ー10ー

蓮月は庠学からの帰り、いつもの道をいつもの様に歩いていた。人影はほとんど無いその道。この辺りはもはや無人に近いものがあった。蓮月の家は服を扱う大商人の父が一家を支えていたが、商いもままならず今までの備蓄でなんとか暮らしている。 かつて大勢賑わっていた使用人も、ほとんど国外に避難し、今ではほんの数名しかいない。

だから庠学からの帰り道に誰か供の者を付けることなど、不可能な状態だった。もっとも外で遊べるような状態でない今、明るいうちに家に着く。それに大抵は誰かと一緒に帰って来るので、今のところ恐ろしい目には遭った事が無かった。

今日蓮月は庠学で大変腹立たしい事があった。だから今日はたった1人で脇目も振らずに大股でずんずん歩いて来ている。

「まったくなんだっていうのよ!」
怒りがおさまりきらずに独り言まで出ている。
「今にみていらっしゃい!絶対あいつ達より先に大学まで行くんだから!」

蓮月の通っている庠学は、人数は少ないものの優秀な生徒が集まっている事で有名な学校だ。
「おい、蓮月。おまえ卵果の中で十年もいたんだってな!」
どこかから聞き付けて来た少年がいきなり皆に自慢げに言い出した。
「え〜〜〜、じゃあお前おれたちより年上なんだ〜〜〜」
「で、まだ庠学かよ」
「大学を出る頃にはおばあちゃんだぜえ!」
わははははは…。
少年達は綺麗な蓮月の気を引きたくて、そして綺麗な怒った顔を見たくてわざと意地悪をする。だがそんな事など知らない、いや知ろうとも思わない蓮月にとっては迷惑な話だ。実際優秀な蓮月は周りの少年達より一番歳が下だった。少年達がそれを妬んで意地悪をしていると思っていたのだ。

蓮月はまだ少年達の様に誰かに恋した事が無かった。


蓮月がちょうど五曽の村にある里木に程近い、打ち捨てられた民家の近くを通りかかった時ふいにバサバサ、という羽音が聞こえて、自分の周りが急に日陰になった。不審に思って空を見上げたとたん、蓮月は硬直した。

翼のある大きな蛇が、大きな口を開いてまさに急降下しようとしていたのだ。逃げなくちゃ、と頭ではわかっているが、足が震えて一歩も動けない。叫びたくても声もでない。

私、ここで死ぬの?

そう思った瞬間、気が遠くなった。そしてそのまま倒れそうになった時、突進して来た何かに吹っ飛ばされ、民家の影に引きずり込まれた。食べられる!と思い、目を閉じ、身体を更に堅くした。
「ああ、危なかった。ここでじっとしておいで」
目を開くと一瞬だけ青い色が飛び込んで来た。光が当たると青く光る不思議な髪の色だった。だが一瞬でその姿は視界から消えた。この男は身を翻して妖魔に闘いを挑みに行ったのだ。

震える身体を強引に動かして蓮月は民家の物陰から男の行方を目で追いかけた。その男は剣を抜き、蛇に猛然と斬り掛かっている所だった。蛇も黙ってはいない。大きな口を開き、のたうちながら男に巻き付かんと何度も攻撃を仕掛ける。だが男は身軽にこれをかわし、その度に蛇に一撃を浴びせていく。

蓮月は思わず両手を目の前に組み合わせた。神様、神様、どうかあの人が無事であります様に。

ほどなく男の剣が妖魔の口を貫いた。大きな蛇は痙攣すると、最後の一撃を加えんと男めがけて太いしっぽを振り下ろした。男はこれをかろうじてよけ、蛇はそのまま地響きをたててくず折れた。

「大丈夫か?怪我はない?」
くるり、と向き直った男は、蓮月の方に優しい笑みを向け近寄って来た。
「は…い…」
これだけ言うのが精一杯だった。蓮月は優しい青い瞳を見上げた。
「そうか、よかった。1人で出歩いちゃいけないよ。家は?」
「近く…」
「帰れるか?」
こくんと頷いた。男はにっこりと笑った。
「気を付けて帰るんだよ。そうだ、ちょっと待っておいで」
男はそう言い残すと蛇の向こうがわに走っていった。しばらくして1人の男を伴って戻って来た。明らかに軍人である事がわかるその男に、青い瞳の男は指示した。
「この子を送ってやってくれないか?この辺りで待っている」
「わかりました」

さあ、という声で蓮月は我に返った。じっと青い瞳を見つめていたのだ。目にしっかり焼きつけるために…。この気持ちはいったいなんだろう?頬が熱くて、胸が苦しい…。
「気を付けるんだよ。これからは1人で出歩いちゃいけないな」
こくんと頷くのが蓮月の精一杯だった。


