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五曽の廬では狐につままれたような顔で人々が里木の下に集まっていた。あの白い卵果が十年の歳月をかけてついにもげるくらいの大きさに育ったのだ。
「怪物が出て来たらどうする?」
「十年もたっているんだ。赤ん坊のミイラがでてくらあ」
「うるさいね!つべこべ言わずに男は黙ってな!」
おかみさん達に一喝され、腰の引けている男達が黙り込んだ。
里木には普通の黄色い卵果に混じって、真珠のような光沢のある真っ白な実がまさに成熟の時を迎えていた。
「愉燵(ゆたつ)様、準備はできてまさ」
廬の男達は万が一の事を考えて、手に手に鍬や鋤を持って周りに集まって来た。里木の近くでの殺傷は御法度だ。だが生まれて来た子供がもし妖魔だったら…?妖魔の生まれる地はわからない。どうやって生まれるかも不明だ。もしかしてこの不吉な実が妖魔のものでないと誰が断言できる?本来なら十月十日で実るものを更にこの実は十年の年月をかけているのだ。
「さあ、もいでごらん。大丈夫、私たちの子は中で健やかに育っているよ」
愉燵は妻に優しく言葉をかけた。途中で何度もいでしまおうと思った事かわからない。十ヶ月した頃、まだまだ小さく堅い実であったとき、いったんは諦めたものだったが、どう言った訳かもぐことはできなかった。そのうち、妻も自分もこの実の美しさにすっかり魅せられてしまった。たとえ孵る事がなくても、自然に落ちてしまうまで見守ってやろう、そう決意したのだ。だから十年の歳月をかけて、ちょうどよい大きさまで育つなどとは、その当時考えもしなかった。
これはいったいどう言う事なのだろうか?国が荒れると卵果まで成長が止まるものなのだろうか。
「おお!!」
妻が白い卵果をもいで中を開けた時、辺りからは歓声にも似た声が巻き起こった。
「生きているぞ!女子だ!」
「なんと愛らしい!」
ぱっちりと目を見開いたその赤子は不思議そうに辺りを見回した。妻は喜びの余り泣き出した。そして泣きながらそっとわが子を抱き上げる。
大きな産声が響いた。
「ああ、よしよし…」
慣れない手付きで赤子を揺すりながら、妻はそっと天に感謝の言葉を呟いた。この卵果を授かって十年余り、何度この日を夢に見た事か。いつまでも成長しない実をもいで、次の実を祈ってみようかとも考えた。だが、その踏ん切りがつかなかったのは、白い卵果が余りに美しかったからだ。
十年もかかったのに、中の赤子は少しも変なところはなかった。変と言えばエメラルドのような緑の髪と玉よりも透き通り綺麗な桃色をしている瞳が、他に類を見ないほどに美しいということだけだ。
「驚いた。こりゃあ将来別嬪になるぜ」
「里木の卵果が孵ったということはこれからこの国は豊かになるって事だね、きっと」
何かにつけて都合よく明るい未来に結び付けたい気持ちは、国が荒れれば強くなるものだ。この不思議な赤子は荒れ果てた巧の小さな廬、五曽に明るい希望をもたらした。
「さあ、蓮月(れんげつ)。帰りましょう」
母は十年前から用意していた名前でそっと娘を呼んでみた。虞蓮月(ぐ れんげつ)はこうして竜潭の生まれ育った五曽の廬に生を受けたのである。
蓬山では慶の麒麟がいよいよ昇山を許す時が来ていた。金の鬣も腰の辺りまで伸び、淡い緑の瞳は大きく和やかで、まるで春の先触れのような柔らかい印象の麒麟だ。
「もうすぐ慶の国の人達がここに来ますからね。景麒はその人達をよく見て王様を選ぶのですよ」
「はい!」
蓬山にはもうひとり麒麟がいる。青い鬣で青い瞳の抜けるような青空を思わせる青麒麟が。塙麒はまだ王を選んでいなかった。沢山の昇山者と会ったが、王だと思うような人物はみあたらなかった。いや、王だと思いたくなかったのかもしれない、と塙麒は密かに思っている。これが天啓だ、というものは感じなかった。感じたくなかっただけかもしれない。誰にも言えない事ではあるが。
「巧の国の人も昇山してきますから、昇山者をきちんと分けないといけませんよ」
貂鞠は女仙達にそう言うと、塙麒を見つめた。
「僕は一緒でもかまいませんよ。どうせ巧の昇山者はあまりいない。昇山しようという気骨のある人間は、もうとっくに昇山してしまっていますからね」
塙麒はまだ迷っていた。王を選ぶことはいいことなのだろうか?それとも…?よい王とはどんな王なのだろう?
