遠くから規則正しい馬蹄の音が響いてくる。
馬上には黒衣の青年。辺境に名高い美貌のバンパイア・ハンター。
「D」
少年がその名を呟いた。
陽が傾き始める頃、彼はやって来た。
アキラを奪還に。
ヒカルは城壁の上に立ち、崖の向こうの人馬を見下ろしていた。
距離はちょうど1km。
それだけの距離があってヒカルには、黒衣のハンターの表情さえも、はっきり見ることができた。
城と向こう側の街道の間には深い谷が横たわっている。その間を石造りの橋が繋いでいる。
橋の最後の部分は途切れ、かわりに木製の跳ね橋がかかっていたが、今は上げられて堅固な城門と化していた。
ふいに人馬が走り出した。こちらへ向かってくる。
橋の終りから城門までは数十メートルもある。馬で飛び越えるのは不可能だ。
しかしDはためらいもなく速度を上げた。
「へえ、さすが」
ヒカルは面白そうに呟くと、突進してくる騎影をじっと見守った。
やがて橋の中ほどを過ぎたあたりで、巨大な機械の駆動音が響いた。
城に備え付けられた、あらゆる光学兵器がDを迎え撃つ。
そのはずだった。
ヒカルは首をかしげた。
城の防衛システムは最初にわずかに動いただけで、すぐに止まってしまったようだった。
「故障?…の、はずないか」
Dの胸に青く光るペンダントを認めて、ヒカルはかすかに微笑んだ。
Dがさらに距離をつめる。
再び何かが軋むような音が響いた。
跳ね橋がゆっくりと下りていく音だった。
迎え入れるように下りてくる跳ね橋を、恐れ気もなくDは渡って来た。
罠かも知れないなどとは、微塵も疑っていないように。
防衛システムが働かないのならば仕方ない。
ヒカルは最強のハンターをその手で迎え撃つために身を翻した。
『D』相手に、形ばかりの城門が何の役にたつ?
跳ね橋を下ろしたのは、ヒカル自身だった。
門を入ると一転、Dはゆっくりと馬を進めた。
城壁の内部は庭園になっていた。精緻な装飾を施された巨大な柱が規則的に並んでいる。
それが途切れた場所で馬を下りると、Dは城の内部に入っていった。
そこは建物の中だというのに、外の続きのようにやはり庭園が続いていた。
芳しい香りが、Dの鼻腔をくすぐる。
夕暮れの日差しを浴びて、美しい花々が穏やかに風に揺れていた。
そこに明るい前髪が特徴的な少年が立っていた。
数メートルを挟んで対峙する。
背が低くDの胸辺りまでしかない、少なくとも見た目はまだ子供といってよい歳の少年。
しかし彼は不敵に微笑んでいた。
それを無感情に見下ろし、Dは訊いた。
「アキラ・トウヤはどこにいる」
「この城のどこかに。オレを倒せたら探して連れ帰るがいいよ。でも…まだ『人間』だといいけどね」
「その時は始末をつけるように依頼されている」
貴族の口づけを受けていれば、心臓に杭を打ち、首をはねる。
そうしなければ、何度でも甦ってしまうからだ。
「ひどいこと言うんだな」
「噛んだ貴族を滅ぼせば、しなくて済む事だ」
応えた途端、どこからかエネルギーの帯が数条、Dへと迸った。
不意打ちのような攻撃を、Dは後ろに跳んで避けた。
着地地点を測ったように、再び光線が襲う。
Dの左手が上がった。掌に小さな顔が浮かんでいる。
ごうごうと風が渦巻いた。
光線が収束し、Dの左手に吸い込まれて行く。強風に吹き散らされた花びらと共に。
それを見て面白そうに、
「珍しいモノ飼ってるんだなあ。ずいぶん便利そうだ」
ヒカルは右掌を上にかざした。窪みの中に光点が生まれる。
しわがれ声が左手あたりから洩れた。掌に浮かんだ顔がしゃべっている。
「こいつはまずい。食らうには質量がでかすぎるぞ」
囁きよりも小さな声だったが、Dには聞こえたようだ。ヒカルにも。
「そいつの言う通り、これを吸い込むとヤバイよ?」
