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慶への道は、蓬山から出た事のない塙麒にとって大変珍しく、何もかもが楽しかった。途中何かを見つけてはいちいち阿伽句に聞き、間近まで見に行っては阿伽句をハラハラさせた。
「塙麒は幾つになっても…」
などという阿伽句の言葉など聞いてはいない。何故今まで蓬山から出ようと思わなかったのか不思議なくらいだ。

慶の国境を越えた辺りで獣型を解き、人の形になった。青い髪は腰の辺りまで伸び、緩やかにおおきなウェーブを描いている。青い瞳は海の色。 なんだか清清しいものに向かって、自分は進んでいるような気がする。金波宮が近づいて来て、その思いはますます募った。なんて爽やかな国なのだろう?うきうきするような足取りで王宮に向かう。

蓬山から一足速く景麒に知らせが届いていた。主上の雪笠にさえも巧の麒麟が尋ねていくということは伏せられた。ただ景麒の友人が尋ねていくから、と景麒は雪笠に伝えた。
「台輔に友人がいたとは、ね」
目を丸くして雪笠が言う。
「うん。蓬山にいる時に知り合ったんだ」
景麒は嘘はついていない。でも何となく騙しているような気がして、少し心苦しく、少し悪戯っ子のわくわくしたものを感じていた。
「あの、雪笠様。一つお願いがあるんですけれど…」
景麒がお願いするのは珍しい。滅多に口を出す事はないおとなしい麒麟だった。
「何だ?」
雪笠が優しく尋ねる。
「今日ここに来る青龍は、叩頭礼が出来ないんですけれど、僕と一緒で跪礼だけでいいですか?」
その一言で、今日のお客がどんな者か雪笠にはわかった。
「もちろんだ」
この世で叩頭できない唯一の生き物、これから来るのが麒麟であることは間違いなかった。だが雪笠はどこの麒麟かは尋ねなかった。名乗らずに訪ねてくると言う事は、なにか深い訳があるのだろうと思ったからだ。


「台輔、お客さまが、青龍様がお見えになりました」
「はい!」
景麒は足取りも軽く塙麒を迎えに立ち上がった。

金波宮に入って、景麒との再会を楽しみにしていた塙麒はますます爽やかな何かを感じて、一瞬戸惑った。外宮の掌客殿に通された時、この清清しさが遠くの方からさらに近づいて来る気配を感じ、塙麒を落ち着かせなくなった。間もなく懐かしい景麒が灰色に煙る髪の男を伴ってやって来たが、この男がその気配の持ち主と言う訳ではなかった。彼が景王だろうか。塙麒は王と言う者を初めて見た。彼は大変若々しくて聡明な瞳をしている。漂う気配は自身に満ち溢れていて、大変よい印象を受けはした。だが自分が追い求めているものとは違うと確信する。そう、この清清しい爽やかな気配が、王宮にあるのではなく、まして景王にあるのではないことを感じた。

おや、っと雪笠はこの青い髪の少年を見て思った。今日訪ねて来るのは麒麟だとばかり思っていたが。だがすぐに思い当たった。普通麒麟は金の髪をしているが、そうではない麒麟もいるのだ、と聞いた事がある。青麒麟、黒麒麟、赤麒麟…。どれも大変珍しいのだという。彼はきっと青麒麟なのだろう。

景王の後ろにも何人かの官吏が続いた。正直こんな大掛かりな訪問は予定していなかったから、塙麒はかなりうろたえた。だが、爽やかな気配は更に強くなって来る。そしてついに塙麒はその気配の持ち主を見つけ、全身の毛が逆立つような喜びに襲われた。

見つけた、こんなところに!

その男は光に当たると青く光る黒い髪をして、海の様に深い青い瞳の持ち主だった。そう、自分と同じ海の瞳をしたこの男。彼は控えめに掌客殿に入って来て、景王の近くにそっと控えた。

「ようこそおいで下された」
親しみの籠った声で景王が声をかけた。塙麒は跪いて礼をして景王を見つめる。
「いきなりの訪問をお許しくださりありがとう存じます」
雪笠は考えを巡らせた。各国の麒麟はみな普通の黄金の鬣を持つ麒麟だと聞く。青い麒麟の国の話は聞いた事がない。だが、蓬山にまだ王を選んでいない麒麟がいるではないか。隣の国、巧の麒麟。昇山した者に会った事がないから、それが青麒麟かどうかはわからないが。

塙麒は戸惑っていた。青い瞳の男にすっかり気を奪われている。駆け寄りたい衝動を押さえながら、景王の言葉に耳を傾けた。
「さあ、うちの台輔が貴方の来るのを待ちわびていた様だ。王宮内をゆっくり見て回られよ。積もる話もあろう?」
そう言葉をかけてもらっている間も、上の空だったりする。

