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「驚きましたな。まさか大司馬が謀反など」
笑みを殺したような顔で春風が竜潭に話しかけた。
「悲しい事だが」
竜潭は落胆したような瞳を春風に向けた。
「付き合いは古いのか?春風と栄鶴は」
「滅相もございません!」
強く否定する辺りからは、自分に火の粉がかからない様に必死の状態が伺える。
「いつのことでございましたか。確か淳州の州侯が彼を大司馬として推薦なさって、それから仕事上の付き合いが合っただけだと記憶致しております。」

「なるほど」
竜潭はここで一呼吸置き、ふと思い立ったように春風の方に向き直った。
「ところで、春風はなぜ春風と言う字(あざな)なのだ?」
「はい先々代の巧王蕪帖様より賜りましてございます」
「ほう、して、何故春風と?」
「はい。今でこそ秋官ではありますが、当時私は春官でありました故。それ以来その字を名乗っております。」
竜潭は深く納得をした面持ちで頷くと、何気なく聞いた。
「そうか、春風は親にもらった名ではないのか。本当の名は何と?」
「香梶でございます」

「香梶、とな?」
竜潭の瞳が鋭く光った。その一瞬の光を見て春風は身体を固くした。竜潭は春風の頬が瞬時に紅潮するのを見た。
「はい…」
少し上ずったような肯定の返事が春風の口をつく。

「私は悲しい…。香梶は私を裏切り、私を葬ろうとしている。気をつけよ。」
竜潭は抑揚のない声で朗読する。既にこの文はそらんじている。
「それは…」
「これは先先代の蕪帖殿が残した走り書きだ。王の私物から見つかった。この香梶とは春風の事であったか?」
くくっ、という喉の鳴る音が聞こえた。
「主上、どうかお信じ下さい。その香梶は私とは全く無関係の…」
「無関係の…?」
竜潭の強い瞳で見つめられて、春風はがっくりとうなだれた。
「主上、お暇をいただけませんでしょうか…」
微かに春風の唇から吐息のような言葉が漏れた。



「本当にその香梶は春風とは無関係だったのです、主上…」
苦しげな表情を浮かべて、据瞬が竜潭の顔を見つめた。竜潭ほか集っている皆が据瞬の顔を見る。
「香梶は何名か存在します。その理由は良くわかりません。しかしその走り書きの香梶は恐らく私の事かと…」
小声ではあるが、何かを決意したかのようなしっかりした口調で据瞬は言葉を紡いだ。その横顔を蓮月が心配そうに見つめる。
「それは一体どう言う事です、据瞬」
竜潭は少し驚いた様に目を見開いて据瞬の目を覗き込む。
「若気の至りでございました」
据瞬は思わず天を降り仰いだ。できれば蓮月に聞かれたくない。しかしいつかは蓮月に知られてしまうだろう。ここにいる人々を疑う訳ではないが、一度口にした言葉は自分を離れて一人歩きするものだ、と経験的に知っている。それならば回り回って尾ひれがつくよりは、今ここで自分の口から白状したい。

「先日話しました通り、香梶が裏切ったと言うのは主上の寵姫に惑わされてしまったと言う…」
「ああ…」
据瞬が皆まで言わないうちに、竜潭が相槌をうった。そこで据瞬の言葉が遮られる。しかし、据瞬は構わず続けた。
「先ほど大司徒にはお話しましたが…、私は更に先代の巧王に謀反を起こした札付きでございました。だから蕪帖様の代になり、私を疎んじられた蕪帖様は私を淳州の州師の一兵士として遣わされました。先王の代に春官から夏官になり既に武勲を上げていた私はその腕を買われたのでございましょう。しばらくして翠篁宮に呼び戻されました。やり直したい、と希望に燃えていたのでございます。だから帰ってみて女の色香に惑う蕪帖様が口惜しく、お諌め申したのでございます。しかし、寵姫涼嬬(りょうじゅ)の色香に惑ってしまったのは私も同じでございました…」
据瞬は無念そうに再び天を仰いだ。

蓮月は耳を塞ぎたいとこの時も思ったが、かろうじて耐える事ができた。先ほどから自分の表情を確かめる様に据瞬がちらちらと伺っているのに気がついたからだ。本当に心配そうな悲しそうな表情で…。蓮月は叙笙の言葉が思い出された。架基が叙笙の聞いている前で『据瞬が帰って来る』と苦々しげに言っていたという…。
「しかし、据瞬。この前の話では香梶はこのとき蕪帖殿に誅されてしまったと…」
「…そう。それまでの香梶はあそこで死んだのでございます」


据瞬は桃李殿の一角にある涼嬬の私室で、涼嬬と二人で酒を楽しんでいるところであった。ふいにあたりが騒がしくなった。最初は怒声や罵声が。続いて真直ぐに自分の方に走って来る大きな足音が。あの重量感のある足音は女のものではない。据瞬はほろ酔い気分も手伝っていつも以上に剛胆になっている自分を自覚していた。そしてにわかに立ち上がり、腰に下げている剣を引き抜き、華美な扉の方に向かって構えた。