「麒麟旗が立った。私は昇山する」
二十歳を迎えていた雪笠はそう高らかに宣言をした。大学に入り官吏の道を目指してはいたが、国を支える官吏になりたかった訳ではない。なりたいのはただ一つ、この慶東国を統べる国王なのだ。
名誉だの高い地位だのに憧れた訳ではない。国と言うものを動かしてみたくなったのだ。自分が国を引き受けたなら、きっと民を富ませる事ができるのに、と常々雪笠は思う。人を使うのは慣れている。小作人を沢山抱える大地主のひとり息子。人の上に立つべく生まれて来た。政治に関しては素人かもしれないが、必要な知識は大学で学んでいる。卒業まではまだ少し時間がかかりそうだが、王になってしまえばその必要はなくなるのだ。
慶は国王を失って国土が徐々に荒れて来た。周辺の地域だけではなく王宮のすぐ近くまで妖魔が出没するようになったし、天候も不順で実りも余りよくない年が続いている。だが前の国王を支える官吏がしっかりと国を治めていたから、さほど混乱もせず5年の月日が過ぎた。隣の国巧の荒廃ぶりに比べればまだ慶の方がましだと思われる。麒麟が育ち、天啓のある王が立てばきっとすぐにでも再び富める国になるだろう。
「一緒に昇山しないか?」
おもむろに雪笠は竜潭に聞いた。
「俺が?何故?俺は慶の生まれではないから、お前の護衛などまっぴらだ」
竜潭は笑って雪笠に答えた。雪笠は顔をしかめ、口を尖らせた。
「まだ巧も国王を選んでいないだろう?俺だけでなくお前だって昇山して巧の麒麟に会ってみればいいじゃないか」
あはは、と竜潭は笑った。雪笠は知っている。竜潭がわざとらしく大きな声で明るく笑ってみせるのは、必ず痛いところを突いた時なのだと。
「俺は昇山はせんよ」
どうして、と聞く隙を与えず、竜潭はくるりと背中を向けて部屋を出ていこうとした。
「どこへ行く?」
「畑。今年は今までよりも天候が悪い。今まで以上に細かい世話が必要だ」
竜潭は少学を出た後は大学には行かず小作人の1人として畑仕事に出ていた。努力をして、大学に行くだけの成績は修めたし、雪笠に誘われはしたが、やはり学費の事を考えるといつまでも甘えている事は出来ないとすっぱりと諦めた。少学では書を読み詩を書き、政治を学んだ。興味は持ったが、それは自分にとって必要な事だとは思えなかった。巧の国にいつかは戻る事になるだろうが、自分の役目は荒れた田畑を緑にし、倒れた建物を建て直す事にあるだろうと思ったからだ。政治などはそれ相応に相応しい人物に任せておけばよい。
「お前、無理してないか?」
雪笠は扉を出ようとする竜潭に、絞り出すような口調で言った。
「無理?」
何故?と問いかけるような顔で竜潭は振り向いた。口元の微笑みは何かをごまかそうとする時に浮かべるものだ。
「一緒に昇山しよう。天に我々を問おうではないか」
だから、と言って少し考え込んだ顔をした竜潭は雪笠に納得してもらえるような言葉を探してしばらく天を睨んだ。
「俺は巧の王に収まっていいような人間じゃない。天はとっくにお見通しだろう」
「何を見通していると言うのだ?」
「俺はお前とは違う。俺は自分の国を捨ててここにいるのだ」
「竜潭、それは…」
「国を見捨てるような奴が国王のはずがない」
竜潭はにっこりと笑った。そしてゆっくりと部屋を出ていった。
竜潭は雪笠が王になるのではと密かに思っていた。王気と呼ばれるものを麒麟が感じて王を選ぶのだと聞いた事がある。自分は麒麟ではないからそれがどんなものかはわからないが、雪笠には人を惹き付け従わせてしまう何かがある。自分には到底真似の出来ない何か…。
実は少学で机を並べている時、毎日が苦痛であった。成績は似たようなものだった。試験があっても雪笠が勝つ事もあったが竜潭の方がよくできる事もあった。だが、いつも雪笠には勝てないような気がしていた。それが何故かはわからない。うすうす感じているのはその何かが自分には備わってないということだ。
自然と気持ちが引けていつも雪笠の後ろに一歩下がる事が多くなった。これが主人と使用人の位置なのだとしばらくして気がついた。
焦った時期もあった。雪笠の後ろに潜む自分が許せない事もあった。だがいつの間にか無理をしないことが一番いいのだと気がついた。無理に肩を並べなくてもいいのだと思ったら、気が楽になった。
だがそんな誰かに引け目を持っているような人間が王の位についてよいはずがない。それは巧の国にとって決して喜ばしい事ではないだろう。
いや、と竜潭は畑で黙々と作業をしながら笑った。本当は違うのだ。そんな事はきれいごと。本当はそんな綺麗な事を考えているのではない。
大金をつぎ込んで昇山し、目の前で雪笠が王になる。だが巧の麒麟は自分にいうのだ。ー中日まで御無事でーそして雪笠は勝ち誇った顔で自分を見る。
「竜潭、お前俺の国で官吏にならないか?ずっと慶にいればいいじゃないか」
1人で妄想し、1人で耐えきれなくなって竜潭は拳を握った。この腹の奥底から沸き起こる熱い感情は何だろう?雪笠に負ける事が悔しいのか?いや、違う。だが本当に違うと断言できるのか?雪笠に負けるというよりふがいない自分を見る事が口惜しいのではないか?自分は今まで何ごとも必ず踏ん張って成し遂げて来たではないか。不可能だった事は何もなかった。ただ、この感情だけが己のコントロールを妨げる。
認められなくても、道を閉ざされても、いつも自分は己に恥じないだけの努力をして全ての事を成し遂げて来た。形にならなくても自分を満足させるものが得られたと思ったから、一歩下がったところに甘んじても自分自身をなだめる事ができたのだ。だが明らかに敗北するところを見る勇気がない。国を捨てた男が国王になる事はないと思っているのは事実だ。だからこそあの男より分が悪い。そんな勝負を買って出るほど自分は恥知らずではない…。
王になりたいのか?
竜潭は己の中にある感情に初めて気がついた。
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