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凄まじい叫び声が聞こえた。人のものとも妖魔のものとも判別はつかなかった。竜潭は里木の下から外を覗き込んだ。据瞬が剣を肥蝟の喉元を貫いた姿が見えた。
「ああ!」
竜潭は叫んだ。遥か彼方天空に小さな点を認めたからだ。それはみるみる大きくなり、また別の妖魔であるのがわかった。だが知らせようにも据瞬の剣は倒れこんで絶命した肥蝟にしっかりと刺さり、据瞬はそれを引き抜こうと躍起になっていた。あの男が押せども引けどもびくともしないのだ。他の男達は自分達の目の前にいるもう一頭の肥蝟を食い止める事で手一杯で、とても助けが呼べる状態ではない。
「据瞬さん、これを!次のが来てる!」
竜潭は腰につけた鉈(なた)を据瞬の足下に届く様に里木の下から滑らせる様に投げた。
え、という驚きとも絶望ともつかない短い返事の後、据瞬が新たにやってきた妖魔に気がついた時には、もうそれは目の前に迫って来ていた。馬腹(ばふく)と呼ばれる虎に似た生き物。据瞬は肥蝟に刺さった剣の柄からゆっくりと手を離した。何かを悟ったような表情で静かに立ち上がる。今竜潭が投げた鉈までも少し距離がある。取りに行っている余裕はないだろう。その全身から立ち上るなにか光のような気配を、竜潭は鳥肌の立つ思いで感じていた。丸腰のこの男はまるで突き刺すかのような視線でその妖魔を見つめた。
じり…、っと据瞬が一歩前に出た。
「あ!とうちゃん!」
殉角がいきなり里木の下を飛び出した。
「あ、ばか!よせ殉角っ」
後を追う様に仲間達の声が飛ぶ。見ればもう一頭の肥蝟に果敢に鍬を向かって突進した殉角の父親が弾き飛ばされたようだ。それを見たまだ幼い殉角が飛び出したのも無理ない事だった。
「いかん!」
据瞬が叫び、と、同時に馬腹から気がそれた。その瞬間馬腹は据瞬に向かって襲いかかった。鋭い爪が据瞬の背中を捕らえようとして一瞬間に合わず、空を掻いた。ぐるる、と低いうなり声がし、さらに馬腹は据瞬に向かって飛びかかる。
そのとき竜潭は見た。絶対逃げ場などない、と思っていた据瞬が瞬時に屈みこみ地面を転げた。目標が急にいなくなった馬腹は誤って目の前に迫っていた肥蝟の首元に鋭い牙を突き立てた。
再び肥蝟の絶叫が聞こえ、あたりは肥蝟の首から吹き出した血の海になった。赤ん坊が泣き叫ぶ声も響く。これは馬腹の鳴き声だ。馬腹は人の子どもとそっくりな声を出して人間をたぶらかす。だから怒り狂った肥蝟が逆襲し馬腹の喉元に一撃を加えた時にも、赤ん坊が火のついた様に泣き叫ぶ声を張り上げた。2頭の闘いはなおも続いた。お互いから吹き出す血に毛皮をぐっしょりと赤く染めながらくんずほぐれつ渡り合う。その間に据瞬は先ほど竜潭が投げた鉈を拾い、そっと2頭に忍び寄った。そのまま、気合いとともに2頭の頭や首元に向けて何度か鉈を振りかざし、振り下ろした。
2頭の妖魔は完全に息絶えた。
それを確認した据瞬は殉角に駆け寄り、気を失って伸びている父親を助け起こした。
「ぼうず怪我はないか?」
「…うん」
自分のした事と目の前の光景がどうしても結びつかないのか、殉角は呆然とした顔で据瞬を見ていた。
「それはよかった。さ、父ちゃんをささえてやれ」
そう言って立ち上がって振り向いた据瞬と竜潭は目が合った。
「ありがとう」
にこり、と据瞬が竜潭に微笑んだ。今恐ろしい相手と命をかけて渡り合っていた男とは思えないほどの静かで優しい笑みだ。
「君のお陰で助かったよ」
