受難の日/中編

  クリスマス・イブ当日。

ヒカルはこの日に備えて、万全の準備をした。

作戦の成否は、いかに塔矢アキラを佐為から引き離し置き去りにするかにかかっている。

ヒカルはそのために強力な助っ人を用意していた。

「じゃあ、進藤。佐為さんはボクが責任を持ってエスコートしてくる。キミは何も心配せず待っているといい」

引退記念とはいえ後援会の人やファンの人たちが主な、2〜30人の割とこじんまりとしたパーティーだとい
う。

アキラは手合いの時に着るような、スーツを着ていた。

しかし佐為もスーツ姿なのでこれでは男が二人にしか見えない。

その上佐為の方がでかいので、傍目には佐為がアキラをエスコートしているようだった。

アキラは20歳を超えたというのに相変わらずのおかっぱ頭で、ちょっと見には女の子に見えてしまう。

ヒカルも童顔なので人の事は言えないが、アキラよりは男らしいと自分では思っていた。

「じゃ行って来ます、ヒカル」 佐為はにっこり微笑んで、アキラと二人連れ立ってタクシーに乗り込む。

「8時には迎えに行くから」

ヒカルも微笑みに下心を隠し、にっこりと手を振った。


会場に着くとマネージャー(元マネージャーだが)が、走り寄ってきた。

「本当にすいませんでしたね、エリザベス!」

「あ、いえ…。こちら電話でお話した塔矢アキラ君です」 固めの笑顔でアキラを紹介する。

「初めまして。塔矢アキラといいます。砕さんとは囲碁を通じて知り合いました」

アキラはもちろんマネージャーを知っていた。女子プロレス関係、それもクラッシャー・エリザベスに関する事
でアキラの知らないことはない。

「エリザベスは碁のプロになったとか。不思議です。私といた頃は碁なんて全く知らないようだったのに」

そう首をかしげるマネージャーに、

「砕さんはもっぱらネットで打っていましたから。本業のプロレスに障らないよう気を使っていたのでしょう」

さすがアキラはソツがない。上品な物言いにも澱みがなく、佐為は感心してしまう。

やがてエリザベスが現れた事にファンの人たちが気付いてきた。

「後援会長がまだ来てないんですが、時間ですから一足先に始めましょうか。内輪の集まりみたいなもんですか
ら、私が挨拶してもかまわないでしょう」

そう言ってマネージャーから挨拶があり、エリザベスの近況が報告されたりした。

佐為は何か言わなくてはいけないのかと、内心びくびくものだったのだが、そんなこともなかった。

ただ一言「集まって下さってありがとうございます」と言えばよかっただけで、心底ほっとする。

碁のプロになったことについて、プロレスファンの人達にとって碁界はなじみがないのだろう。深く突っ込まれ
る事もなかった。

ファンの人たちと話はしなくてはならなかったが、プロレスの専門的な質問には塔矢がかわりに答えてくれるの
で、しばらくすると佐為はすっかりリラックスしていた。

(心配するほどでもありませんでしたね)

その佐為の視界に、一瞬ものすごく不快な物体が映った。

満面に笑みを浮かべて近づいてくるそれを人間だと認識した途端、佐為は悲鳴をあげてアキラの背中にしがみつ
いていた。

(え?佐為さん…!こんなところで抱きつくなんて困りますっ、ボクにはエリザベスという立派な幽霊が…!)

アキラにかまわず佐為は、輪郭がぼやけるくらい震え上がっていた。

(この男は私の大嫌いな蝦蟇蛙そっくりの骨董屋の店主!!)

