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「巧の国に行ってみますか?」
翌日になっても竜潭の側から離れない塙麒に、竜潭は優しくそう言った。
「え、でもお仕事は…」
「かまいません」
にっこりと微笑んで塙麒をみつめる竜潭は、そっと屈みこんで塙麒と目の高さを揃えた。
「お気に為さらなくていいんですよ。主上から景台輔のお客さまを丁重にお迎えする様に言われていますし、何より巧の人に会うのが嬉しいですから」
「本当に?」
まだ幼さを残す眼差しに、竜潭の顔はさらに優しくなる。
「ええ。今日は一緒に巧に行ってみてもいいと言うお許しを主上にいただいています。もっとも中央部は国土が荒れているから慶との国境付近から覗くだけですけれど」
「それでも!」
と塙麒は嬉しくて飛び跳ねそうになった。

巧を見るのも嬉しいけれど、竜潭とずっと一緒なのが嬉しいのだ。今すぐにでも誓約して蓬山に連れて帰りたいと思う。でも、昨日の竜潭の様子が気にかかる。竜潭は本当に王になりたくないのだろうか?昇山はするつもりがないと言っていた。もし、王になりたくないのなら、自分がここに額づいて誓約を交わしたらさぞ困った顔をするだろう。拒絶するかも知れない。

「本当に台輔のお客なのか疑問だな」
笑いながらその様子を眺めていた雪笠が景麒に声をかけた。
「はい…」
少し戸惑った様に小さい麒麟が返事をする。
「どうやら新しい大司徒を早急に決めないといけないようだ」

本当は少しばかり後ろめたさを感じていた。主従関係とはいえ竜潭は机を並べた友人。共に妖魔と闘った仲でもある。そんな彼に叩頭礼をされるのはとても苦痛だったし、彼も苦痛に感じているに違いないとずっと気にしていた。いっそ叩頭礼など廃止してしまおうか、と何度思ったか知れない。

彼には自分にはない謙虚さと潔さがあった。時には卑屈に感じるほどの…。自分の性格を考えれば、だからこそ今まで友情が続いて来たのかも知れない。そんな彼が隣国の王になる。友達として多少不安がない訳ではない。1人で思いつめるタイプだから、今まで昇山もせずここにいたのだ。思いつめた時に笑って励ましてやる役目を誰がするのだろう?

ここまで考えて、雪笠は恥ずかしくなって顔を赤らめた。何と言う驕り…。自分がいたから彼がここまでやって来れたとでも思っているのだろうか?自分が養ってやったから慶で生きてこられたと?直接聞いた訳ではないが、彼が叩頭礼に対して不快感を持っていると感じた事はない。思い悩むタイプではあるが、自分が何かしてやった訳でもない。

この上から見下ろすような思考こそ、我が身を滅ぼすきっかけになるのだ。

彼を必要としているのは自分の方だ。彼は自分の驕りにこうして無言で気付かせてくれる。何を言うでもなく何をするでもないのだが、彼を見ていると彼の中に自分の鏡があって、自分の本当の姿を映し出してくれるのだ。失いたくない。それが自分の本音だろう。

麒麟が迎えに来ているこの状況を心から喜んでいない自分がいる。

いや、王である自分を特別視したいだけかも知れない。あいつは王になれなかった。だが自分は王だ。そうやって他者との比較をして悦に入っているのではないか?そんな自分を見るのが嫌で、精一杯繕って王座についている嫌な自分…。

「雪笠様?」
黙り込んで何やら考えている雪笠を心配そうに景麒が覗き込んだ。雪笠はその心配そうな顔を見て、首を左右に振って微笑んでみせた。
「なんでもない。お祝に何を送ろうか?」
「お気が早いですね。でも巧が一番必要なのは食糧だと思います。今年は天候に恵まれましたから、少しばかり余裕がありますね」
「それがいい」
雪笠は再び視線を竜潭と青い少年に移した。時々こう言う機会を自ら作ればいい。彼も思い悩んだ時はそうするだろう。ゆっくりと出ていく彼らを雪笠は姿が見えなくなるまで見送った。


「青龍、君は両親は?巧のどこに住んでいたんです?」
何気なく聞いた竜潭の言葉に、麒麟は困ってしまった。
「両親はいません。あ、でも育ててくれた女怪ならいるんですけど」
「女怪?」
「阿伽句って言うんです」
「ふうん…」
錚(そう)という騎獣に鞍を置きながら、竜潭は首を傾げた。このとき竜潭はこの少年が景麒の知り合いだと言う事をうっかり失念していたのだ。
「この獣はなんですか?」
興味深そうに塙麒が聞く。
「錚と言います。スウ虞に比べれば多少速さでは劣りますが、よく慣れます」
「名前は?」
「みけ」
「撫でてもいいですか?」
「はい。大丈夫ですよ」
塙麒はそうっと『みけ』の毛並みを撫でた。みけは虎に似た生き物で、尾が5本あり、額から黄金の角がはえている。身体はオレンジの地に黒い虎模様が入っており、額にある王の字は白い色になっている。

