ー11ー
「それにしても、かわいい子でしたね」
くすくす、と護衛の兵士が笑う。
「え?そうだったっけ?」
困ったような顔で竜潭は先ほどの少女の顔を思い浮かべようとしたが、余り思い出せなかった。綺麗な瑪瑙(めのう)のような髪の色をしていたような気がする。
「将来かなりの美人になりますよ、きっと」
「どうせ、俺は女には全然縁がないよ」
半ばぼやきのような言い方で竜潭は苦笑いを返した。
竜潭とて心に思う人がいなかった訳ではない。だが今まで縁も運もなかった気がする。雪笠と少学に通っていた時、初めて付き合った女の子がいた。赤い髪に紫の瞳、肌が真っ白で目がこぼれそうに大きかった。最初に声をかけて来たのは彼女の方だ。だが、ほんの数日で終わりを迎えた。
「ねえ、あなたのお友達、私に紹介して下さる?」
始めから雪笠が目当てだったのだ、とわかった時、竜潭は自分が情けなくて悲しくて、やり場のない怒りに身体を震わせたものだ。彼女はほんのわずか雪笠と付き合って、そして雪笠に振られたようだった。
それ以後何度も同じ思いを繰り返した。自分に近寄って来る女のほとんどが、無一文の自分に用があるのではなく、大きな土地を所有し、前途有望な雪笠に用があるのだ。自然と女嫌いになった。そして雪笠には一生この気持ちはわかるまい、と思った。
雪笠が登極し自分が大司徒になった後は、王である雪笠か、大司徒と言う地位と報酬が目当ての女達が寄って来る様になった。彼女達は適当に遊んでくれはしたが、明らかに何かの要求があるものばかりだった。ここまできて雪笠の気持ちが何となくわかる様になった。自分から流れていった女達は結局こう言う女だったのだろう。気がついていないけれど、かつての自分の役回りをしている部下の1人もいるかも知れなかった。
「でも、女性に縁がないのは、半分は大司徒御自身に寄る所も大きそうですよ?」
再び兵士は笑った。
「何故?」
竜潭は目を剥いた。
「大司徒は女性が余りお好きではないのですか」
「嫌いな男がこの世にいるものか?」
「ならなおの事、あんな大きな目で貴方様を穴が開くほど見つめていた、先ほどのかわいいお嬢さんに気がついてあげるべきでしたね。多分彼女、大司徒に惚れましたよ」
「バカ言え!小さな子供だったじゃないか」
二人は顔を見合わせて笑った。妙に清清しい気持ちがした。
騎獣を連れて里木の元に帰った竜潭は、その里木を見上げてふと思い出した。子供の頃この木に不思議な真っ白い実がなっていたっけ。今は小さな黄色い実が2つほどぽつんぽつん、とぶら下がっている。多分これは家畜だ。かろうじて残った廬の人が、家畜を願ったのだろう。あの白い実はどうしただろう?竜潭がこの国を出るきっかけになった、育つ事をやめた真珠の様に輝くあの小さな実。
おそらくもがれてしまったんだろう。そう、あれは確か愉燵(ゆたつ)様のところの実だった。愉燵様と言えば、この界隈どころか国でも有名な呉服問屋の…。
あ…。小さな驚きの声が口をついた。昔の事ですっかり忘れていたが、この近辺の大きな呉服問屋と言えばあの家に違いない。もしかして先ほどの少女はあの真珠のような実から孵った子供なのだろうか?それともあの実はもいでしまってまた新たに願った実なのだろうか?