「後援会長!」 マネージャーが言った。



その頃ヒカルは、ポルシェを近くのパーキングエリアに止め、商店街を歩いていた。

今夜、佐為を酔っ払わせるための酒を買うためだ。

口当たりがいいくせに度数の高い酒をしこたま買い込み、車へと道を急ぐ。

緩む口元を押えつつ、近道をするために路地を曲がった。

しかしパチンコ屋を過ぎてしばらく行ったところで、見覚えのある骨董屋を見つけてヒカルは立ち止まった。

(あ!この骨董屋…懐かしいなあ。佐為といっしょに、ここのオヤジと慶長の花器を巡って囲碁対決したんだよ
な)

店は開いていた。

中にいたのはあの時のオヤジではなかったので、ヒカルは懐かしくてつい店内へ入ってしまう。

雇われ店番らしい男はヒカルに見向きもしなかった。

奥の壁際にはあの時と同じように碁盤が置いてあった。ふと視線をあげると、壁に貼った免状が目に入る。

(あれ?)

五段を授与されたという店主の名を、ヒカルはゆっくり読んでみた。

「中村茂…蔵…」(?、どっかで…?)

ヒカルは唐突に思い出した。

「中村茂蔵!!」 それはエリザベスの後援会長の名前ではないか!?

「ちょっと聞きたいんだけどっ!ここの店主の中村茂蔵って女子プロレスの何かをやってる?!」

「あ?ああ、なんとかっていうレスラーの後援会長さんだよ。元、だけどね。今夜はそのレスラーの引退記念パ
ーティーだかで出掛けてるよ。…何か用かい?」

「いや、用って訳じゃ…」 ヒカルは口篭もった。

「キミ、女子プロレス関係かい?引退したっていうレスラーも気の毒だよねえ、ほんと」

店番の中年男は、ため息をつきながら呆れたように言った。

「なに?どういう事!?」 ヒカルが問い質すのに、

「あれ、知らないかい?いや、雇い主の悪口言いたかないんだけどね」

男はどうやら店主が嫌いらしい。

「あの人、前からそのなんとかって女性レスラーに懸想しててね。いつかモノにしてやるって狙ってたんだよ。
それがいきなり引退しちゃったもんだから収まらなくってねえ」

「なんでも元マネージャーって人を脅して、ムリヤリ今夜のパーティーを開いたらしいよ。ホテルに部屋まで取
ってさあ。ここ出る時も今夜こそ逃がさんぞ、ってもうイヤらしいのなんの」

ヒカルは最後まで聞かずに骨董屋を飛び出した。

佐為が本当にエリザベスだったら、全く心配はいらない。あの女は蝦蟇オヤジに大人しくヤられてしまうような
か弱いシロモノじゃない。

しかしアイツの中身は今、佐為だ。囲碁しか知らないただの囲碁バカだ!

しかも佐為はあの店主の顔が、死ぬほど苦手だったじゃないか!?

ヒカルは一度も止まらずに車まで走り帰ると、ポルシェのエンジンをかける。

時間を見ると7時半になるところだった。

(待ってろ、佐為っ!すぐ行くからな!)

ヒカルは速度違反を覚悟で走り出した。



再び会場。

佐為はガタガタ震えながら、後援会長の顔に耐えていた。

さっきからぞわぞわと、背なか中にひどい悪寒がする。

茂蔵は佐為と一度会っていることに当然気がつかないので、にこにこと満面の笑顔だ。

それがまた佐為には、ひどい拷問なのだった。

しかし顔がキモチ悪いと言って帰るわけにはいかない。

(あと30分…がんばれ、私っ!)

「後援会長の私に何の相談もなく引退を決められるなんて、私は悲しいですよ。碁が好きならそう言ってくださ
れば。水臭いですなあ〜私とあなたの仲ですのに」

茂蔵が、蝦蟇蛙そっくりの顔でニヤリと笑った。

「こう見えてもけっこう打つんですよ、私。ぐふっ」

(ぎゃあぁぁぁーーーっっ!!!笑わないでっっ!お願いですからっ!)

耐えつづけて1時間。佐為はすでに限界寸前だ。

「金髪も素敵でしたが、黒い髪もまたよろしいですなあ」

そう言って、佐為の髪に手を伸ばそうとする。

(触らないでっっ!ひぃぃぃ〜〜〜っっ!!)

