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竜潭は雪笠が身支度を整え蓬山を目指して旅立った後、何かに取り付かれた様に働いた。まるで何かを忘れたいかのように。そうかと思えばふらりと遊びに出て夜遅くまで帰って来ない事もあった。

「竜潭」
そんなある日の夜更け、竜潭の部屋に母が訪れた。畑仕事で疲れてこんな時間まで母が起きている事など珍しい。心配そうな母の顔で、母が何を言いに来たのか想像がつく。
「貴方は昔から賢い子だったから、何も言わなくてもわかっているでしょうけれど」
そう前置きをして、母はしばらく黙って竜潭の顔を見つめた。竜潭はまっすぐ母の目を見る事が出来なかった。
「一度巧の様子を見て来てみたらどうかしら?」
母が思いがけない事を言ったので、竜潭は不思議そうに顔をあげた。
「貴方は自分が何故ここに来たのか忘れてしまったのね」
そういいながら母は首の後ろに両手を回し、そっと首にかけていた首飾りを外した。
「これを持ってお行きなさい。そして何かに迷ったらこれを見つめてごらんなさい」
「これは…?」
「これは貴方をずっと見つめ続けて来た母の目です。高価なものではないけれど、いつの日か母の目の代わりを見つけた時、そっとお渡しなさいな」

竜潭は母の首飾りを受け取り、懐に入れた。母はそれ以上の言葉を語ろうとはしなかった。そして黙って部屋を出ていった。


竜潭が巧についたのはその数日後の事だった。5年の歳月は情け容赦なく巧の村々を襲っていた。見る影もなく荒れ果てた土地がそこに広がっていた。もはや人の気配のない廬にはただ風が吹き抜けていくだけだ。呆然としたまま、竜潭は馬を急かせて町に行った。そしてその風景を見て、再び愕然とする。

人の気配がほとんどない。きっと数年前までは盛り場だったであろう町並みも、もはや寂れてしまっている。数日前まで夜な夜な繰り出していた慶の盛り場とは比較にならないほどだ。慶は王がいないとは言え、人々のざわめき、賭博、酒、日頃のうさを晴らすかのような半ば投げやりの盛り上がりを見せていた。だが巧はどうだ?その力すらもはや残ってはいない事が明らかだった。

竜潭は急に恥ずかしくなった。

慶に行ったのはなんのためだ?いつか巧を建て直す時に必要なものを勉強しに行ったのではないか?それを自暴自棄になってなにもかも放り出そうと言うのは、どういうことか。自分のなすべき事は投げやりな態度で拗ねる事ではなく、ましてや王になるための勉強をする事でもない。国を興すために何をすべきか。政治を学び、巧と慶の橋渡しをする役目を担おう。慶の王が誰に決まろうとも、自分は何とか慶の政治に割り込んで入り、学びながらもいつの日か役にたてる様にすればいい。

昇山なんて、自分のなすべき事ではない。

竜潭は人気のない大通りで、傾いた店の看板を見つめながらそう決意した。慶に帰ろう。願わくば雪笠が王になれます様に。彼が王なら自分が慶の政治に割り込むのが大変容易くなる。

と、そんな事をぼんやり考えていた竜潭の後ろで、軽い驚きの声が聞こえた。
こんなところで何を、と言って絶句している声をすぐ後ろで聞いて、竜潭は振り向いた。
「あ!お師匠様!」
竜潭は驚きの余り目を見開いて動けなくなったが、すぐに泣きそうなほどの喜びが沸き起こった。目の前には五年前とほとんど変わらない、いや肉付きが十年前に戻ったかのような据瞬がやはり驚いた顔で立っていたからだ。
「だから、お師匠様はよせって」
かろうじてそう言ってまだ驚いたままの表情の据瞬は、竜潭の前に小走りでやって来た。
「戻って来たのか?慶から」
「いいえ。いいえ、違います、お師匠様。これからすぐに慶に戻ります」
竜潭はどれから話そうか頭の中がいっぱいになりながら、口をぱくぱくさせた。話したい事、聞いてもらいたい事、そして聞きたい事が山の様にある。
「こんなところでは何だ。うちに来ないか?」
据瞬はくるりと踵を返し、手招きする様に竜潭を呼んだ。
「はい!」