ヒカルがニッと笑った。
光の粒がふわり、と浮かび上がり、それは一瞬で真っ黒な点に変わった。
光が逃げられないほどの質量。だから黒い。
『黒点』の正体をDも左手も悟った。
それが数メートル先で、彼の身を覆うほどに巨大になって迫る。
Dは庭園を植え込みの方へと走った。
『黒点』が大地を削りながら追いかける。
逃げられないと判断したのか、Dが振り向いた。鞘鳴りの音がして、銀の軌跡が走る。
『黒点』に亀裂が入った。
途端に内側に反転するように弾けて消えてしまう。
切れないはずのものを両断する。Dの技に、今度こそヒカルの顔に感嘆の表情が浮かんだ。
ヒカルは空中で拳を握った。そのまま何かを引き抜くような仕草をする。
何もない空間から剣が一振り取り出された。
「小技がダメとなると、残りは正攻法だけだもんな」
構えようとして動きが止まる。
ヒカルの視線はDの背後に引きつけられていた。
「私の獲物を横取りとは。ずるいですよ、ヒカル」
花の香りがいっそう強く薫った。
Dは振り向きもしない。すでに男がいることに気付いていたようだった。
「城の主サマの登場じゃな」 枯れ声が言った。
「あなたを呼んだのは、この私です」
白い長衣の男がにっこりと微笑んだ。優雅で美しい男だった。
「この城で永い年月を囚われて私は過ごしてきました。
碁を打てることは幸せでしたが、ヒカル以外と打つことは許されなかった。
どこへも行けない。自らは死ぬ事もできない。それが永遠に続いていく…」
Dは無言で聞いていた。
「…疲れました。本当に。私は終局を望む。あなたはそれを叶える事の出来る唯一の存在」
無邪気で優しげな顔。その穏やかな表情のまま、
「あなたには私を殺していただきます」
男はそう告げた。幸せそうに。
「お前の名を聞いておこう」
「…名など、ありません。『名無しの男』それが今の私の名」
男が振り返った。
そこには、アキラが立っていた。
彼の瞳は赤光を放ち、口元からは鋭い牙が覗いていた。
腕は片腕ずつ頑強な鎖につながれ、それを細腕に似合わぬ力で引き千切ろうとする。
貴族化した人間はおよそ有り得ない腕力を発揮する。
貴族用と思われる鎖は切れる事はなかったが、ぎりぎりと軋んだ。
鎖を握りしめたまま、ふと、こちらを見た。ヒカルと目が合う。
アキラが笑った。血に飢えた、邪悪な笑みだった。
ヒカルが顔を背ける。
自らが犠牲者とした少年を見ながら、男は優しい微笑を浮かべたままだ。
「元に戻す方法はご存知ですね。さあ、勝負と行きましょう。
私は滅びを望んでいるけれど、むざという訳にはいきませんからねえ。
戦うからには、あなたを倒すつもりです」
「こやつが死んでは、おまえの望みも叶うまい」
枯れ声に、男の印象が変わる。暗い、闇の微笑。
「その時は、ひととき退屈を忘れたことに満足することにしましょう。
これは座興です。命をかけた―。
どちらにせよ、私に悪い話ではない」
男が手をかざすと、辺りの様子が一変した。
花の咲き乱れる庭園は消え、何もない真っ白な空間にDは立っていた。
そこには男とDのみしかいなかった。ヒカルと呼ばれた少年もアキラ・トウヤもいない。
そして先ほどまでの優しい太陽ではなく、真夏の午後のような強烈な日差しが照りつけていた。
Dの表情がかすかに歪む。
「ふふ、あなたはダンピール。苦しいでしょう? でも私は平気なんですよ」
男の手が無造作に振られた。
熱い空気の塊が、Dの顔をかすめた。
避けたつもりだったが、血がひと筋、頬を流れて滴った。
陽光の中ではダンピールの動きは鈍る。
男の手が再び上がった。
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