幸いその手は塔矢が阻止してくれたが、佐為はもう気を失う一歩手前だった。

塔矢のエリザベス・メモには、この後援会長のデータもあった。

(身の程知らずな!エリザベスを愛していいのはこのボクだけだ!) アキラは心の中で茂蔵を罵る。

しかし佐為が蝦蟇蛙を大嫌いなことまでは知らないので、これほど怯えている理由がわからない。

「大丈夫ですか?砕さん。気分が悪いようでしたらもう帰りましょうか?」

言ってから気がつく。

(帰る?進藤のいるあのマンションへ?)

突然アキラの中に嫉妬の炎が燃え上がった。

(佐為さんの身体はエリザベスなのにか!?…知っているぞっ進藤!キミは佐為さんに惚れているだろう
っ!?)

(中身は佐為さんでもエリザベスを愛していいのはボクだけじゃないのか!?)

次の瞬間、必死でその考えを打ち消す。

(ボクって奴は、なんて浮気者なんだ!ボクが愛するのはキミの魂だっっ!ゴメンよ、エリザベス!!)

しかし謝るそばから、妄想劇場が始まってしまい、どうにもならない。

そして煩悩と戦う事10秒。

(……あなたが悪いんだ…っ!ボクを一人になんてするからっ!!)

超早碁で身についた決断の速さは、ここでも十二分に生かされた。

アキラはすっくと立ち上がった。

(ボクも男なんだ。許しておくれ、ハニー!!)

「すいません、砕さんは気分がすぐれないようです。申し訳ありませんが、もう失礼したいと思うのですが」

後援会長・中村茂蔵はニヤリ、と笑った。

「それはいけませんな。そうだ、このホテルの部屋でしばらく休まれてはいかがですかな?」

「しかし今日はイブで、部屋が開いているかどうか…」

アキラは佐為を自宅に連れて行く気でいた。幸いにも両親は中国に行っていて留守だ。

「ぐふふ。大丈夫ですよ、お任せください。おい!」 茂蔵がマネージャーに目配せする。

「は、はい」 マネージャーがルームキーを取り出して茂蔵に渡した。

「ささ、部屋にはワシがお連れしましょう。塔矢先生は先にお帰り下さってけっこうですよ。エリザベスは後で
ワシが責任を持ってお送りしますからな」

(じ、冗談じゃありませんっっ!!!) 佐為は心の中で悲鳴をあげた。しかし蛇に睨まれた蛙ならぬ蝦蟇蛙に
睨まれた蝶のように弱々しく、すでに言葉も出ない。

マネージャーは心の中で手を合わせた。

(スマン、エリザベス!でも君ならきっと無事にこの蝦蟇オヤジから逃げ出せると信じてるよっ!)

「酔ったお客のために、実は前もって部屋をとっておいたのですよ」 茂蔵のセリフに

(そんな都合のいいことがあるか!!) ここで引き下がるアキラではない。

反撃のため口を開きかけた時、聞き覚えのある声がした。

「アキラくん!来たわよ!」

「い、市河さん…!!」 アキラは突然現れた市河を絶句して見つめた。

「イブに誘ってくれるなんて嬉しいわ!でもアキラくんてば、ほんとにシャイなのねえ。進藤君に伝言頼むだな
んて」

そう言ってアキラをぐいぐい引っ張って行こうとする。

「ちょっ!ちょっと待って、市河さん!これはいったいどういう事なの!?」

市河はハナ息も荒くアキラを見つめた。

「どういう事って、こういう事でしょう?進藤君に聞いたわ。私、年の差なんかちっとも気にしないのに!さあ
っ、行きましょ!アキラくんっ!」

(進藤っっ〜〜〜!!)

ヒカルに何を吹き込まれたのか、目の血走った市河にアキラはなす術もない。

「エリザベスっ!!あああ〜〜〜!」 アキラは引きずられながら、ホテルを退場していった。

それをエリザベスこと佐為は、真っ白になって見送った。

「さあ、ではこちらも行きましょうか。ぐふふっ」

蝦蟇オヤジ・茂蔵が間近でニヤリと笑う。

次の瞬間、佐為の頭の中でぷつん、と音がした。

茂蔵の腕が佐為を支えるべく差し出された。

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