有機体研究所から無事逃げ出したヒカルは、怪我の手当てのためにある屋敷につれていかれた。
「ここは私が昔お世話になった方のお屋敷なんですよ。先日亡くなられてしまいましたけど」
saiは悲しげにそう言った。
「さっきの話だけど、なんでオレの名前知ってたの?香とどういう関係?」
ヒカルはシャツを脱ぎながら、ぞんざいな調子でsaiに訊いた。
助けてもらった事はありがたいと思うが、そもそもオレはハメられたんじゃないだろーか?そう思うと
腹立たしくてならなかった。
ところがこのsaiときたらヒカルの質問に、にこにこと微笑むばかりで、いっこうに答えようとしてくれ
ない。
消毒薬を浸したガーゼをピンセットでつまみ、涼しい顔でヒカルの傷口に押し当てた。
「…いででっっ!」ヒカルは悲鳴をあげた。
saiは浅手だと言ったが、けっこう深く切れているようだった。
動いたせいだろう、焼き潰されたはずの光剣の傷口から血が噴出してズボンまで染みている。騎士の身
体でなければ、出血多量でとっくに意識がないだろう。
「がまんなさいよ、これくらい。腸がはみ出てるじゃなし、かすり傷でしょ!」
(腸!?そんなもんがはみ出てたら、オレ死んでるって…)
ヒカルは思ったが、saiはどうやら本気でそう思っているようだった。
器用に包帯を巻き終えると、saiは美しい顔をヒカルに向けてにっこりとした。
「はい、終わり。…さっきの質問、家に帰ればきっと答えが待っていると思いますよ」
そう言ってまたあのいたずらっぽい表情をした。
なんのことやら判らないけれど、どうせ聞いてもムダだろう。
(帰って香に聞くさ)ヒカルは諦めてため息をついた。
その日のうちに空港へ送ってもらい、ヒカルはデルタ・ベルン行きの船に乗った。
「…香さん、あなたの言った通りですね」
saiの言葉はヒカルには届かない。
家にたどり着くと、真っ先に姉を探した。ところが香の姿が見えない。
母に聞くとヒカルがボォスに出かけてすぐ、フロート・テンプル(天照帝の空中宮殿)に出仕したま
ま、まだ帰ってきていないという。
脇腹の傷は痛むし、saiのことを問い質してとっちめてやろうと思っていたのに、ヒカルは肩透かしを食
ってしまった。
腕力ではとても姉に勝てないが、ヒカルにはこのクチがあった。口喧嘩で姉に負けたことは一度もない
のだ。
たっぷり10日もたってヒカルの傷がだいぶ塞がった頃、姉から連絡が入った。
どういう訳か、三条の分家である藤原家にすぐ来るようにという。
やっと聞きたかった事が聞ける。そう思い、鼻息も荒く分家に乗り込んだヒカルを待っていたのは、意
外にもあのsaiだった。
あの時の美丈夫は今、襟の詰まったブラウスにロングスカートという極めて女性的な服装をしていた。
不思議な事に女性の格好をすると、女性そのものに見える。ヒカルには儚げ、とさえ見えた。
(コイツ男!?女!?)
