ー12ー

竜潭は目の前の不思議で素晴らしい光景を、目を見開いてみていた。塙麒の姿が溶ける様に消えた。そして何か光り輝くものが再構築される様に、形作られるものがあった。はらり、と服が地面に落ちる。一瞬の後、目の前には見事な青く輝く麒麟がいた。

「主上、僕に乗って下さい」
麒麟が竜潭に言う。銀色に光る角が毅然と竜潭に向けられる。口を一文字に結んだ竜潭はひらり、と青い麒麟に跨がった。

こんなに軽やかに空を駆ける生き物があろうとは…。竜潭はふんわりと舞い上がる麒麟を驚きを持って見つめた。


「据瞬、お前の一存で王師を動かして、本当に大丈夫なんだろうな」
将軍の梓尾(しび)が念を押す。
「大丈夫だ。すぐに州侯に使いを出したものが州師の援軍を連れて来てくれる。それまで我々で凌ぐのだ」
それでも皆の意気は上がらない。キリのない妖魔との闘いに疲れ果てている。

「あれは!?」
兵の1人が驚嘆した叫び声をあげた。皆が彼の指さす方を見遣る。

そこには青く輝いている優美な獣と、それに騎乗する獣に相応しい堂々とした体躯の男が近づいて来るのが見えた。その男の髪は日の光を浴びて獣の毛並みに負けないほどの青い輝きを放っている。

「麒麟だ!」
「青麒だ!」
「なぜ麒麟がここに!?」

麒麟は素晴らしい早さで王師に近づくと、空中で一度立ち止まった。
「我が名は塙麒」
王師の全ての人間に聞こえるほどの声で塙麒が名乗りをあげた。ざわめいていた兵士達は水を打った様に静かになった。噂では聞いていた。なかなか王を選ばない自国の麒麟は、類い稀な青い麒麟なのだと。この中には何人か昇山して、その姿を直接見たものもいる。
「間違いない!巧の麒麟だ!」
昇山したものから声が上がる。

麒麟はゆっくりと地面に降り立った。そして促され竜潭も地面に降りる。皆は麒麟とこの男の一挙手一投足を見守った。
「たった今、この国には王が立ちました」
麒麟はこういうと、青い髪をなびかせているこの男の足の甲にゆっくりと額を付けた。

辺りはどよめきとも歓声ともつかない波が広がった。

「妖魔を倒しに行こう!」
据瞬が叫んだ。
「行こう!」
辺りから強い声が響き渡った。
「行こう!」
「俺も行くぞ!」
地響きかと思われるほどの声がそこかしこから上がる。その中には殉角の姿も見えた。

「塙麒、君の遨粤(ごうえつ)を貸してくれ。そして君はその女怪とともにあの里木の下に!」
「でも…」
「それが麒麟の役目だろう。血の臭気に巻かれるようなら、先に慶に戻られるがよかろう。阿伽句、頼んだぞ」
塙麒は何かを言おうとしたが、さらう様に阿伽句が塙麒を抱え上げた。
「かしこまりました」
塙麒に代わって阿伽句が答えた。
「お待ちください、それならもっと指令をお連れください!」
塙麒は阿伽句を振払った。そして大きな声で指令を呼び出す。
「些斑(さはん)、縞瑠(こうる)」
敝敝(へいへい)という翼のはえた狐のような獣と壟姪(りょうてつ)という9つの狐の首を持つ獣が現れた。
「それは貴方の為に残されるがよかろう。遨粤を貸していただければ充分だ」
「いいえ。どうかお連れください。僕の代わりに」

竜潭は微かに微笑んで頷いた。そしてそっと肩に大きな手を置いた。
「では遠慮なく借りていくとしよう。塙麒も気を付けて」
「はい!」
竜潭は大きな牛のような遨粤に飛び乗った。そして王師の先頭に立つ。更にその両脇を固める様に些斑と縞瑠がぴったりと寄り添う。
「前進!」
据瞬が大きな声を張り上げた。
「おうっ」
勢いのある声が響き渡る。王師の一群は先ほどの化蛇の屍骸に群がる妖魔に向けて突進した。

間もなく州師も到着した。淳州の州侯、栄鶴(えいかく)自らが率いている。この勇猛果敢な州侯は長年の妖魔との闘いの途中で州司馬を失ってから、自ら先陣を切って州師を率いて来た。そして彼は王師の先頭を行く遨粤に跨がる男を見て、何か問いかける様に据瞬を見た。

