月光浴

最近、眠れなくなった。
ヒカルと初めて会った頃が、ちょうどこんなだったっけ。
ヒカルが私を受け入れてくれて、意識を共有するようになって。
気がつけば私もヒカルが眠れば眠り、起きれば起きて、そんなことが当たり前になったのは、いつからだったか。
窓越しに月光を浴びながら、ヒカルと意識が切れかけている自分を自覚する。
傍らに目をやれば、やすらかに眠るヒカルがいた。
微かに口を半開きにして、すっかり弛緩した頬の線。
それでも出会った頃とは、確かに違う。いつの間にか大人の階段を上り始めているのが分かる。
こうやって少しずつ自分達は歳を逆転させて、その分だけ思い出を紡いでいくのだと信じていたあの頃。
出会った最初は、ケンカばかりでしたね。
ひたすら碁が打ちたい私と、碁に全く興味のないあなた。
正直がっかりだったんですよ? 私は。
だって虎次郎とは、あまりに違うんですもの。
碁を知らないだけじゃない。ヒカルときたら敬語はなってないし、字はヘタクソだし。
それにいつも一言多いんですから。密かに失言大魔王と私が呼んでたの知ってましたか?
でもね。
あなたは本当に優しい子でした。
いつも私を気にかけてくれましたね。
いろんな所に連れて行ってくれましたっけ。
嬉しかった。とても。
塔矢アキラと出会って、あなたが本気で碁を好きになってくれた事も嬉しかった。
私はね、いつも自分が打ちたいって、そればかりでした。昔も今も。
虎次郎といた頃も我が侭言って、何度困らせたか分かりません。
それが自分が打てなくても、あなたを導き、あなたの成長を見守ることが嬉しいなんて。
私には本当に碁しかなかったんです。
虎次郎が死んだ時すら、悲しむと同時に(ああ、これで碁が打てなくなってしまう)って。
ひどい男でしょう? 自分でも呆れちゃいます。
私は碁への執着が消えたら、自分自身も消えてしまうような気がしていました。
『神の一手』への執着は、現世への未練そのものだったのかも知れません。
断ち切ったのは私自身だったというのに。
愚かだったと気付くのに千年もかかってしまいました。
今なら・・・自ら命を絶ったりしない。絶対にです。
でも全ては必然だったのではないかと…今、私にはそうも思えるんです。
御前試合で負けたことも。入水したことも。
全てはあなたに出会うため。
もっとあなたと、いたかった。
それこそ永遠に。
ともに『神の一手』を目指して高みへ昇っていきたかった。
その願いはもう叶わないけれど。
感謝しています。
あなたと出会わせてくれた事に。
塔矢行洋と出会わせてくれたことに。
この身のない不幸を終わらせる機会を与えてくれた事に。
ヒカル。
本当は自分が何故『今』去らなくてはいけないのか、私にはまだわかりません。
『神の一手』への執着はまだ消えていないというのに。
でも運命に抗う術はないのだとしたら、あなたには突然消える事への謝罪より、共に過ごした時間がどれほど幸せで楽しかったか、それを伝えたい。
けれど、きっともうそんな時間すら残されてはいないのでしょう。
何も言わずに消えるだろう私を、どうか許して。
私が消えた後の、あなたの嘆きを思うと心が千切れるようです。
私達はいつもいっしょでした。私達にしかわからない絆があった。
私が消えても、その絆が切れる事はない。そうでしょう?
そう、信じられるから。
その瞬間も私は微笑って逝けるでしょう。
ああ―、あなたの上に光が舞い降りるのが見える。
さらさらと降り積もる音までが聞こえるようです。
私の目に映るそれは冷たい月光ではなく、眩しい太陽のそれで―…。
ヒカル。
あなたの行く道の全てに、いつの日も輝きが満ちるように。
ずっと祈っています。
さよならは言わない。その代わりに―。
『いつかまた会いましょう』
『楽しかった』