驚きで口をパクパクさせるヒカルに、
「久しぶりですね。傷は良くなりましたか?」そう言って微笑った。
横から姉が「ヒカル。この人誰か判る?」と聞く。
「誰って、…sai。オレが聞いてるのは名前だけだけど」つっけんどんに答えた。
「アンタは会うの初めてだろうけど、この人はね、佐為っていってココの跡取さんなんだよ?」
姉の言葉はヒカルには晴天の霹靂だった。
「跡取!?あ、そういえば前に分家が養子をとったって聞いたけど、それがsai!?saiって佐為な
の!?」
「ええ、藤原佐為といいます。でも今は違いますけどね。…これ何か判ります?」
そういって取り出したのは、真紅のクリスタル。ファティマのヘッドコンデンサだ。
「!!」
驚くヒカルをしり目に、saiはそれを額のすぐ上の頭部につけた。ファティマの頭にはそれをつけるポイ
ントがあって着脱できる。もっとも星団法で本当はクリスタルを外してはならない。
「私の本当の名は、”ARCH・ANGEL”。あなたはファティマをお探しと聞きましたが、私を得る気は
ありませんか?」
佐為は瞳を伏せて、ヒカルにそう告げた。その顔は無表情で、感情が読み取れない。
「”ARCH・ANGEL”ってまさか、あのエトラムルの!?」
「…ええ。人型に再構築された時”佐為”と名前を変えて、帝に騎士籍をいただきましたが、私はファ
ティマなんですよ」
ヒカルは絶句した。”ARCH・ANGEL”が人型に作り直されたというのも初耳だった。
「あなたの力はコーネラで見せていただきました。あなたは知らなかったでしょうが、あの警備の騎士
は元『スケーヤ』の騎士だったのですよ。素行が悪くて騎士団をクビになりましたが、相当の腕の持ち
主でした」
「あの時、私はあなたが真っ二つになったと思った。その脇腹の傷をつけられた時です。でもあなたは
とっさの動きで彼の剣をかわしていた。素晴らしい素質です。だから…」
「私はあなたを選ぶ」
佐為は顔を上げて、ヒカルを真直ぐ見つめた。
「ただし、私は人型になった時にマインドコントロールをはずされましたから、あなたを主として認識
することが出来ません。”マスター”とお呼びしても、それは形の上だけのことです。それでもよろし
ければ、私はあなたのファティマとなりましょう」
言葉を切った佐為に、香が続けて、
「佐為は帝のたっての願いで、ヤクト・ミラージュの専任ファティマになったんだ。あれをコントロー
ルできるファティマなんて他にはいないからね。でもミラージュには佐為と相性のいい騎士がいなかっ
たんだよ。そこであたしはアンタを思い出したってワケ」
「な、なんでオレなんか…?」
「アンタが最下級の騎士なんて、どうにも信じられなかったからさ。力はあっても使い方がわからない
だけなんじゃないかって前からそう思ってた。それにアンタはエトラムルに偏見がないから、心理的に
も相性がいいんじゃないかって」
まあ、これはあたしのカンだけどね、そう言って香は笑った。
「騎士が見つからなくて、いったんお流れになりそうだったけど、佐為はアンタなら、って条件でファ
ティマに戻ることを承知してくれた。でもアンタを一人前にするのに帝にいただいた時間は三ヶ月。そ
れ以上は待てないんだよ。すでにあちこちで紛争が起きて、きな臭くなっているからね」
「三ヶ月!?」ヒカルは再び絶句してしまった。いくらなんでも短かすぎやしないか?
「…間に合わなかったら?」
佐為が答えた。
「その時は、ヤクトはいつか相応しい使い手が現れるまで、封印されることになるでしょう。私は藤原
家の佐為に戻り、騎士として参戦することになっています。幸い私をマスターと呼んでくれるファティ
マはありそうですので」
それはそうだろう。あれだけの腕だ、選り取りみどりのはず。確か藤原家の養子は天位クラスの実力と
いわれていたはずだった。
「それで、どうする?」香が聞いた。
ヒカルは佐為の顔を見あげた。騎士としては小柄だが、ヒカルより頭ひとつ分高い。
「香、ちょっとはずしてくれ。二人きりで話したいんだ」ヒカルは姉に言った。
姉が去ると、
「ひとつ聞いてもいい?」
「なんなりと」佐為は落ち着いた口調で答えた。
「オレがもしミラージュの騎士になってヤクトを駆れるくらいになったら、お前一生オレのファテイマ
になってくれるわけ?」
「それは…」佐為は口篭もった。
「お前、マインドコントロ−ルを受けていないっていったよな?」
「はい」
「それって普通の人間とかわらないって事だろう?なのに一生をオレに捧げて生きるなんて、そんな事
出来るのかよ?」
「あ、あなたが一人前になったら、私以外にもファティマが現れますよ、きっと」やっと口にした。
それを聞いたヒカルはしばらく考えていた。やがて、
「いいよ。オレ、お前のマスターになる。仮のマスター、そうだよな?」
「はい…」
「早く一人前になってお前を解放してやるよ。ファティマは騎士を得るとすごい幸福感につつまれるっ
ていうけど、あれってマインドコントロールのせいだったんだな。…お前、オレのファティマになる
の、すごく苦しそうだ」
佐為は驚いたようにヒカルを見た。
だが、何も言わなかった。
ヒカルもまた、それきり何も言わなかった。