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据瞬は慶の荒廃ぶりに愕然とした。前の塙王に付き従って慶に来てからさほど経っていないはずだ。好々爺と言った風情の景王は孫娘の様に麒麟をかわいがり、当時の塙麒が羨んだほどだった。
それが一体どうした事だろう?金波宮に近づけば近づくほど辺りの景色がくすんでいく。暴動でも起こったのだろうか?建物が倒壊したり、実りのない荒涼とした畑が続いていたりどう見ても国が傾いているとしか思えなかった。景王壟錠(りゅじょう)の治世は三百年と少し。生きる事に飽いてしてしまったか、それとも…?
「良いところに来てくれた」
王宮の入り口に辿り着いたところで据瞬はいきなり声をかけられて、少々驚いた心持ちで振り向いた。
「おお、これは勘詠殿!」
振り向いてみれば、前回慶を訪れた時に親睦をはかった禁軍将軍の勘詠が、本当に困り果てているような顔で駆け寄って来た。
「いかがなされた、この荒廃ぶりは」
「いやはやなんとも、お恥ずかしい話ですが、王が、景王勘詠が乱心いたしました」
「なんと!?」
「何日か前の朝、いきなり何もかもが嫌になったとおっしゃられてそのまま…」
勘詠は言葉につまった。無念さに声が震える。
「そのままいかがなされた?」
勘詠は首を横に振って唇を噛んだ。重苦しい沈黙が流れた。
「王は今…?」
据瞬がそう口にした時、口惜しそうに勘詠が答えた。
「白雉が二声を…」
「いったいどうして…?」
「巧の方にこれを申し上げるのはどうかと思いますが…」
そう前置きをして勘詠は小さな声でぼつぼつとしゃべり始めた。
「あれは5年ほど前の事でございました」
5年前、それは巧の国の王が倒れたその年の事…。
「壟錠様…」
景麟は哀しそうな顔で景王の顔を見つめた。
「どうした、そんな哀しそうな顔で?」
孫娘を慈しむような顔で王は麒麟を見た。
「お隣の巧の王様がお倒れになったとか」
「鳳がそのような知らせを運んで来たのを、聞いたのだな?」
「はい。なんとか巧をお救い出来ないでしょうか?」
景麟は昨日鳳凰の鳳がそのような知らせを運ぶのを聞き、自分に何ができるかを考えていたのだ。
「ちょうど今年は豊作で、買い付ける作物も沢山ございますし、きっと巧の皆さんにも差し上げる分があると思うのですけれど」
「心配しなくてもよい。国境付近に難民を受け入れる町を作ろうと思っている」
にこにこと壟錠は麒麟に微笑みかけた。
「それが発端でございました。後から後から次々に流れ込んで来る難民を景麟の望むまま、手厚く保護をしているうち、やがて自国民の食糧もままならなくなって参りまして…。そんなとき昨年の天候不順で大飢饉が起こりました。今年はまずまずの出来栄だと聞いておりますが、秋の実りが約束されてもその日の口に入るものがなければ腹は満たされません」
こうして王宮に近い辺りから暴動が広がり、国は大いに乱れたのだ、という。
「自国民が飢えているのを景麟が大変悲しみ、特に昨年の作物が壊滅的だった紀州に援助物資を送ったところ、それを聞き付けた瑛州や建州などで暴動が起き、それが全国に…」
「そんな事が…」
据瞬は言葉につまった。
「麒麟が実ったか」
玉葉は捨身木を見上げて言った。
「まだ塙麒がいるというに、このところ頻繁に国が傾いておるの」
「そうでございますね」
女仙の貂鞠は塙麒を連れて捨身木の様子を見に来ていた。すでに木の根元には新たな女怪がうずくまっている。
「慶の麒麟はどちらじゃな?穐梶(しゅうび)」
「景麒…」
景麒の女怪はカモシカの身体、孔雀の尾羽、蛇の首をもつ穐梶と言う名前だ。
「ほう、麒か。塙麒も仲間ができてうれしかろ。もっとも最初の昇山者に王がいれば会う事もなく国に下るのだろうが…」
「何かお気になさることでも?」
「まだあの花は生まれておらぬだろうて」
「花、でございますか?」
「塙麒が実っている時咲いておったあの花じゃ」
「そういえば…」
貂鞠は5年前を思い出していた。麒麟の実の横に不吉なまでに美しい白い花が咲いていたのを。
「あの後すぐにどこかの里木に辿り着いたとしても、まだ5年しか歳月が経っておらぬ。もし人が気味悪く思いもいでしまってないならば、後5年ほどで人として生まれてくるであろう」
「そんなにかかるのですか?人の子は10ヶ月と10日で生まれて来るのでございましょう」
驚いた様に貂鞠が聞いた。
「花は人となるには10年と10月10日かかる。王が決まるのはまだ先であろ」
「どうした、塙麒」
つまらなそうに俯いている塙麒に玉葉が気がついた。
「玉葉様、麒麟が生まれて来るのは哀しい事なのでしょうか?」
塙麒は哀しそうにそう聞いた。
「なぜじゃ?国の宝である麒麟が生まれて来る事を悲しむものなどどこにおろう?」
「でも、皆慶の麒麟が生まれてくると聞いて哀しそうに泣いていらっしゃいました。僕が生まれて来る時も皆泣いたのでしょうか?」
「まあ、塙麒…」
貂鞠はびっくりして塙麒の前に跪いた。
「申し訳ありません、そんなことはございませんとも」
玉葉も塙麒に優しく手を差し伸べて言う。
「麒麟は一国にひとりと決まっておる。新しい麒麟が実ると言う事は前の麒麟がいなくなる事。前の麒麟を惜しんで皆泣くのじゃ。決して新しい麒麟を軽んじての事ではない」
