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「まあ、なんてきれいな…。でもこんな大事な時に…」
麒麟の世話を任された若い女仙の貂鞠(てんきゅう)は、捨身木の枝をうっとりと見つめた。ここ黄海の中央にある蓬山の捨身木はその枝に麒麟の実を実らせる唯一の木だ。そしていまその木に一つの麒麟の実が実っている。そんな大事な時に、と貂鞠が呟いたのはその大事な麒麟の実の脇に、まるで月下美人のような純白に輝く花がひとつ、気がついたら咲いていたからだ。
「昨日は確かに花なんて咲いてなかったのだけれど…」

今朝から麒麟の実を守る女怪が何やら不安そうに、天空に向けてのびる枝を見つめていた。
「塙麒…」
女怪はとぐろを巻く魚のひれを持つ尾をくねらせた。ぴん、と立った豹の耳に意識を集中させ、鷹の下半身でゆっくりと立ち上がった。身体の中央より下の方についている翼はぴったりと閉じられたままだ。
「塙麒…」
そう言葉をつぶやきながら人の姿である上半身の前で、人の形の両腕を胸の前で交差させる。よく見ると首にある蜥蜴の鱗が心無しか逆立っている。
「大丈夫よ、阿伽句(あきゃく)」
なだめる様にその羽毛に覆われた柔らかい背中を撫でてやりながらも、貂鞠も少し不安げにその枝を見つめた。よくよくみればその花は恐ろしいほどに美しい。美しいだけになにやら恐ろしい力を持っているのではないかと思い、不吉な予感さえする。

「ほう、珍しい。花が咲いたかえ」
ふいに声をかけられ、貂鞠は飛び上がらんばかりに驚いた。振り向けばそこに微笑む玄君玉葉が立っていた。
「玄君!」
あわてて貂鞠は平伏した。
「麒麟の実っている時に捨身木に花が咲くとは、縁起のよい事じゃ。巧はよい国になるじゃろうて」
不思議そうに首をかしげる貂鞠の様子を見て、独り言の様に玄君玉葉は続ける。
「捨身木に咲く花は国を大いに富ませると聞く。やがてこの花は巧の国に下り、再び里木に実ろう。そして王を助ける者となろう」
「まあ、そうでございましたか」
安心した様に貂鞠は花を見上げた。そう思ってみれば穢れのない真っ白な輝きが頼もしくも見え、もしかしたら特別な麒麟が生まれてくるのではないかと思うほどにこの花が素晴らしいものにも見える。

「もっとも王がこの花をどう扱うかで国を傾ける事もあるがの」
「え…」
驚いて振り向いた貂鞠はその場を後にする玄君の後ろ姿を見た。だが、年若い女仙である貂鞠にはその雲の上のようなお方である玄君を呼び止めるだけの度胸を持ち合わせていなかった。

玄君とは、蓬廬宮に集う女仙の長、天仙玉女碧霞玄君、玉葉と言う。

今ここ蓬山の蓬廬宮に住まう女仙達は皆沸き立っていた。彼女達は麒麟のために存在しているのだ。麒麟の実が実り、熟して麒麟が生まれた時その世話をするためにここに集っている。だが、麒麟はいつもいる訳ではない。いや、むしろいる時の方が稀なのだ。

12の国には12の麒麟がいる。麒麟は天啓を受け王を選び王に仕える。王が道を踏み外し天命を失うと麒麟は病みやがて死ぬ。死んだらまた新しい麒麟がここ蓬山に一つだけ実るのだ。そして今、蓬山の奇岩でできた迷路の奥の捨身木に巧の国の麒麟が実っている。

麒麟が実ると同時にその麒麟に付き従う女怪が捨身木の根に実る。彼女はそのすべてを麒麟に捧げて麒麟の事だけを考えて生きているのだ。今実っている麒麟の女怪の名前を阿伽句という。

「早く塙麒が孵って巧の国に王様が登極なさるといいのだけれど…」
巧の国はつい先頃麒麟を失い続いて王を失った。王を失えば国は荒れる。天候も荒れるし妖魔が跋扈する様になる。民は生活が苦しくなり耐えられなくなった民は難民として近隣の国に脱出するようになる。1日も早く麒麟が実り、麒麟が育ち、天命のある王を選んで国を安定させること、それこそが全ての巧の民の願いなのだ。

「これ、貂鞠。そなた1人で美しい花を愛でるとは、どういうことじゃ」
貂鞠は悪戯顔でいつのまにやら集う女仙達をあきれ顔で見つめた。
「私は塙麒の様子を見に来たのです。」
「どうだか。1人で花見としゃれこんだのであろ」
くすくす、と笑う沢山の女仙達につられ、貂鞠も笑った。皆麒麟がもうじき生まれるのが嬉しくて仕方ないのだ。なんだかんだと用事を作っては捨身木の近くに寄り、麒麟の実を確認しては帰っていく。だから塙麒担当の女仙であり理由を作らずとも麒麟の実の様子を見に来られる貂鞠が羨ましい。

「あ…」
女仙の1人が小さな驚きの声をあげた。ぽろり、と捨身木の花が落ちたのだ。純白のその花は人の頭ほどの大きさがあり、その首のところから見事なほど潔く落ちた。いきなりの事に女仙達は顔色をなくし、小さな叫び声をあげた。
「もう旅立つか…」
女仙達の一番後ろから声が聞こえた。その瞬間女仙達に緊張の波が走り、振り向いて平伏する。そこに立っていたのは再び戻って来た玄君玉葉だった。
「皆もしっかりと見送るがよい。旅立つ花を」

