ー13ー
「お願いです、主上、逃げて下さい!」
塙麒は走り寄る様に竜潭の前に躍り出た。そして3頭の指令は塙麒と竜潭を守るべく、その前に出て来る。
龍は透き通る目で竜潭を見つめる。鼻からはぷすぷすと湯気が出ており、何かに興奮している様子が伺える。
竜潭も龍の目を見つめた。しばらく睨みあいが続く。その様子を麒麟は最後の気力を振り絞って眺めていた。
「塙麒…。折伏を」
遨粤(ごうえつ)が囁いた。
「えっ!?」
驚いて麒麟は遨粤の顔を見つめる。椒図を折伏する?ありえない。
「椒図はおそらく主上の力に惹かれてやって来たようです。麒麟の指令としてこの王に仕えたいのではないかと…。この方にはそんな気配があるのかも知れません」
塙麒は目の前で仁王立ちになっている竜潭を見た。ほんの数時間の間にこの人は全く変わってしまったようだ。彼は何も恐れていない様に見えた。その証拠に身体のどこにも無理な力がかかっていない。彼はこの大いなる生き物に、まるで自分を試しているかの様に身体をさらしている。
王になる事をあんなに恐れていたのに…。今この男にはそんな迷いは何も感じられなかった。巨大な聖なる生き物を前にして、頭を上げ、まるで天すらも試すかの様に龍を、天を睨んでいる。
できるかも知れない、と塙麒は思った。今自分はこの血の匂いにやられて、気力が相当鈍っている。まっすぐ立っている事もやっとなほど。だから妖魔をからめ取るのは大変危険な状態だ。だが、自ら指令になりたがっているものならば折伏できるかも知れない。
それに…。と塙麒は思った。この状態を抜け出すには、あの椒図を倒すか味方に引き入れるしかない様に思った。倒す?椒図を?死などありえない生き物だ。これは不死の生き物だと言ったら誰も疑わないだろう。
やってみようか?
塙麒はまだ気がついていなかったが、竜潭だけではなく自分も何も恐くなくなっていた。王を選ぶ事があんなに恐かったのに…。いざ選んでしまったら、もう恐れるものは何もなくなった。
青麒麟は時間が止まった様に睨み合っている竜潭と椒図の間にするすると足音をたてずに入り込んだ。そして静かに目をあわせる。
強い波動が塙麒の目を襲った。龍の視線は自分を自身の中に取り込もうとしているかの様に粘り着いて来る。その気配に飲み込まれそうになりながらも、毅然と視線を跳ね返す。そしてそれを体現する様に言葉を発する。
「君ハ、僕達ノ仲間ダ」
塙麒は巨体の上の方にくっついている龍の頭の特に目の辺りに向けて念じた。
「君ノ力ヲ、僕達ニ貸ス気ハナイカ?トモニ巧ノ、新シイ王ニ仕エヨウデハナイカ!」
龍が身じろぎした。そしておとなしく塙麒に向き直る。
「臨兵闘者皆陳烈前行」
龍の動きが止まった。叩歯。
「指令に下れ…」
竜潭の力がふうっと抜けた。気張っているつもりはなかったが、肩に少しばかりの力が入ったのは目の前で麒麟が折伏し始めたからだろう。龍の気が自分から逸れるのがわかった。麒麟に任せていいものか、と首を傾げたが、それを龍が望んでいる様に見えた。
小さな蜥蜴(とかげ)に手を差し伸べた麒麟に気がついて、竜潭はゆっくりと麒麟の方を振り向いた。いつの間にか巨大な龍の姿が消え代わりに小さな蜥蜴が現れた。
「主上、この蜥蜴、いえ椒図は浬守(りしゅ)というんですって」
もはや小声を発するのだけでやっとなのだろうか?塙麒が囁く様にそう言うと、ふらっとバランスを崩した。
「塙麒!」
駆けつけたものの側に寄る事が出来ずに控えていた阿伽句が、飛び出して来て麒麟を支えた。くず折れる様にその腕の中に麒麟は倒れこんだ。
「取りあえず慶に帰ろう、塙麒。そして蓬山に行こう」
竜潭は心配そうに麒麟を見遣る。そして麒麟の脇に膝をついた。
「ありがとう、塙麒」
「慌てる事はありません、主上」
そのとき、据瞬が竜潭の前に歩み出て、叩頭礼をした。
「お師匠様!」
かなりうろたえて竜潭が据瞬を何とか立たせようと手を差し伸べた。
「いいえ、なりません、主上。もう私を師匠などとお呼びになっては!」
王師、州師、州侯は皆その場に叩頭礼をし、竜潭を仰ぎ見た。竜潭は慣れない事に戸惑いながら、王になると言う事がどう言う事なのか、目の前に突き付けられた気持ちがした。