据瞬は力強く頷いた。
「我々はついに主上を得た」


塙麒は阿伽句に半ば強制的に慶の国境付近まで退去させられていた。しかし心は竜潭の側から離れない。心配で心配でたまらないのだ。
「塙麒!」
阿伽句が鋭い叫びのような声で塙麒を呼んだ。塙麒は呼ばれるままに振り向いて、我が目を疑った。

遠くの方に妖魔の影が見えた。だが、遥か彼方遠くだと言うのにその影の大きさと言ったら!そしてそれは尋常でない早さでまっすぐ巧に向かって進んでいた。天駆ける帝王とでも言うものだろうか?

「あれは何!?」
塙麒は上ずった声で誰とも無しに問いかけた。
「あれは椒図(しょうず)!」
半ば絶望的な響きにも聞こえるような声で阿伽句が答えた。逃げ切れるか?いや、その可能性はほとんどないだろう…。椒図は天の生き物とされる龍だとも言われている。その凶暴さは饕餮(とうてつ)には及ぶべくもないが、測り知れない大いなる力の持ち主だと言い伝えられている。

「塙麒!!だめ!だめ!!塙麒っ!!」
阿伽句が悲痛な叫び声を張り上げた。愛する麒麟が阿伽句の手を振りほどいて、走り始めたからだ。全力で走る麒麟に追いつけるものはいない。阿伽句は力の限り塙麒を追いかけたが、その距離は広がるばかりだ。だが、麒麟の足を持ってしてもなかなか椒図には追いつけない。その巨大な生き物を追いかけやっと追い付いた時には、五曽の里までもう目と鼻の先に迫った所であった。

椒図は脇目も振らずに妖魔の屍に突進していく。いったい何をしようと言うのだろう?

塙麒は椒図の前に回りこんだ。だが、椒図は塙麒には見向きもしない。辺りに立ち篭めて来た血の臭気に目眩がし始める。だが、そんな事を気にしている場合ではない。やっと見つけた主上に向かって、この巨大な生き物は突き進んでいるのだ。

ついに塙麒の目にも王師と州師の集団が見え、その中央に遨粤に跨がり雄々しく指揮している竜潭の姿を見つけた。あんなに沢山いた妖魔はほとんど倒され、そこかしこに妖魔の屍体が転がる。ほとんどは大きな妖魔ではあったが、不運にも倒れた兵士たちも混ざっている。辺りは血の海だった。川は赤い水が流れ、辺りから途切れ途切れのうめき声が聞こえる。

その光景を見て、もはや塙麒の意識は途切れそうなほどであった。気力を振り絞ってなんとか体勢を整え先を越された椒図を追う。椒図は真直ぐ竜潭を見据えているかのようだった。兵士達から叫び声が上がった。今倒した妖魔とは比べる事もできないほどの、なんという大きさ!

椒図は竜潭に向けて大きく口を開いた。威嚇とも咆哮ともつかないその様子を見て、ほとんどの兵士は腰が引けて、後ずさりした。その中にあって州侯と据瞬はやっと得た王を守ろうと一歩前に踏み出そうとした。だが、一声高く咆哮し、龍に睨まれたとたん、身動きが出来なくなった。何か糊のようなもので固められた様に身体がこわばって、声すら出ない。据瞬は口惜しそうに呻いた。

竜潭はその巨大な龍を半ばうっとりと見つめていた。瞳は虹の様に色々な色に輝き、咆哮する口からは炎がほとばしる。その口から覗く牙は真珠とも思われるような輝きを放ち、全身を覆う鱗は七宝を思わせる。

竦む兵士達の間を縫って、竜潭はこの椒図の前にゆっくりと歩み出た。王師の先頭に立った時から腹は括っている。竜潭は気がついていた。この巨大な生き物は真直ぐに自分の方を見据えている。他の誰でもないこの自分に用があるのだ。

椒図のすぐ後ろに青い麒麟が見えた。血の臭気にまかれ、ふらふらとした足取りをしている。だが、麒麟は自分の方を心配そうに見守ってくれていた。
「主上!逃げて!逃げて下さい!」
塙麒が最後の力を振り絞るような声で叫ぶ。

不思議だ、と竜潭は思った。ちっとも恐くない。竜潭は椒図のすぐ前まで出て来た。