「あの、お師匠様」
「だから、その呼び方はよせって」
明るく笑いながら据瞬は酒を竜潭に勧めた。
「よもや君とこうして酒を酌み交わす日がこんなに早く来るとは思っても見なかったよ」
嬉しそうな据瞬はグイグイと酒を口に流し込んだ。
「あの、お師匠様にずっと聞きたい事がありました。少学の授業料の事なんですが…」
ああ、と軽く頷きながら据瞬は話し始める。
「竜潭は大学に行くのを断ったそうじゃないか」
「はい。いつまでも御好意に甘える訳には…」
「好意でやってるんじゃないよ」
酒が回ったからかもしれないが、いつもより饒舌に据瞬が話を途中で切る。
「君に賭けたんだ」
「賭けた…?」
「そうさ」
そう言って据瞬は遠くを眺めるような目をした。
「今、俺は巧に戻って仮朝の夏官をやっている。ま、本物の王が立つまでの仮の役職だがね。君と別れてすぐに慶の王朝が倒れただろう?俺はちょうどその直後に慶の禁軍の将軍に会った。そして今こそ互いに助け合い本物の天啓のある王が立つまで耐え忍ぼうと決意した。それで俺はそのまま巧に戻って来たと言う訳だ」

道理で別れた時とほとんど変わらない訳だ、と竜潭は思った。据瞬は仙になったため見た目が30代前半で止まっている。一目でわかったのはそのせいかもしれない。
「君ならやってくれると思っているよ。きちんと学校を出てなすべきものの道理を心得たものが大勢必要になる。気がついてから探すのは厳しいものがある。だから今のうちから作っておけばいいのだ。学費なんて気にする事はない。なんといってもこの国では金があっても買うものすらないからな」
大学には行かないと聞いた時、正直がっかりした。だが今目の前にいる青年は希望にキラキラと目を輝かせているではないか。自分の目に狂いはなかった、と思えるような青い聡明な瞳。
「お師匠様には申し訳ないけど、大学には行きませんでした。俺は何をなすべきか見失っていた気がします。いえ、でももう見えました」
「なにが?」
「大学に戻るつもりはありません。机上の論理より俺は実際の政治を見てみたい。どんな小さな仕事でもいい。俺は慶の王宮に行きます」
「行きたいからと言って、やすやす入れるところではないぞ」
「わかっています。でも俺にはそうするしかないんです」

にわかに外が騒がしくなった。据瞬の屋敷は王宮の中にある。外では人々が何やら口々に叫んでいる。鳳凰の鳳が知らせを運んで来たのだ。
「白雉鳴号!一声鳴号!景王即位!」

「慶に先を越されたか」
少しうらやましそうに据瞬が言った。
「うちの麒麟は何をやってるんだか」
黙って据瞬を見つめた竜潭はその眉の間に寄せられた皺に苦しい巧の状態が伺い知った。据瞬は竜潭の目を見つめ返した。
「君は昇山しないのか?」
「しません」
きっぱりと竜潭は言ってのける。
師匠の無言の問いかけに、竜潭は独り言の様に答えた。
「僕がしなくてはならない事は王になる事ではなく、巧を復興させる技術を身につける事だと悟りました」
「王はなりたくてなるものではないよ」
「でもなりたくなくてなる人はいない」
それはそうだが、と据瞬は笑った。
「君は王になりたくないのか?」
「今はその気持ちは全くありません。王になって巧を導ける手段がない今は、なるべきではないと思います」
「王が王座にいるだけで、国は富むものだ。妖魔は姿を消し、天候は落ち着く」
「誰でもいい訳ではないでしょう?」
「天が選んだ人物なら誰でもいい。君はなんでも難しく考え込むところがあるな。肩の力を抜け。そして一刻も早くその余計な考えを笑い飛ばしてくれるような仲間を見つける事だ」
「…」
竜潭は雪笠の顔が思い浮かんだ。あいつによく言われる事だ。自分は些細な事を思い悩む悪いところがあるらしい。

ところであなたは、と竜潭は聞きかけた。
「俺か…」
天を見上げて据瞬は呟いた。
「そうだ…な。後数年麒麟が王を選ばないならば昇山するかな。ただし王になるためじゃない」
「王になるためではなくて何のために?」
「麒麟を叱り飛ばすためさ」
そう言って据瞬は豪快に笑った。