「いいえ」
竜潭は自分が鉈など投げなくても、きっと彼はあの2頭を仕留めていただろう事を確信していた。だから、こうして優しげに礼を言われると気恥ずかしいし、こそばゆい。
近寄って来た据瞬は鉈にべっとりとついた血のりを自分の上着で綺麗に拭い、竜潭に柄を差し出した。
「君の機転と勇気に乾杯だ」
据瞬は首から下げていたお守りのようなものを、するりと外すと竜潭の首にかけた。
きょとん、という表情で見つめる竜潭に据瞬は笑って言った。
「たいしたもんじゃないが、その昔塙王から賜ったものだ。俺と同じ色の瞳が気に入った。君にやろう」
竜潭はそのまま呆然と据瞬を見つめていた。彼はくるりと向きを変えると殉角の父親を運ぶべく屈みこんだ。
塙麒は孵った。海の様に深い蒼い鬣を見た時、女仙達は思わず歓声をあげた。滅多に見かけない青麒麟だったのだ。
「ほんに、今回の麒麟はいろいろ楽しませてくりゃる」
無事に生まれれば何の問題もないのだが、珍しい花の件といい、今回の青麒麟の件といいなんだか珍しい事ばかり続いて、特別めでたい気持ちになる。
女仙達のざわめきを他所に塙麒はあたりを物珍しそうに見回して、何か面白いものを見つけると観察に行き、阿伽句をハラハラさせている。生まれたばかりとは言え麒麟の足取りは軽やかだ。蒼い麒麟が木漏れ日の中で跳ねると、まるでそこだけさざ波が立っている湖の様で、清清しい気持ちになる。
「さあ、塙麒。今日は何をして遊びましょう?」
誰が塙麒の気に入る遊びができるか女仙達は密かに競っている。塙麒がなついてくれれば嬉しいし、なによりも麒麟が楽しそうにしているのを見るのが嬉しくて仕方がない。
「ほら皆さま、塙麒はそろそろおねむの時間です」
疲れ過ぎてしまわぬよう、貂鞠は女仙達から塙麒を守らねばならない。小さな麒麟は1日の大半を眠って過ごすものなのだ。
「おお、恐い。塙麒のことになると貂鞠は人が変わる」
茶化す様に女仙達が笑う。それに笑い返して
「当然です」
と少し恐い顔をしてみせたりもする。だが貂鞠とて他人の事は笑えない。本当は塙麒と遊びたくて仕方ない。それをぐっとこらえているのだ。
「こちらへ、塙麒」
臥牀(ねどこ)に案内する貂鞠の後ろを小さな蒼い麒麟が追い掛ける。それはあまりに愛らしく微笑ましい光景だ。
「早く大きくなって天啓のある王様を選べる様になればいいけれど…」
別れを意味するその言葉は女仙達の本心であって本心でない。だが、遠く蓬山まで聞こえてくる巧の噂は日々悪くなるばかりだ。国境付近の住民はみな田畑を投げ打って、隣国に脱出していると聞く。白雉が生まれ、民は微かに希望を見いだしたというが、王を選び、一声をあげるにはまだ少し時間がかかる。ほどなく臥牀に入ってすやすやと寝息をたて始めた塙麒を優しく撫でて、貂鞠は部屋を後にした。
「いやだ!俺は五曽に残る!」
5年が過ぎていた。栄養不足で多少ひょろひょろしてはいるが、15歳を迎えた竜潭は大きく育っていた。今では里木の前で見張りに立つ側ではなく、数少ない子供が見つけた妖魔を退治するために剣を振るう側に立っている。剣の使い方は据瞬から教わった。いや、据瞬からはそれだけではなく国の仕組みや国の仕事を習う事が多かった。何の役に立つかはわからないが、色々な事を知っている据瞬から様々な話を聞くのが楽しかったのだ。
