例えるなら、冬の夕暮れから真夏の午後へ。
Dは、自らの身体が悲鳴をあげるのを感じた。
それでも表面的には、そうと察することは出来ない。
かすかに寄せられた眉が、かろうじてダメージを物語っているだけだ。
男の繰り出す空気の刃は、見えないだけに性質が悪かった。
続けざまに一閃、ニ閃と”かまいたち”が襲う。
致命傷を受けてはいなかったが、避けきれなかったそれが、Dの身体のあちこちを切り裂いた。
普段であれば、なんなく避けている。やはり強烈すぎる陽光が影響していた。
Dは目を閉じた。攻撃を気圧の変化で探ろうとする。
次の瞬間襲った”かまいたち”は、全て両断されて威力を失った。
すかさず白木の針が男に向かって放たれる。
しかし手ごたえはなかった。
「やはり簡単にはいきませんか」
男が笑う。
「そうでなくては私を殺す事など出来はしませんが」
言葉にさざ波の音が重なった。
景色が再び変わっていた。
「今度は海かい」
枯れ声が呆れたように言った。
「太陽に海…。これほど貴族に似合わぬ世界もあるまいて」
男とDは膝下まで海水に浸かっていた。
「陽光は凌げても『水』はどうです?」
貴族は流れ水を渡れない。『水』に浸かると、身体が硬直して動かなくなってしまう。
溺れて滅ぶ事はないが、死ねないだけに永劫の苦痛を味わう。
だから貴族の拷問や刑罰には度々『水』が使われた。
ダンピールも程度の差こそあれ、苦手な事には変わりない。
「ここでは全てが私の意のままです。この『海』も深さも広さも自由自在ですよ」
いきなりDの身体が水中に没した。
ごぼりと泡が立ち昇る。足元を見ても、ほの暗い深淵が続いているとしか判らない。
陽光に晒された時より、代謝が鈍るのを自覚した。
男もやはり水中にいた。
男の白い長衣が、長い黒髪が、ゆらゆらと陽炎のように揺れていた。
その手には先ほど少年の手にあった剣が握られている。
Dは再び目を閉じた。そして何事かに集中する。
Dが剣を構えた。大きく振りかぶる。
目が開かれた。それは赤光を放っていた。
辺りの海水にはDの身体から立ち昇った血臭が濃厚に立ち込めていた。
一気に海面近く―、何もない空間へと投擲する。
『世界』が震撼した。
男とDはドーム型の天井が覆う、巨大な空間にいた。
少年とアキラもいる。
そこはあの庭園があるはずの場所だったが、今は何もないだだっぴろいただの空間に過ぎない。
ドームの亀裂からかすかに白光が差し込んでいる。月の光だ。本物の。
陽はすでに沈み、外に出れば明るい月が見えるだろう。
今夜は満月だ。
男の胸にはDの長剣が突き立っていた。
何もないと見えた空間にいた男の本体を見抜き、Dは長剣を放ったのだ。
男は苦しげに片膝をついている。傍らには男の剣が取り落とされていた。
少年が血相を変えて走り寄った。男の肩に手をかけようとして、
「触らないでっ!!」
普段の男からは想像も出来ないほど厳しく拒絶され、少年は手を止めた。
うろたえたように逡巡し、そっと手を引く。
なんともいえず悲しそうな表情の少年を憎々しげに見つめ、男は剣の柄に手をかけた。
そのまま、ずるりと抜き出す。
傷口から大量の血が流れ落ち、男の衣を赤く染めた。
「…さあ、とどめをおさしなさい」
そう言って刀身を衣の袖で包み、柄をDへとさし返す。
首を落とさねば、真の滅びはない。
Dがそれを握った。
「だめだ!!」
少年の悲痛な叫びが響いた。
さきほど男が取り落とした剣を掴んで間に割って入る。
次の瞬間、Dの剣が少年の心臓を貫いていた。
「ヒカル…そんな…」
男の呟きの中、少年の身体がゆっくりと崩れ落ちた。
その身体が、切れかけの電燈のように滲んで震える。
やがて最後の光を放つように一瞬輪郭を濃くした後、…消えた。
男は呆然と、それを凝視していた。
Dはアキラの方へ、歩き出した。男はDの動きに気がつかないように微動だにしない。
近づくDにアキラが牙を剥いた。
鎖を外そうと暴れ、細い手首には痛々しく血が滲んでいる。
Dが左手をその首に伸ばした。
掌に浮かんだ十字の印を見て、アキラが怯えたように後じさる。
かまわず首筋に見え隠れする、噛み跡に押し付けた。
白煙があがり、凄まじい悲鳴が上がった。
手が離れたと同時に、身体を折り曲げて苦悶する。
「この程度で消える噛み痕とは。やはりのう…」
楽しそうな枯れ声が聞こえた。
「これと似たシステムを見たことがある」 これはDだ。男を振り返り、
「ある貴族の理想を叶えるためのシステムだ。しかし操る者がいなくては、それもただの機械にすぎない。
君がシステムの力を借りて『世界』を操るおかげで、下の村では貴族と人間が共存している。
限られた空間に過ぎないが、それでもここはひとつの理想郷と云えるだろう」
Dは同じように貴族と人間を共存させるために神祖に選ばれた少女を思っただろうか?
結局、彼女は滅びを望み、彼女の『夢の世界』も終りを告げた。
そして目の前の男もまた滅びを望んでいた。
「…君は貴族ではない。『人間』だ。―強いて言うなら『疑似貴族』。
でなければアキラ・トウヤの噛み痕が聖痕程度で消えるはずもない。あの少年は―」
「彼は、『ヒカル』です」
男が呟いた。
「ソウ、ワタシハ『ヒカル』」
声と同時に、ドームの天井に星空が出現した。
芳しい花の香りと優しい月明かりと心地よい虫の音。
それらが何もなかった空間に奇跡のように広がる。
眩しい光が凝縮した中心に、『ヒカル』が立っていた。
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