いや、あの実であるはずがない、と思った。歳が違い過ぎる。あの実がなっていたのは20年くらい前の話だ。あの子はまだ10歳くらいだった。あの実は孵ったのかダメだったのか…。
そんなことを何となく考えながら、竜潭は待たせている据瞬と塙麒に近寄った。そしてその二人の眼差しが尋常ではない驚愕を浮かべているのを見て、その視線の先を追った。
すぐに竜潭と護衛の兵士も同じ表情に変わった。
竜潭に気がついて、すっかり怯え切った塙麒が縋り付いて来た。それをなだめる様に竜潭はそうっと大きな手で背中を撫でる。
「大丈夫です」
力強い一言だが、塙麒にはそれが気休めである事がわかっている。
空が黒い。それは夥しい妖魔の数だった。ざっと数えただけでも2、30匹は下らない。
「君が倒した化蛇の血の匂いを嗅ぎ付けたんだな」
据瞬は静かに言う。その声が静かであればあるほど、その空気は重苦しい。
「多すぎる…」
竜潭も半ば呆れた様にそう言った。
「里木の下に避難しましょう。到底闘って勝てる数ではありません」
しかし竜潭の意見に据瞬が首を横に振った。
「あれがここにやって来たら、この辺りは大変な事になる。我々だけ避難する訳には行かない」
「お師匠様!」
「君はこの慶のお客人を守らねばならない使命がある。お客人と里木の下で避難しているといい。だが、我々は妖魔からこの廬を守るためにここに配備されているのだ。我々が逃げる訳には行かない」
「しかし!」
竜潭は叫んだ。
「援軍は呼べないのですか!?」
「呼べない事はないが…。王師を繰り出すにも色々な手順が必要だ。時間がかかり過ぎる。もしここに主上がいて、主上の勅命であればすぐにでも王師を動かせるのだが…」
「王がいればいいのですか!?」
怯えて震えている塙麒が竜潭の服の裾のところから覗く様に据瞬を見た。
「王か麒麟がいて、勅命をお出しいただければすぐにでも大軍をここに呼ぶ事ができます」
「呼んで下さい」
塙麒の声色が変わった。怯えて震えていた声が毅然とした声に。
「公!」
「青龍?」
「かまいません。王はすぐにでもこの国に立つでしょう。王師をここに!」
「はい!」
据瞬はその場を走り去り、少し離れた所に待たせてあったスウ虞に跨がり飛び立った。
「私も参ります!」
護衛の兵士が言った。
「君は慶の兵士だ。ここで巧の為に闘う事はない」
竜潭が慌てて止めようとした。
「いいえ!私は巧の生まれです。お忘れですか?殉角です。私もこの五曽の生まれです」
「あ…!」
竜潭はまじまじと男を見つめた。彼は仙になるのが遅かったのだろう。竜潭よりかなり年上に見えた。すっかり逞しくなって見違えるほどだ。
「何故早くに言ってくれなかった?」
殉角は自嘲するように笑った。
「貴方様は大司徒、私はただの一兵卒ですから。できるなら知られたくなかった。でも、先ほどのお嬢さんが愉燵様のお嬢さんだと聞き、故郷が本当に懐かしくなったんです。そしてもうじき王が立つというのなら、私は今からでも巧の兵士となりましょう」
「私の錚(そう)に乗っていけ。馬よりその方がいい」
竜潭は殉角の気持ちが痛いほどわかる気がした。
「ありがとうございます」
殉角は錚に跨がると据瞬の消えた方に飛び立っていった。
「さあ、青龍は里木の下に!」
そう言って竜潭は青龍の手を引こうとした。だが子供はその場を動かなかった。
「青龍!?」
「貴方は見たでしょう?これでも貴方はこの国に王が必要だと思わないのですか?」
竜潭は首をかしげる。
「私は王が必要無いと言った覚えはありません。いや、一刻も早く王が立って欲しいと申し上げたと思います」
「なのに貴方は自信がないと昇山する気がないと言った」
「なにをおっしゃっているのか…」
「貴方が王だ」
竜潭はしばらくの沈黙の後、ふいに笑い出した。
「何を…」
口を開きかけた竜潭の言葉を塙麒が遮る。
「貴方が王だ。貴方はこの国を救う気があるか?貴方はよい王になる自信があるか?」
塙麒は必死に竜潭の表情を読み取ろうとしていた。王になりたがっていない王を選ぶ訳には行かない。
竜潭は目を閉じ、天を仰いだ。
「…ある。いや、よい王になってみせよう、青龍」
「僕の本当の名前は青龍ではありません。僕の名前は塙麒。この巧の国の麒麟です」
竜潭は据瞬が彼を「公」と呼んだ意味がわかった。王を選ぶ前の蓬山にいる麒麟の事を「蓬山公」と呼ぶのだ。青龍は麒麟。それも自国、巧の麒麟なのだ。そういえば思い当たる事は沢山あった。叩頭できないと言うのも、血の匂いに弱いと言うのも。
塙麒は竜潭の前に膝をついた。そして麒麟には出来ないはずの叩頭礼をする。深く深く頭を垂れた。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約します」
竜潭は大きく息を吸い、そして吐いた。
「許す」
塙麒は竜潭の足の甲に静かに額ずいた。
「阿伽句(あきゃく)!蒙燐(もうりん)!」
ふいに地面から沸き上がる様に女怪と遨粤(ごうえつ)が現れた。あまりに突然だったから一瞬竜潭は身構えた。だがすぐにそれが麒麟の指令である事に気がついた。指令達はやっと姿を現す事を塙麒に許してもらえて、逸る気持ちを押さえ切れずに飛び出して来た。
もう妖魔の大群はすぐそこまで来ていた。
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