気絶しそうになって佐為は動転した。
目の前には差し出された、茂蔵の腕!
この中に倒れる事だけは、死んでもイヤだっ!!
しかし…、
(ダメだ、力が入らない…!) そう観念して目を閉じた瞬間、『ごつっ!』という鈍い音がした。
同時に誰かに抱きとめられる。
「…佐為!大丈夫か!?」
ほんの数時間離れていただけなのに、ひどく懐かしい声がした。
「ヒ、ヒカルっ〜〜!!」
佐為は半分腰砕けの姿勢のまま、目に涙を浮かべてヒカルに縋りつく。
見れば、蝦蟇オヤジは見事に床に伸びている。うつ伏せの後頭部にヒカルの足跡がくっきりついていた。
その様子を客達が遠巻きに見ているが、ヒカルにノされた後援会長を助け起す人間は誰一人いない。
マネージャーはいつのまにか姿を消していた。
やがて客の中の一人がおそるおそる聞いてきた。
「あの…、あなたはクラッシャー・エリザベスと、どういうご関係なの?」
後援会長がエリザベスによからぬ企みを持っていることは、多かれ少なかれ皆知っていることだった。
しかしあのエリザベスに限って大人しくいう事を聞くなどと思うファンは一人もいなかったので、面白げに成り行きを見守っていたのだった。…途中、
なんだかエリザベスの様子がおかしいとは思っていたけれど。
その質問にヒカルは、佐為を見た。
少し考えて顔を上げ、
「この人はオレの大事な人です」 そう言った。
ほんとは『恋人です』と言いたかったが、さすがにそこまで大風呂敷は広げられない。
佐為は少し目を見張ったが、何も言わなかった。
質問した三十路くらいの女性は赤くなって黙ってしまう。
その時、「う〜〜む」 と唸って茂蔵が気付いた。
後頭部をさすりながら、苦い顔で辺りを見回す。すぐにヒカルを見つけ、怒り心頭の表情で怒鳴った。
「きさまっ!いったいどういうつもりだ!ワシになんの恨みがある!?」
「恨み!?佐為にとんでもないことしようとしたくせに!ネタは上がってるんだぜ!」
ヒカルも負けずに怒鳴り返す。
(え゛?…とんでもないことってなんなんでしょう?) しかし怖くてとても聞けない。
「はん!もう帰ろうぜっ、佐為!」 ヒカルが吐き捨てるように言う。
「ハイ!」
素直に返事をする佐為に茂蔵が、
「ちょっと待て、エリザベス!マネージャーがどうなってもいいのか!?…おまえがいい返事をくれないと困ったことになるんだぞ!?」 そう怒鳴っ
た。
「いい返事…?」 眉をひそめて聞き返す佐為に、
「そうとも。おとなしくワシの愛人になれ」
(だっ、だれが愛人ですってーーーっ!?)
ぶちっっ!!!(注:ぷち、ではない)
次の瞬間、顔面に佐為の蹴りをくらって茂蔵は再び床に沈んだ。
茂蔵の不幸はヒカルのせいで顔が怒っていたことだろう。笑ってさえいなければ、佐為は茂蔵などコワくもなんともないのだ。
後頭部と顔の両面に足跡をつけて気絶した茂蔵を、佐為は肩で息をしながら睨みつけた。
(や、やるな。佐為) ヒカルはこれほど怒り狂った佐為を見るのは初めてだった。
(これからはあまり怒らさねえように、オレも気をつけようっと) そっと心に誓った。
「行こうか?佐為」
「ええ。そうですね」 しっかりした声で頷く。
呆然とした客達に見送られて、二人は会場を後にした。
路駐したところまで来て、「あれ?そう言えば塔矢は?」 しらっとした顔でヒカルが聞いた。
「それがいきなり市河さんが現れて、強引に連れて行かれてしまいましたよ」
女の人は怖いですねえ、首を振りながら佐為が言った。それからふと気がついたように、
「そういえば市河さん、ヒカルが何とかって…」
「ああ、そうだ、佐為!クリスマスケーキ買ってるから帰ったらいっしょに食べような!腹へってないか?ちゃんと何か食べた?」
「そういえば安心したら、急にお腹がすいてきました。…あの男のせいでなんにも喉を通らなかったんですよ!」
「とんだ災難だったなあ、佐為。まさかあの骨董屋のオヤジがエリザベスの後援会長だったとはなあ」
(う、うまくごまかせた、よな?…いろいろあったけど、作戦の第一段階は成功だぜっ!次は…)
「約束通り帰ったら一局打とうな」 佐為に優しくそう言う。
佐為は嬉しそうに「ハイっ!」と、答えた。
一方、拉致された塔矢アキラは大恐慌に陥っていた。
市河はアキラの腕を掴み、有無を言わさず引っ張っていく。
あまりの迫力に抵抗する事もできなかった。
やがてなんのつもりか公園へ入ったところで、アキラはやっと我に返った。
「い、市河さん!ちょっと待って下さい!」 腕を振り払うようにして立ち止まる。
「…どうしたの?アキラくん。☆☆へ行くには、ここを突っ切るのが近道なのよ」
(☆☆!?) ☆☆とは若者の間で人気のシティ・ホテルの名前だ。
「あ、あの市河さん。何かカン違いしてるんじゃないかな?だいたい進藤は市河さんになんて言ったの?」
「何って…」 市河はポッと頬を染めて後ろを向いた。
「アキラくんがあたしをイブの夜に誘いたがってるって…。☆☆に部屋まで予約したけど、年下を気にしててどうしても誘う勇気がないみたいだから、
あたしの方から行ってやってくれないかって…」
(しんどうぅ〜〜〜っっ!!!) アキラの指は何もない空間を鉤爪のようにかきむしった。
「あ、あのね、市河さん。それ、誤解なんだよ」
「誤解?」 市河が目を見張った。