「君、青龍、どうした!?」
竜潭は蓮月を見送るとそこにある里木の側に行き声をかけた。先ほど彼を里木の下に押し込めてから、蓮月の元に駆けつけたのだ。そして今、連れの少年の方が意識が朦朧としているのを見て駆け寄った。
「あ…。僕…」
塙麒の顔色が真っ青だ。怯え切っている瞳はうつろで、竜潭の顔を見ても震えが走り、後ずさりする。闘っている竜潭を見て気分が悪くなり倒れこんだ。そして妖魔の返り血を浴びた竜潭から漂って来る血の臭気で、さらに気分が悪くなっている。今までこんな経験をした事が無かった。
「僕、そう言うの、ダメなんです…」
「そういうの…?」
竜潭は彼が血まみれの服を指さしたのに気がついた。
「あ、ああ。すまん」
竜潭は塙麒から離れ、遠くの方から声をかけた。
「そこは安全だから、少し待っていてくれないか」

竜潭は生まれ育った村の事はよくわかっている。確かこの近くに井戸があるはず…。
「大司徒、行って参りました!」
その時護衛の男の声がした。振り向いてみると手に大きな荷物を持っている。
「あの娘、すぐそこにある大きな呉服問屋のお嬢さんでした。これをあなたに、と」
見れば見事な衣の一揃えが入っている。
「そんなのはいただけない。すぐに返して来い」
「ですが、どうしても、と言われました。もしお受け取りいただけなければ捨ててくれと」
困った顔の男を見て、竜潭は取りあえずそれを借り、後で返しに行く事にしようと思った。連れの少年はこの返り血を浴びた姿を異常に怖がったではないか。

井戸で水を浴び、竜潭はもらった衣を身に付けた。まるで王が着るかのような豪華な衣だ。
「こんな姿で帰れんな」
苦笑まじりに竜潭は己の姿を見回した。

竜潭が里木のところに帰ってみると、慶の兵士が数名何かを探しているふうにうろうろしていた。
「あ!竜潭じゃないか!」
そのうちの1人が酷く懐かしい声でそう言いながらやって来た。
「お師匠様!」
竜潭は嬉しそうに駆け寄る。
「どうされました、お師匠様」
「だからその呼び方はやめてくれって」
据瞬は笑いながらそう言うと、急に真面目な顔になった。
「この辺りに妖魔がでたという知らせがあって来たのだが、あの化蛇(けだ)を倒したのは君か?」
「はい」
「怪我は?」
「ありません」
「そうか。感謝する」
胸をなで下ろして据瞬は笑った。

「今日はどうした?巧には時々来るのか?」
「いえ。今日は特別です。慶の客人が巧を見たいとおっしゃったので。迎えに行って来ます、少しお待ちください」
竜潭は、里木の下に隠れている連れの少年を迎えに行った。
「御無事でよかった!」
塙麒は竜潭に飛びついた。もう竜潭からは血の匂いがしなかった。気分もだいぶ落ち着いてきて、これなら何とか歩けそうな気がする。


「公!」
竜潭に連れられてやって来た少年を見るなり、据瞬は思わず叫んでしまった。
「あれ、お師匠様のお知り合いでしたか」
「知り合いも何も…」
少し呆れた様に据瞬は竜潭を見た。だが必死に口を止めようとしている塙麒を見て、据瞬は笑ってみせた。
「ま、知り合い…と言えなくもないな」
とだけ答えておく事にした。

「さあ、帰りましょうか?」
竜潭は塙麒に声をかけた。
「夕方になると又先ほどのような妖魔が出やすくなります。それまでに慶に帰りましょう」
「はい」
「騎獣の用意をして来ます。お師匠様少しここで待っていて下さいませんか」
竜潭は里木の下に繋いでおいた獣の準備をするべく、供の兵士とともにその場を立ち去った。

「あの、据瞬さん」
竜潭を見送って姿が見えなくなったのを確認して塙麒がおずおずと聞く。
「竜潭さんのお知り合いなんですか?」
「はい、そうです」
塙麒が嬉しそうに笑った。
「まさか…?」
据瞬はその顔を見て塙麒の顔を覗き込む。
「はい。据瞬さんはどう思われますか?」
据瞬は破顔した。
「巧はよい国になると思います」
「そうですよね!」

「でも、なりたくないと言うんです」
困った様に塙麒は続ける。それに据瞬が答える。
「私の見た所、本当になりたくない訳ではないと思います」
「そうでしょうか?」
「そうですとも」

「なにがいけないのでしょうか?」
「長年積もり積もった彼の中のコンプレックスでしょう。この廬にいる時の彼はそんなでは無かった。長年国を捨てて外の国に避難していた事に対する罪悪感と、そこで染み付いた負の感情がそうさせているんだと思います」
「引き受けて下さるでしょうか?」
「おそらく」

麒麟は竜潭が帰って来るのを待った。そしてそっと打ち明けてみよう、と思った。