ぽろり、と落ちた花はどういったタイミングでかちょうど吹いて来た風に乗って捨身木から少し外れたところにある小さな小川の上に落ちた。しばらく流れに逆らって女仙達のざわめきを眺めているかの様にそこに留まっていたが、玉葉の言葉の少し後にゆっくりと流れに従ってぷかぷかと流され始めた。女仙達はその姿が見えなくなるまでその不思議な花を見送った。



巧の国は荒れ果てていた。王が存命の間から辺境の地域では妖魔が姿を見せ始め、いまでは人里近くまで頻繁に出没する様になっている。大人達は妖魔の来襲に備えて警備を敷く様になり、子供達は決して妖魔が襲ってこない里木の近くに身を寄せる様に過ごす日々だ。安心して畑仕事もままならず、更に数年間続いている天候の不順も追い討ちをかけてここ数年満足に作物が実ったためしがない。

竜潭(りゅうたん)は仲間達とともに里木のそばで、いつ来襲するともしれない妖魔の影はないか、と空を見上げていた。本来なら父や母を手伝って畑に出ている時間だ。だがここ数カ月、頻繁に来襲する妖魔に備えて子供達が交代で見張り役を務めていた。妖魔の姿が見えたら鐘を打鳴らし、警備にあたる大人達に知らせる役目だ。

「里木に帯を結ぶ人が少なくなったね」
誰かが寂しそうにそう言った。里木は人や家畜の生まれる木。子を願う親は丹精こめて刺繍をした帯をその枝に巻いて子供が実るのを待つのだ。しかしこの不安定な状況下、この木には子供を願う帯はたった一つしか結ばれていなかった。帯には銀糸金糸の月下美人の刺繍が施され、そこには小さな純白の実が一つだけぽつん、と実っている。
「おいら、妹が欲しいけどさ。この間母ちゃんに言ったら今はそんな時じゃないって叱られた」
「ああ、これは愉燵(ゆたつ)様のところの帯だ。愉燵様はお金持ちだから平気なのさ」
「なあんだ、愉燵様のところの子じゃあ、俺たちと一緒に遊ばねえな」

竜潭は仲間達のそんなおしゃべりに加わる事もなく、空を見上げては日増しに大きくなっていく真っ白な実を見つめていた。あんな綺麗な実が実るのを見たのは初めてだ。あの実からどんな子供が生まれてくるのだろう?生まれてくるその子が困らないためにも、この五曽の村を守っていかなくては、と気持ちを引き締める。

「来たぞ!」
叫び声が聞こえた。見ると隣の家の殉角(じゅんかく)が天を指さしわあわあとわめいている。鐘を持っている者がこれでもか、と言うほどの力でそれを打鳴らした。竜潭もその指先の方向を見た。蒼い天空に小さな点が2つ認められる。

その妖魔は恐ろしいほどのスピードで自分達の方に近寄って来た。遥か彼方の点でしかなかったそれは、一瞬の後にはその恐ろしい姿が肉眼でも認められるほどになった。竜だ!と誰かが叫んだ。巨大な爬虫類を思わせる姿は確かに竜そっくりだ。だが背中から生える黒々とした翼、6本の足、邪悪なその姿は神聖な生き物とはかけ離れた印象がある。

「肥蝟(ひい)だ!」
子供達の背後からたじろぐような大人の声が聞こえた。子供達の鐘の音を聞き付けて、手に手に武器を携えた大人が駆けつけたのだ。
「いいか、お前らは何があっても里木の下から出てはいかんぞ!」
子供達を突き飛ばす様に里木の下に入れて大人達は身構えた。里木の下にいれば妖魔は襲ってこない。ここだけは安全だ。

瞬く間に2頭の肥蝟は地上に降り立った。腹を空かせているのだろう。人間の姿を認めると耳元まで裂けている口を開いて、赤黒い舌で舌舐めずりする。
「首の根元を狙え!鱗の隙間だ!」
野太い声がする。この声は元禁軍の将軍で先の巧王の不興を買い命からがら戻って来た、据瞬(きょしゅん)という男だ。大司馬に任じられてもおかしくないと噂されるほどの豪傑だと大人達が言うのを、竜潭も聞いた事がある。道を見失った王を諌めての発言が逆鱗に触れ、誅されるのを大司馬に匿われ逃げ出したのだという。その後の王の事は据瞬は知らない。だが間もなく塙麟が亡くなり、自棄になった王は大司馬の首を切り、その直後に自分も息絶えたのだ、と風の噂で伝え聞いた。

子供の竜潭には据瞬の心の内は測りかねたが、この村に戻って来て以来、何かに取りつかれたかの様にこの村の警備をかって出ている。

竜潭は子供心に「怖い」というよりこの据瞬と言う男が何をするのかわくわくするような気持ちで見つめていた。他の大人達は武装しているとは言え、鍬や鋤を手にした農民である。巨大な2頭の妖魔を前にして腰が引けている者も少なくない。だが…。

据瞬は妖魔の前に仁王立ちになっていた。がっしりした体躯ではあるが、決して巨漢と言う訳ではない。周りの大人より頭一つ分だけ背が高く、竜潭の腰回りほどの腕を持っているだけだ。彼は静かに妖魔の一頭と対峙していた。将軍と名乗るからには厳つい強面を想像するが、据瞬は涼やかな蒼い瞳をし、鼻筋の綺麗に通った青年だった。竜潭は初めて据瞬を見た時、彼と似た色の蒼い瞳を持つ自分まで強くなったような気がして、なんだか誇らしかったのを覚えている。

ぎゅ、っと据瞬の手が剣の柄を強く握った。その時、目の前の妖魔は勢いよく口を開きその鋭い牙を剥いて据瞬めがけて襲いかかった。