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慶は実りの時を迎えていた。据瞬の計らいで竜潭とその家族は、裕福な農家の小作人として住み込みで働く事になった。
「お師匠様はこれからどう為さるんです?」
少々不安そうな瞳で竜潭は聞いた。
「だからその呼び方はやめてくれって」
笑いながらも据瞬は愛弟子を慈しむ様に見つめた。
「今の巧が私を必要としていないのならば、どこか雇ってくれる国を探してさすらうだけ。きっと物好きな国が一つくらいはあるだろう」
「そんな…!」
据瞬はおおらかに笑い、竜潭の背中を軽く叩いた。
「永遠の別れと言う訳でもあるまい。どうやらもうじき麒麟旗が立ち、次の冬至には昇山が許されるらしい。新しい王が決まれば再び巧に戻ることができるだろう。私も君も」
「新しい王が!」
うっとりと竜潭は据瞬を見つめる。
「そうしたら巧も慶みたいに実りのある平和な国になるのかな?」
「もちろんだ。天啓のある王がいれば」

据瞬は軽く手を振って別れを告げようとした時に、ふと思い出した様に言った。
「そうだ、竜潭。明日から君は昼間は畑仕事をしなくていい事になっている」
「え?」
竜潭は不思議そうに目を見開いた。
「こちらの御子息が少学に通っていらっしゃるから、君はその付き添いで一緒に少学に行く事。行った先で一緒に勉強するも、そのままどこかに遊びに出るも君の自由だ」
「本当ですか!?」
竜潭の目が輝いた。
「本当に勉強してもいいのですか!?」


蓬山の女仙達は無事人型に転変した青麒麟を一目見ようと、皆蓬廬宮の塙麒の部屋に詰め掛けていた。
「無事の転変、お喜び申し上げます」
皆口々に喜びの言葉を口にしながら、幼い子供の周りを取り囲む。
「ありがとう…」
女仙が喜べば麒麟も嬉しい。内側に緩やかに巻く青い鬣はちょうど肩のあたりまで伸びている。まだ人間で言えば5歳くらいの幼子だ。
「今度の冬至には、昇山して来るものがおりましょう。ここも賑やかになりますよ」
貂鞠がそう言ったその時、遠くの方でざわめきが聞こえた。思わず塙麒は身体を堅くし、怯えた様にそちらの方に青い目を向けた。

「何ごとです?塙麒が怖がっているではありませんか!」
非難する様に貂鞠が言った言葉に答える様に誰かが答えた。
「景麟が病に倒れました。慶王崩御もまもなくと思われます」

「なんと!」
悲鳴に近いざわめきが一挙に広がった。塙麒は思わず貂鞠の服にしがみつきその手をしっかり握った。いつもなら優しく微笑んで大丈夫よ、と声をかけてくれるのに、見上げて見ても貂鞠はただ呆然と立ち尽くしているだけだった。こんな貂鞠を初めて見た。
「景麟がなぜ!?」
「景王はあんなに景麟をかわいがっていたのに…!」
あたりからにわかにすすりなく声が聞こえて来た。女仙達のほとんどがただ、静かに泣いている。
「どうして皆泣いているの?ぼくが何かした?」
困った様にそう言った塙麒の声で貂鞠はやっと我に返った。
「なんでもございません、塙麒。大丈夫です」
貂鞠は屈みこんで幼い麒麟と目線の高さを同じにした。

「もうじきここにもう1人麒麟が生まれてくるかもしれない、というお話をしていたの」
「え、麒麟が!?」
塙麒の顔がパッと明るく輝いた。
「でも、塙麒はもう王様を選んだ後かも知れません」
「なあんだ」
軽くそう言って見たものの、塙麒は貂鞠の目にもうっすらと涙が浮かんでいるのを見逃さなかった。

麒麟が生まれてくると言うのは、そんなに悲しい事なのだろうか?