仕事の話ばかりではない。人としてなすべき事、人としてしてはならぬ事。据瞬から聞く話はたちどころに竜潭の中にしみ込む様に入っていく。彼に憧れる竜潭は据瞬から話がきけるだけで嬉しくて仕方ないのだ。話が終わると決まって彼は据瞬に熱心に幾つかの質問をした。鋭い、その底なし沼のような思考の深さに高級官吏と共に王を支えて来た据瞬すら舌を巻くほどだ。その熱心さは自分への憧憬からきているものだ、とわかってはいるが、時々恐ろしさを感じる事すらある。きちんとした教育を受けさせてやりたい、そう彼の両親に相談を持ちかけたのは据瞬の方だった。
幸い五曽は慶との国境に程近い。水路で行くのもいいし、高岫山(こうしゅうざん)を越えていってもいい。
「今は妖魔が出るから山沿いはやめた方がいい」
据瞬は真摯な目つきで竜潭の両親を説得した。
「慶までは私がついていきましょう」
「しかしそのためのお金が…」
母親はそういいかけて、実りの季節だというのに何も実らず枯れ果てた己が畑を見つめた。
その時父が決断した。
「行かせてやろうじゃないか。いや、我々も行こう。慶へ」
「あなた!」
「新しい王が立つまでこの国はまだまだ荒れる。あの畑はもう王が立つまで実らんだろう」
「捨てるのですか、畑を!?」
「そうだ。廬も人がすっかり減った。8家の仲間の内、残っているのはもう3家しかない。我々も慶に渡り小作人として働こうじゃないか。我々はどちらでもいい。だがあれは若い。頭も悪くはない。慶に天命のある王がいるなら、あれの活躍する場だってあるはずだ」
「あなた…」
父は静かに笑った。
「少なくとも慶に行けば、あれの力で己の道を切り開く事もできるだろう。ここにいてはそれもままならん。」
父は母を慈しむ様に見つめる。
「里木に5年前からなっているあの珍しい白い卵果を見ただろう?最初の頃は成長していたが、やがて堅いまま少しも大きくならずに成長が止まってしまった。ここはもう子供すら育つ見込みの無い土地だ。そんなところで若い魂を散らす事はない」
竜潭が五曽に残ると言ったのは、両親に負担をかけまいと思ったからだ。そして故郷を捨て難民になる事への抵抗もあった。この5年間、仲間達は1人、また1人と巧を捨てて近隣の国へ出ていった。王が立ったら戻ってくるから、と言い残して。だが、竜潭は思った。その間誰が故国を守るというのだ?皆出ていってしまったらこの国を妖魔に明け渡さねばならないのだ。
ならば自分が守ろう、そう決意した。その決意を翻したくない。それは据瞬からの教えを守る事だ、とも思った。人としてなすべき事、人としてしてはならぬ事。
「慶に行かないか?竜潭」
据瞬の口から直接その言葉を聞いたとき、竜潭は動揺を隠せなかった。
「何故です、お師匠様!」
竜潭はわざと据瞬が嫌がる呼び方をした。
「師匠だからこそ君に言うのだ。慶に行こう、竜潭。そして強くなってこの地に帰ってくるのだ。長い目で見ればここで地方の村の警備をするより国を守る事に近い」
5年前あんなに大きく若々しかった据瞬の面影は余り残っているとは言えなかった。彼は仙籍を返還し確実に5年分年齢を重ねていた。食糧が少なくあんなに見事だった筋肉も削げ落ちた。だが瞳だけは昔のまま、澄んだ海の底の様に聡明に輝いていた。
「慶に行って何があるとおっしゃるのです?」
竜潭は聞いた。行く事が国を守る事になる、という言葉が気に入った。
「何でもあるぞ、竜潭。何をものにするかは君次第だ。よい事を学ぶもよし、よろしからぬ事を学ぶもよし。学んでここに帰ってくるのだ、竜潭」
「はい…」
竜潭はまるで師匠の魔術にでもかかったかの様に返事を返していた。
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