みけはぐるぐる、と喉を鳴らすと鼻で塙麒の顔をそうっと撫でた。

「さあ、行きますよ」
準備の整った竜潭は、みけに塙麒をのせると自分もその後ろに跨がった。雪笠の配慮で護衛がひとり馬でついて来る。
「わあ!」
ゆっくりと錚が走り出したときに、少年は嬉しげに歓声をあげた。
「ここにいらっしゃる時には何にのっていらっしゃったんです?」
「え…。あの…」
再び塙麒は困ってしまった。竜潭はその様子を見てやはり首をかしげる。
「すみません、困らせるつもりはなかったのですが…。お一人で騎獣にも乗らず慶までいらっしゃるのは大変でしたでしょう」
「あ、いいえ…」
じっと自分を見る竜潭の青い瞳に抗えないものを感じて、塙麒は小さな声で囁いた。
「あの、1人で来たのではありません。途中まで歩いて来たんですけれど、途中から蒙燐(もうりん)に乗せてもらいました」
「蒙燐?」
「あの、遨粤(ごうえつ)なんですけど…」
「遨粤!?」

竜潭はぱっくりと口を開けた。遨粤といえば牛に似た人を喰う妖魔だ。そんなものに乗って来たと言うのか?
「あの…」
心配そうに竜潭を覗き込む青い瞳を見て、竜潭は思わず笑った。
「一杯食わされました。一瞬本気にしてしまった」
きっと歩いて来たのだろう、と竜潭は思った。自分がしつこく聞くので徒歩を恥じてそんな作り話をしたと思ったのだ。

塙麒は信じてもらえなかったのは悲しかったが、少し胸をなで下ろした。自分が麒麟で、人型になった後、指令の遨粤に乗って来たのだなどと今はまだ知られたくない。彼は自分が麒麟だとわかったらどうするかしら?それを知るのが恐いのだ。

錚の乗り心地は最高だった。スウ虞ほどではないと言っていたが、なかなか足が速く、それでいて少しも揺れない。後ろからついて来る護衛の事も考えて、たいしてスピードを出している訳ではないが、それでもけっこう快適だった。

「なんだか寂しくなってきましたね」
国境付近に来た時、心細げに塙麒が言った。
「ええ、もうあの山を越えれば巧ですから。夕方を過ぎるとこの辺りも妖魔が出ますから、覗いたらすぐに帰って来ましょうね」
「はい…」
噂では聞いていたが、それほど巧の状態は酷いのだろうか?塙麒はその原因が自分にある事を思い、うなだれた。
「恐いですか?」
「いいえ…」
そう返事をする少年はそれでも何かに怯えた様に自分の方を振り返る。
「大丈夫ですよ。こんな昼間にはあまり妖魔は出没しませんし、錚の足に追いつける妖魔は余りいませんからね」
そうではないのだ、と塙麒は首を横に振る。

「着きましたよ。ここが巧です」
山を越えたところで竜潭がそう言った。慶とあまり変わらない、と思ったのもつかの間、視界の片隅にかつては色とりどりだったであろう残骸が目に止まった。襲われてだいぶ経つのか、幸いすでに血の匂いはしなかった。
「どうやら国を出ようとして妖魔に襲われたようですね」
悲しそうに竜潭が呟いた。塙麒は目を伏せてぎゅっと竜潭に抱きついた。
「帰りましょうか?」
「いいえ、もうちょっとだけ、見てみたいです」


「貴方は何故王になりたくないんですか?」
唐突に少年は竜潭に聞いた。思いがけない問いに竜潭は少しうろたえた。
「昨日も申しました通り、私は王の器ではない。自分でわかっているから昇山しないんです」
「本当にそれだけですか?」
「それだけです」
「国がこんなに荒れているのに、貴方は王になってこの地を建て直そうとは思いませんか?」
少しばかり錚を走らせて、さらに砂漠の様に何もない土地を見つめながら少年は消え入りそうな小さい声で聞いた。竜潭はあはは、っと声をたてて笑った。

「正直に申し上げましょう。私は恐いのです」
「恐い?」
「私は臆病ですから」
そう言って竜潭は荒れた大地にそっと屈みこんだ。塙麒はどうしたらいいかわからず、困った顔で竜潭を見つめた。
「私は恐いのです。私が王であっても王でなくても。王であればこの土地を治めていかねばなりません。ここまで荒れた土地を、果たして私が建てなおせるのか、本当に自信がない。王でなければやはり王の器で無かったのだとはっきりされてしまうので、そんな自分は見たくない。私は本当の事を知るのが恐い憶病者なんですよ」
「そんなことはありません!」
ずっと小さな声しか出せなかったこの少年は、竜潭が、そして自分自身が驚くような大きな声できっぱりと叫んでいた。