「実はボクには好きな人がいるんだ。市河さんのことは大好きだけど、それはお姉さんに対するみたいな気持ちなんだ」
アキラは市河を傷つけないように、慎重に言葉を選ぶ。
「ごめんね、市河さん」
「…そうだったの」 市河は目に見えて肩を落とした。悪いとは思いつつアキラは、ほっとする。
「わかったわ。じゃあ、あたしその人と対決するわ!」
「へ?」 アキラの間抜けな声が響く。
「だってあたしはアキラくんのことが好きなんだもの!」
市河はいきなりアキラに抱きついた。
その時、アキラの背中にうっすら悪寒が走った。
首筋を、やんわりと撫でる手に気がつく。(この手。市河さんじゃ、ない…)
「…やあ、アキラ。ずいぶん楽しそうだね。私の事、覚えているかな?」
市河も気がついた。アキラの肩越し―自分の正面に立つ、金髪碧眼の大女に。
(この人は!…ウチの碁会所にもよく来る…)
「…藤原さん?」 でもさっきホテルで見たときと髪の色が違う。
「いかにも私の名は藤原砕」
静かに微笑む、砕=エリザベスの周りからは、冷たいオーラが立ち昇っていた。
据わった三白眼に睨みつけられて、市河は慌ててアキラから離れた。
「もしかして、アキラくんが好きな人って…?」
それは確信だった。争うのはやめておけと、市河の女のカンが警告する。
アキラはエリザベスが現れた瞬間凍り付いてしまって、未だ溶けていない。
市河はそろりそろりと後じさった。
「ご、ごめんなさい、アキラくん。あたしたちやっぱり年が離れすぎてるわよねっ!」
…アキラは惜しいが、命には替えられない。
「じ、じゃあ、そういうことで。さよならっ!」 一目散に駆け出す。
そういうことってどういうことなんだか、あっというまに見えなくなってしまった。
それを冷たく見送って一言、
「…アキラ」
「エリザベスっっ!会いたかったよっ!」 アキラは振り向き様、抱きつこうとした。
その関節を取って、一瞬で卍固めをかける。
「いたたたたたたっっーーーっ!ゆ、許して!悪気はなかったんですっ!」
「嘘をつけ、嘘を!私に隠し事はできんぞ!今の女はともかく、おまえ、佐為に手を出そうとしてただろう!?」
「な、なんで知って…わあああっっ!」
「フン!クラッシャー・エリザベスをなめるんじゃない!おまえの考えてる事なんかお見通しだっ!私とおまえは意識がつながっているんだからな!」
(ま、まさか意識がつながったままになっていたとは!) アキラは平謝りに謝った。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめん……」
気が済むまで締め上げて、やっと解放してやる。
「まあ、いい。確かにほったらかしにした私もいけなかった。悪いと思ってる。だから正月休みをいっしょに過ごそうと思って帰ってきたんだよ」
「ほんとに!?」 アキラは嬉しさを隠せない。
「ああ。それに気がついたか、この身体?現身だぞ」
言われてみれば、なんだか存在感が違う。
「どうして…?」
「管理官は役員だからな。役職手当として身体が支給されるんだ。tutiもkagaもヨーダのじじいも、みんな生身だっただろ?」
アキラの顔が輝いた。
「帰ろうか?アキラ」
「はいっ!」
二人は連れ立って、公園を後にした。
ヒカルの部屋では、すでに酒瓶が2本転がっていた。3本目もあとわずかになっている。
お腹がすいたという佐為に軽い食事をだしてやり、ついでに酒を勧める。
ここまではヒカルの思惑通りだった。
ところが、すきっ腹にガンガン飲んでるはずなのに佐為は平気な顔だ。
カクテルじゃ効果ないと判断したヒカルは、さっきからウイスキーをコーラで割って佐為に飲ませていた。グラスが空いたと見るや、さらに濃い目に割
ったコークハイを作ってやる。
それにしてもコイツの肝臓はいったいどうなってるんだ?酒瓶3本をほとんど一人で飲んだくせに、ほんのり顔が赤くなったくらいで、まだぴんしゃん
している。
付き合いで飲んだはずのヒカルの方が、かなり酔いが回ってしまっていた。
「これ、甘くて美味しいですね〜。炭酸はあまり好きじゃないんですけど、これは美味しいです〜」
(おっ!ほんのすこーし、ろれつが回らなくなってきたかな?)
「ほら、遠慮しないで飲めよ〜。オレもおまえも明日は手合いを入れてないから!ゆっくりできるんだからな〜〜」 実はヒカルの方がろれつがあやし
い。
「コーラを、取ってくるよ〜」
そう言って立ち上がろうとしたヒカルの足が絡まった。
「あぶない!」
佐為が慌てて支える。
「もう〜ヒカル。飲みすぎですよ!」
「バカ言え〜。オレはまだ大丈夫だ!」
「…ヒカル、もう休んだほうがいいです。ね?」
佐為はヒカルを抱えて、ベッドに移動した。
よっこいしょと降ろす。しかし、ヒカルは佐為にしがみついたまま離れようとしない。
「ヒカル?」
背中に腕を回して支えた姿勢のまま、不審気に名を呼んだ。
その時、
「……もう…消えたり、すんな…よ……佐…為…」 切れ切れにヒカルが呟く声が聞こえた。
見ると、ヒカルはすーすーと寝息をたてている。
「…ごめんね、ヒカル」 佐為は微笑んだ。
「もうどこにも行きませんよ」
「ずっといっしょに碁を打ちましょうね」
おわり
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