

佐為は自分の手を姫に告げた。

ぴょん…。
佐為の斜め後ろの庭で小さな青い蛙が跳ねた。

佐為の連れていた二人の共の者が、音もなく立ち上がり、蛙を捕まえようと庭に降りた。だが蛙はこの二人の手をひょいひょいとかわし、庭の中程までやってきた。

「姫様が次の手はありませんとおっしゃいました。」
佐為に女房の声がそう伝えた。
「ありがとうございました。」
佐為と女房が同時にそう言った。

佐為は扇子をしまいながら、何故か去り難い思いで御簾を見つめた。そして思わず莢子に声をかけた。
「莢子様、大変楽しゅうございました。今日はお招き頂きまして、本当にありがとうございました。」
もちろん、莢子様からの返答はなかった。そういう行為は姫として恥ずかしい事なのだ。

「誰!?いやっ!」
ふいに御簾の中から、先ほどの女房のものではない声が聞こえた。恐らく莢子様のものだろう。
「姫様!お気を確かに、姫様!!」
「どうなされました?莢子様!?」
佐為も御簾越しに叫んだ。

部屋の中からは、しゅうしゅうという音が聞こえた。この音は聞き覚えがある。あの蝦蟇の館で蝦蟇が消えたときに起きた音だ。
「御主人様、蛙を捕まえました。」
佐為の後ろで共の者が告げた。
「では、それを土御門通りの陰陽師殿のお屋敷へ!急いで!」
「かしこまりました。」
二人は佐為に一礼すると、そのまま庭を通って門の方に消えていった。

「藤原佐為…。」
先ほどの姫様の声であるような、しかし潰れてがらがらになったような声が、御簾の向こうから聞こえた。
「莢子様に何をしたのです?!」
佐為は思わず叫んだ。
「貴様、この女と随分楽しげに碁を打っていたではないか!」
「きゃあ、姫様!!」
どさ…、と人が倒れる音がした。莢子様についていた女房が気を失ったのであろうと思われた。
「藤原佐為、さあ、わらわとも碁を打とうぞ。」
「もし…、もし私が勝てば莢子様から手を引け。」
「ぐぉっ…。」
鼻で笑うような音がし、心得たと言わんばかりに碁石の音が響いた。

蝦蟇の姫は自分で打った碁石の位置を、自分で佐為に伝えた。佐為は自分の前にある碁盤に、碁石を置きながら自分の打った手を伝えた。そのとき、部屋からは沈香は消え、生臭い嫌な匂いが漂って来た。

自分が時間を稼げば、例の陰陽師が駆け付けてくれる。

「よいか、藤原佐為。もしわらわが勝ったならば、そなたは永遠にわらわに仕えるのだぞ。」
「貴女様がお勝ちになったらですね。」
でも、私は負けません…。佐為は心の中で莢子に誓った。

ぱち…。ぱち…。
気味の悪い静寂が訪れた。碁石を打つ音と、それに続いてその場所を告げる声が低く繰り返される。永遠の時がそこにあるかの様に、ゆっくりゆっくり時間が流れているかのようだった。

佐為はその時、きらりと目を輝かせ、碁石を運んだ。そして無愛想な口調でその位置を呟いた。
「う…。」
蝦蟇の呻くような声が聞こえた。佐為は勝負に出たのだ。今までの手合わせからだいたいの力量は分かってはいた。じっくりと打った方がいいのかも知れないが、莢子の身が心配だった。

「あれ、御主人様!」
ふいに蝦蟇に仕える女房の声が佐為の後ろから聞こえ、佐為の脇をすり抜けて御簾の内側に走り込んだ。
「どうした、緑。」
しゃがれた声で蝦蟇が聞く。
佐為は間髪をいれず、自分の手を打ち、その場所を告げた。
「葵が、葵がおりませなんだ。」
蝦蟇は碁に集中できず、甘い手を打った。
「御主人様あ!」
佐為は畳み掛ける様に次の手を打つ。
「葵を探して下さいませよう。」
「葵は後じゃ!緑、少しは黙っておれ!」
振り切る様に蝦蟇は言い、次の手を打った。

ぱち…。

佐為は情け容赦なく次の手を打つ。ほとんどそれで勝負はあった。
「さあ、莢子様から手を引くのだ。」
「まだまだ!」

その時、再び蝦蟇の女房の叫び声が聞こえた。
「あれ、葵が!!」

佐為は振り向いた。そこには手に先ほどの青い蛙を手にした、白い狩衣姿の陰陽師が庭に立っているのが見えた。そして盛んに何やら呟いている。

「おっ、おのれ、藤原佐為、またしても謀ったなあ!」
ドカッ…。
ふいに御簾の内側から何かが激突するような衝撃が起きた。
「うわっ!」
佐為はそれに打ちのめされた。目の前の碁盤が吹っ飛んで、バラバラと碁石が散らばった。
「ひっ…。」
佐為は思わず叫びそうになるのをやっとのところでこらえた。そこには血を滴らせている蝦蟇の斬首された首が宙に浮いていたのだ。

しゅうしゅう…。

そんな音をたてながら、蝦蟇の首は宙を舞った。
「いかにもわらわは次の帝の御命令で斬首の憂き目にあったれば…。この恨み晴らさずにおけようぞ。」

陰陽師の声が一段と大きくなった。

ドサドサ、っと御簾の内側から佐為に向けて、蝦蟇の身体の一部が次々と襲いかかった。佐為は刀を入り口で置いて来てしまった事を心から後悔していた。
「わらわは貴様がねたましい…。それほどの才能、それ程の…。わらわがそなたであったれば…!」
斬られた首が恨めしげに佐為に向かってそう言った。

「あな、口惜しや…。」

みると、陰陽師の持っている青い蛙が少しずつ大きくなっているようであった。それと同時に佐為の周りにあった気味の悪い蛙の臓物や部品が少しずつ薄くなり消えていった。

陰陽師の声がやんだ。彼の手にはまるまるとした蝦蟇ガエルが抱えられていた。
「終わりました、佐為殿。」

ぴょん…。
その蝦蟇ガエルは陰陽師の手をすり抜けて、お庭の池の方に跳ねながら消えていった。

「どうやら奈良時代の碁打ちが、帝の失脚と共に首を斬られ、その刹那に蝦蟇ガエルに乗り移ったようですね。それ以降蝦蟇ガエルが年老いる度に新しい蝦蟇に乗り移って来たようです。でも、もう大丈夫です。あの蝦蟇ガエルをその碁打ちから解放いたしましたので。」
「不憫な…。私も碁打ちですので、あの人の気持ちは多少なりともわかる気がいたしました。」

「姫様、姫様!」
御簾の内側からは、目を醒ました女房が姫を呼ぶ声が聞こえた。
「ああ、姫様、御無事で…!」
という声と共に啜り泣く声が聞こえた。莢子は無事であったらしい。
佐為は、にっこりと微笑んで頷いた。