自分は王なのだ。王とは、何故他人に頭を下げられ、かしずかれるのか。偉いからではない。それに見合う事をせよと皆から期待されているからだ。少なくとも自分は雪笠に叩頭している時はそう思っていた。手は貸すが君がよい国にするのだ、と無言で訴えていた。ひしひしと責任が肩の上にのしかかる気持ちがした。
「どうか、お急ぎになりません様に。ここまで待つ事ができたのです。後少し待つ事に何の不自由がありましょう?蓬山公のご気分が治るくらいの時間を待つ事など、なんでもありません。翠篁宮(すいこうきゅう)でお待ちしています」
据瞬が竜潭の瞳を力強く見つめながら言った。青い炎の様に燃える眼差しを見て、初めて会った時の彼を思い出していた。彼がいてくれればどんな妖魔も恐くないと思ったあの時…。
恐くない、と竜潭は再び思った。自分は1人ではない。皆でこの国を作るのだ。皆で皆の力を生かして…。
「主上は早く蓬山公をお連れになって慶にお戻りを。ここはかなり血の匂いがいたしますから」
「しかし…。」
血の海の辺りを見回して竜潭が何かを言おうとした時、州侯の栄鶴が口を静かに開いた。
「主上、ここは淳州の者に任せてお戻りください。貴方の為さるべき事はここで妖魔の屍を片付ける事ではないはずです」
慶に戻った竜潭を、雪笠自らが宮殿の門の外まで迎えに出た。そのとき竜潭は何も言わなかったが、雪笠も何も言わなかった。内宮に入った辺りで雪笠がおもむろに言った。
「新しい大司徒だが、早急に決めねばなるまいな?」
「うん…」
竜潭がすまなそうに青い目を向けた。
「いつ発つ?」
「塙麒が元気になったら」
雪笠は一つ頷いてから竜潭の服を見つめた。
「まずお前のその血まみれの服を早く何とかせねばな。怯えてうちの景台輔もどこかに隠れてしまった様だ」
ああ、そうか、と改めて竜潭は自分の服を見た。先ほど助けた子供の礼にもらった服だ。妖魔の返り血で赤く染まっている。慶に着いたら遣いの者をやって返すつもりでいたのに、これでは返せないな、と竜潭は思った。
「とりあえず」
と雪笠は言った。そして無言で右手で拳を握り、顔の前に構えた。竜潭も右手の拳を握り、雪笠のその腕に自分の腕をクロスさせた。それ以上言葉はいらなかった。
一緒に迎えに出ていた景台輔は遠くから漂って来る恐ろしい気配と血の匂いを感じ、先に王宮に戻っていた。そしてぐったりとした獣型の塙麒を見て思わず息を飲んだ。
「塙麒!どうしたの!?」
「見つけた、よ。景麒…。僕も僕の主上を」
熱が出ているのかうつろな視線を景麒に向けながら、塙麒は微かに微笑んだ。
「黙って、塙麒…」
阿伽句が心配そうに口を挟む。
「うふふ…、大丈夫…。僕はもう1人じゃないんだ」
「塙麒…」
阿伽句も景麒も痛い所を抉られたような気持ちで穏やかに微笑んでいる青い麒麟を見た。
「君は今までだって1人じゃなかっただろ?」
景麒は困った様に言った。
「うん、そうだったね。でも皆僕が王を選んで喜んでくれるだろうか?」
「喜ぶに決まってるじゃないか!」
「うん…。貂鞠(てんきゅう)を悲しませない様にしなくちゃ」
「どういうこと?」
景麒は訳がわからずに首を傾げた。
阿伽句は悲しそうに麒麟を見ていた。気がついていた。王を選んだ時、この麒麟はきっと今までの塙麒とは違う麒麟になるのではないか、と。生まれたばかりの頃の彼は無邪気で好奇心が旺盛で、やんちゃな麒麟だった。だが、物心がついて慶の麒麟が失道したと聞き、人が変わったかの様におとなしい麒麟になった。その後からだ。王を選ぶのを異常に怖がった。最初は失道が恐いから王を選ばないのかと思っていた。
前の景麟の死を悼んで女仙達が悲しんだのが原因だったのだ。
「でももう大丈夫。僕には王がいるんだ。僕がずっと探していた王が」
塙麒は口を噤んだ。
「ゆっくり休んだ方がいいよ。今部屋の準備をするから」
血で汚れた指令も遠ざけて、景麒は自分の宮に塙麒を連れていった。一週間ほど寝込んだ後、塙麒は竜潭を連れて蓬山に戻っていった。
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