「妖魔だ!」
竜潭はいつもの癖で空を見上げていた。そうして見つけた。慶ではいるはずのない妖魔の黒い点を。
「妖魔だ!!妖魔が来る!」
竜潭はもう一度大きな声で叫ぶと、腰につけた小さな短剣を引き抜いた。ここは今までの故郷と違う、そう思って長い剣も弓矢も置いて来た。こんな小さな短剣では、たいして役に立たないだろうと思うが、ないよりはましだった。

今までも何度も妖魔と闘った。何度かは剣を弾かれ短剣で立ち向かった事もある。だが、今回一番大きな違いは据瞬がいない事…。竜潭の心にどこか気弱な考えが浮かんだ。据瞬がいない。今までそんな事は一度もなかった。彼がいればどんな恐ろしい妖魔にも必ず勝てる気がしていた。しかしこれからは自分1人でやらねばならないのだ。果たして妖魔相手に1人で闘えるのだろうか?

大人達が慌てて駆けつけた時、すでにそれは目前に迫って来ていた。白鞏(はくきょう)という鳥だ。その姿は鷹に似ている。そして鋭いくちばしですでに竜潭を狙っている。

「こんな昼日中に!」
すでに竜潭に向かって急降下を開始している白鞏になす術もなく大人達は叫び声をあげた。巧と違い慶の人々は妖魔に慣れていないのだ。
「竜潭!!」
母の絶叫が竜潭の背後から聞こえた。

竜潭は身体を低くし、相手の目を睨み付けた。黄金色のその瞳には何か狂気じみた光が宿っている。白鞏の弱点は確かこの目だ。目さえ封じれば…。相手の気が逸れたその瞬間を狙おう、と白鞏の隙を伺う。

「どこにも隙がない…」
竜潭は絶望的に白鞏を見た。この巨大な鳥は、少しも気をそぐ事無しに竜潭に向けて、挑戦的な咆哮を繰り返している。

「加勢するぜ!」
その時、竜潭の斜め後方からそんな大声が聞こえて、何かが白鞏に投げ付けられた。火矢だ。明々と燃えている炎を乗せた大型の弓が1本、白鞏に向けて放たれた。

白鞏は咆哮した。完全に怒ってしまった。だがこの隙に暴れる白鞏めがけて竜潭は斬り込んだ。と、同時に右の脇に人影が躍り出た。その人影もまた白鞏に向けて突進し、竜潭共々妖魔に刃物を振りかざした。あたりから悲鳴ともざわめきともつかない言葉が沸き上がったが、無我夢中の竜潭には人々が何を言っているのかよくわからなかった、が、取りあえず誰かが自分の味方についてくれている事だけはわかった。

妖魔の大絶叫が聞こえ、やがて静かになった。

荒い息が二つ、しばらく人々の歓声に混じって聞こえていた。やっと落ち着きを取り戻して、竜潭が顔をあげた時、白い服と灰色の髪を赤い血で染めた同じ年頃の少年が、やはりこちらを見ていた。
「見かけない顔だな」
竜潭が何か声をかけようとする前に、その少年はそう言った。
「今日からこのお屋敷に世話になる孟竜潭というんだ。」
同じ小作人だろうか?そう思いつつ、軽く名前を名乗ってみた。
「ああ、君か。明日から僕と一緒に少学に通う子は。僕は孔雪笠(こうせつりゅう)だ」
雪笠は白い歯をこぼれさせて屈託のない笑顔で竜潭を見た。

竜潭はあわてて膝をつき、難民である自分を受け入れてくれた主人に対して礼をしようとした。
「よせ。礼には及ばない。僕は僕に膝をつく家臣が欲しいのではない。礼を言うのは僕の方だ。僕達を守ってくれてありがとう」
礼儀正しく雪笠は竜潭に礼を言った。

巨大な妖魔と闘った直後にしては妙に堂々としているな。と二人とも同時に思った。そしてお互いの血に染まった顔を見つめて、わはは、っと笑った。


「ねえ、貂鞠。何で皆泣いているの?」
塙麒は自分の手を引いてお庭に出た貂鞠を哀しそうな顔で覗き込んだ。
「慶の国の麒麟が病気だからです。」
「病気なの!?」
驚いた様に目を丸くする。
「はい。麒麟は王様がよい王様だと元気でいられますが、悪い王様だと病気になってしまうのですよ」
塙麒の顔がこわばる。
「病気って!?」
哀しそうに貂鞠は首を振る。
「私は麒麟ではないから詳しい事はわからないけれど。塙麒はよい王様を選んで下さいましね」
「うん…」
塙麒は思った。王を選ばなければ女仙達を泣かせる事はないのかしら?王を選ぶ事は皆を悲しませる事なのではないかしら?