すぐに数名の男たちがこの部屋に踏み込んだ。

あ、という声が据瞬の口から漏れた。今踏み込んで自分に向けて刃を向けているのは己の部下。さらにわらわらと数名の兵士が部屋に踏み込んだ。
「一体何の騒ぎだ?俺の命令なくして何故お前らがここにいる?」
「理由が必要か?愁香梶」
兵士達の後ろから、半ば怒りに震えたような声が聞こえた。聞き覚えのあるこの声…。

「主上!」
据瞬の脇で縮こまっていた涼嬬が小さく叫ぶと、見事な着物を翻して扉に駆け寄った。

その瞬間、据瞬は見た。涼嬬の首筋に鈍いきらめきが走り、その一瞬後にそのか細い首筋から勢いよく真っ赤な液体が吹き出すのを。ひっ、という叫び声とともに涼嬬はばったり倒れた。彼女を切ったのは自分の部下。禁軍の兵士だ。自分の命令もないままそんな行動に出ると言う事は、既に彼らの指揮系統は自分の手にはなく、自分は主上である蕪帖に囚われたも同然だった。

「香梶…」
無機質な声が再び聞こえた。
「私は悲しい…。そなただけはと信を置いていたものを…」
「主上…」
兵の後ろから蕪帖がゆっくりと姿を現した。土気色の顔に目だけが異常に光って見える。足下に倒れている涼嬬には目もくれず、異様な光を帯びた目は据瞬を見据えている。据瞬は思わず跪き平伏した。

蕪帖はその据瞬の目の前にゆっくりと歩み寄った。据瞬には見事な細工の靴が目の前に見える。小さな金属音が聞こえる。恐らく剣を抜いたのだろう。

不思議と恐くなかった。丁度先の王に反乱を企て失敗したあの時の様だ。

ぐさ、という鈍い音が耳元で聞こえた。一瞬目を閉じたが身体のどこにも痛みは感じなかった。
「まあ、よい」
そんな声に半ば驚きながら、据瞬は目を見開いた。動こうと思ったが身体が動かない。肩の辺りが床に張り付いて身動きできないのだ。

横目で見遣ると王の剣が自分の肩の着物に突き刺さり、床に固定しているのだった。そして蕪帖はすぐにその剣を床から引き抜いた。
「香梶、いや、お前の名は据瞬だったな。今からお前は生まれ変わるのだ。私もそうしよう。お前は私をさんざん諌めたが、どうだ、私の気持ちも少しはわかっただろう。私も今のお前を見て己の姿を見せてもらった思いだ」
「蕪帖様…」
据瞬は目の前が霞んだ。溢れ出たものがどんなに熱いものであったか、いまだに覚えている。初めて人前で声を上げて泣いた。理由はいまだにわからない。


「これが事の顛末でございます」
据瞬は唇を噛み締めた。竜潭はいたわる様に据瞬を見遣る。この話をする事が据瞬にとってどれほど辛い事だろうと思うと、心が痛んだ。
「据瞬、ありがとう。良く話してくれた」
竜潭は囁く様にそう言った。

「それで何となく腑に落ちました」
蓮月は冷たい機械的な口調でそう呟いた。できれば聞きたくなかったと言う気持ちもあるが、話ばかりでそんな据瞬を未だかつて一度も見た事がない。彼はいつも品行方正で誠実であり、とても優しい男であった。どんな過去を聞かされようとも、据瞬が今の据瞬である事は変わらない…。

皆は今度はいっせいに蓮月の方を向き直った。
「一体何が腑に落ちたんだ?」
不思議そうに竜潭が聞く。
「はい。叙笙から聞いた話から、一体何が起きていたのか何となくわかりました」
蓮月は気になっていたのだ。架基の話を聞いた時、据瞬には弱いものがあると。それは女。涼嬬は彼らが据瞬と蕪帖を陥れる為に使った女なのではないだろうか?

「涼嬬と言う方はその後どうなされました?」
え、と目を丸くした据瞬は、信じられない、と言う表情で蓮月を見た。
「さっきも言った通り、涼嬬は首を斬られてそのまま…」
「本当に亡くなったのでしょうか?葬儀を見ましたか?」
「いや…」
据瞬は目を閉じた。
「そう言えば、少しおかしい事があったな…」

涼嬬はピクリとも動かなかった。首筋から血が吹き出していた。だが、彼女の血で赤く染まったはずの絨毯はいまだにシミ一つない状態でこの桃李殿にある。

「いえ何でもありません。少し不思議に思っただけでございます」
蓮月は思慮深げに口を閉じた。魁威の突き刺さるような視線が気になったからだ。この男については何も知らない。どこまで手の内を見せるかは自らおいおいはかっていくしかない。

涼嬬はこの時死んでいなかったのではないか?そしてまだ何かを虎視眈々と狙っているのではないか?蓮月は背もたれにそっと凭れかかった。酷く背中が疲労している様に思った。