「塙麒、どうしたのです、塙麒!」
耳元で潜伏した阿伽句が囁いて、我に返った塙麒は丁寧に礼をすると立ち上がった。

「あの…」
掌客殿を出た塙麒は急いで青い瞳の男に声をかけた。
「はい?」
「あの、もしお忙しくなかったら、王宮内を案内していただけませんか?」
優しい笑顔で振り向いた男は、その青い瞳で目の前の少年を不思議そうに見つめる。
「かまいませんが、景台輔がおいでですから私に出る幕があるかどうか」
「青龍は竜潭が気にいったようだから、竜潭のお仕事が大丈夫なら一緒にいてもらえないかな。それにもし竜潭にいてもらえるなら、僕はちょっと雪笠様のお仕事を手伝いに行って来ます」
「いいですよ。いってらっしゃい」

雪笠からは景麒の友人が来るとだけしか聞いていなかった。恐らく女仙の誰かが景麒を懐かしんでやって来るのだろうと思っていた。少年だとわかり、雪笠とともに昇山した者だろうか、と思った。だが雪笠とは面識がない様だ。ではいったい誰だろう?

雪笠には心当たりがあるようだったが、自分にはさっぱり見当もつかなかった。

竜潭は地官の長、大司徒に就任していた。すべての六官の長である冢宰(ちょうさい)にと言われていたのだが、民意を聞き国を知るには戸籍を管理し土地を管理する地官がもっともいいだろうと判断した。自分は慶の為にあるものの、巧の為にもありたいと言う思いからだ。この経験が巧に帰った時にきっと役に立つ。冢宰はいつか自分の国に帰ろうと言う者がついていい地位ではない。

「お疲れではありませんか?」
丁寧に竜潭は塙麒に言う。自国の麒麟とは露程も知らずに竜潭は不思議な子供だ、と思っていた。
「疲れてはいません」
内宮のお庭を案内しながら、この少年が見事な庭よりも自分の方ばかり見ているのをいぶかしんでいた。王宮にしかないだろう見事な植え込みも、他では咲く事はないだろうと思われる見事な花々も、全く興味はないのだろうか?ところどころにある美しい四阿(あずまや)に目を奪われる事もなしに、嬉しげに自分ばかりを見つめるのだ。

これが綺麗な女の子ならな、などと竜潭は不埒な事を考え1人でくすくすと笑った。
「あの…」
塙麒はおずおずと竜潭に聞いた。
「貴方は慶のお生まれですか?」
「いいえ」
竜潭は困った様な微笑みを浮かべた。
「どうしてお分かりになったのでしょう?私は巧の生まれです」
「ああ、やっぱり!」
この尋常でない喜び様は何だろう?竜潭は首をひねるばかりだ。

塙麒は天啓がどんなものかをついに理解した。麒麟の力で抗えるものではない。この男が自分を疎ましく思おうとも、自分はもうこの男から離れる事はできないとわかった。王を選んでよいものか、と悩んでいた自分が急にばかばかしくなった。選ばずにはいられない。だが、もっとこの男を知ってからでいいだろう。

「貴方はどちらからいらっしゃったのですか?」
竜潭は少年に聞いた。少年はかなり困った顔をしたが、小さい声で言った。
「巧、です」
ああ、それで、と竜潭は笑った。
「巧の人は同郷の人間がわかるんでしょうか?私に巧の匂いがしましたか?」
「はい!」
まだ会ってさほどの時間が経ってるとは思えないのに、この少年は竜潭の服にぶら下がる様に纏わりついている。こんなに人懐っこい子供は初めてだし戸惑いはするが、悪い気持ちはしない。

「でも、今は巧から来たのではなく、もっと遠い所から来ました」
正直に塙麒は言った。
「ああ、国を出ていらっしゃるんですね。私も同じです。新しい王が立てば巧は住みやすい良い国になるでしょう。そうしたら国に戻れます。私はその時の為にここで勉強しているのですよ」
「新しい王…」
「皆新しい王を待っていますからね。早く麒麟が天啓のある王を選んでくれるといいですね」
「貴方も新しい王様を待っていらっしゃるのですか?」
「もちろんです。王と麒麟が国に下るのを皆ずっと待っているんですよ」

「ごめんなさい」
小さな声でこっそり塙麒は謝った。竜潭には聞こえないような声ではあったが。そして竜潭に一番聞きたい事を口にする。
「貴方は昇山されないのですか?」
「昇山?」
あはは、とこの男は快活に笑った。
「私は己を知っています。よい所も悪い所も。王の器であるかどうかもわかっているつもりですよ」
「そうでしょうか?王になりたくはないですか?」
「ええ。王の器でないものが王になれば必ずその国は不幸になります。そう言う意味で私は王になりたくありません」

昇山し、王になりたいと言う者にしか会った事のない塙麒は途方にくれてしまった。王になりたくない、それでもこの人は王なのだ。