「そうですとも、塙麒。塙麒も皆に望まれ祝福されて生まれて来たのです。もちろん今実っている景麒もです」
「麒麟はよい王を選ばなくてはならないのですよね?」
更に不安げに塙麒が続ける。
「よい王とはどんな王でしょうか?皆さん達が泣かなくてすむような王を僕は選べるのでしょうか?」
「確かに麒麟は王を選ぶ。だが、塙麒、王は天から授かるもの。誰が王かこっそりと天はそなただけに教えるのじゃ。それがよい王になるかどうかは元から備わったものだけではなく、これから王自身が身につけていくものじゃ。そなたはそれをすぐそばで支えて行けばよいのじゃよ」
「僕は王を選びたくありません」
訴える様にそういう塙麒を、貂鞠は困った様に見つめ何か言おうとしたが、それを玉葉がそっと止めた。
「よい。それも天意じゃ。そなたの好きな様にするがよい」
竜潭は雪笠にくっついて少学に通い始めた。どういうことか、少学には自分の席も用意してあり、雪笠と同じ様に授業が受けられた。試験や費用は、と聞いてみたがどこからか支払われていると言う。竜潭は首を傾げた。難民で他国に避難して来ている身、余分なお金は持ち合わせていない。小作人として雇われているくらいだ。両親がそれほどの金額を捻出できるとも思わない。
もしかしたら、と竜潭は思った。据瞬がこの費用を支払ったのではないか?巧では金など持っていても何の役にも立たなかったが、慶にくれば状況は違う。彼が少学に通う様に手配したのだ。きっと費用も捻出してくれたに違いない。
竜潭は昔据瞬からもらった首から下げているお守りを取り出し、そっと眺めた。そしてそれに向かって深々と頭を下げた。
少学に通わせてもらう事自体はとても嬉しいし、がんばろうと言う気持ちはある。だが授業が始まってみると気持ちが萎えてしまう事ばかりだ。なにしろ今まで国が不安定だった事もあり、まともに勉強などした事がない。剣ならば毎日の様に握っていたがペンを握る事など滅多になかった。すぐに授業は苦痛になった。
「お前、気張り過ぎてるんじゃないか?」
帰り際に雪笠は竜潭にぼそぼそと小さな声で話し掛けた。妖魔の一件以来雪笠とはとても仲良くやっている。雪笠もウマが合うと思ったのか、どこに行くにも竜潭を伴う様になった。もちろん少学でも机を並べている。
「いままで何もしてこなかったんだから、すぐに出来ないのは当たり前じゃないか」
「そういうもんだろうか?」
「あたりまえだ」
ぶ然と雪笠は言う。
「もしお前にすごいところを見せられてみろ。俺達の立場がない」
竜潭は首を竦めた。
雪笠はその様子を見てあははっと快活に笑った。
「とにかく焦っても仕方ない。俺だってここでは素晴らしくよい成績と言う訳ではない。このまますぐに大学に行かれるって程ではないさ」
「大学!?」
もちろん竜潭はそんなところまで考えてもいなかった。ただ他人から言われてここに来ているだけだ。
「何を驚く事がある?」
手がかかる、と言わんばかりに雪笠は竜潭に畳み掛けた。
「我々が少学に通うのは何のためだ?将来高級官吏になるためではないか?もちろん剣の腕で軍功をたてて出世していく方法もあるが、できれば夏官は避けたい。そうしたら大学に入り、そして卒業する事が一番早い道だ」
そう言って、いや、っと雪笠は首を振った。
「もう一つ方法があるな。5年後麒麟旗が立ったら、俺は昇山する」
自信に溢れた雪笠を、竜潭はあぜんと見守るしかなかった。竜潭は将来の事など考えた事もなかった。それほど毎日の生活は逼迫(ひっぱく)していたのだ。いや、遠い将来の事ではなく、今日の食糧を確保し、今日の妖魔の襲来を防ぐ、それだけでいっぱいだった。
自分は今までその日その日を生きるのが精一杯で、目先の事しか考えられない人間になってしまっているのではないか?目先の事も大切だ。それを考えなくてはその日を生き抜く事も出来ない事がある。慶も王を失ったと言う噂を聞いたが、これから状況は巧の様に厳しくなってくるだろう。だが、将来に希望が持てなければ、今にも希望が持てないのではないか?
大学に行くかどうかはわからない。たとえ入学が許されたとしても。多分そこまで甘える事は出来ないだろう。きっと自力でいかれるような額ではない。そうしたら勉強は今この時を逃したら、一生できなくなる。それはそれでいいけれど、せっかくの機会をみすみす潰す事もない。
「俺でよかったら教えてやるから、少しずつ落ち着いてやれよ」
もう一度雪笠はそう言うと、ぽん、と竜潭にぼろぼろの本を投げた。それを無造作に受け取り竜潭は表紙を眺めてみた。
「これは?君の大事なものではないのか?」
「それをお前にやる。俺はそれをもうすでにそらんじた。お前にやれば俺はそれを手許に置けなくなるから、きっとそらんじたものは忘れない。君のお陰で僕はそれができる様になるのだ」
「本当に!?」
竜潭の瞳が輝いた。実は本を全部はそろえる事が出来ず、隣の雪笠に見せてもらうしかなかったのだ。
竜潭は自分にはない冷静で合理的な思考の雪笠にすっかり魅了されていた。この強さはいったいどこから来るのだろう?実は同時に雪笠も物おじせず常に胸を張って振る舞おうとする竜潭に尊敬にも似た気持ちを持っていた。何が起ころうとも彼の口から泣き言を聞いた事がなかった。
お互いにお互いの足りないものを見つけた気持ちがした。
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