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「そうか、あの彩施が…」
思慮深い目を叙笙に向けて、玄君玉葉は静かに呟いた。叙笙は玉葉に事の次第を手短に申し上げて、今後の事を伺おうと思って蓬山を訪れているのだ。
「はい…」
「愚かな事…」
叙笙は玄君の前に跪き、心配そうに玉葉の顔を見つめた。
「彩施はもうすっかり女仙として、ここでの謹みを忘れてしまったのか」
少し怒ったような言い回しに、叙笙は身体を堅くする。

「そなたの仕える虞蓮月は、麒麟の同族。女仙なれば敬意を払いこそすれ、そのように試すような事などするものではない」
「試す…」
口元だけ微かに笑みを浮かべ、玉葉は叙笙に言い放った。
「そんなに都合よく蓮月の前でそのような話をするものではないであろ。蓮月が話を聞いておると知った上で捨身木の花は血に飢えた麒麟と、蓮月に向かって煽ってみただけの事。彩施は知っておるのだろ。目的を果たす為には、いずれ蓮月を相手にしなくてはならないと言う事を」
「そんな…!彩施の目的とは、一体どう言う事でございます!?」
「我々に変わり、この世界を治める事。西王母様に変わり神として君臨しようとしているのであろ」
「そんな大それた事を!」
「手始めに国を一つ手に入れ、そこを足掛かりにしてこの蓬山をも手中に収めようと言うこと。その為に彩施はどうしても手に入れたいものがあるはず」
「それは、一体何でございますか?」
「こんな事もあろうかと、我々が彩施を追放した時に丁度昇山しておった若者に手渡した竜眼石」
「竜眼石…」
「あの石は彩施が欲しがっていたもの。あれを手に入れたものは竜を支配できると言われておる。竜を支配できるものは、天をも相手にする事ができる。その石は今は巧王がお持ちのようだがの。あの石は持ち主を自分で選ぶのでな」

叙笙は昔蓮月から聞かされた事があるのを思い出した。その昔、竜の目が入っていると言うお守りを据瞬が前の巧王から賜った事。そしてそれを今は竜潭が受け継いでいる事。夢を見るかのようなうっとりとした表情で、蓮月はその話を叙笙に語ったのだ。
「叙笙、主上は、竜潭様はきっと竜に選ばれたお方なのね。ならば私はそのお方の大司徒としてきちんと役目を果たさなくては!」

「玉葉様、私の…、いえ、私と蓮月様のなすべき事は…」
「それは既にそなたらに授けておる」
「は…?」
「そなたも気がついておるであろ。そなたや蓮月の両親を巧国に送りこんだは今回の事が懸念されての事。彩施が謀反を試みておると言う事に気がついた天帝が、いずれそれを討伐するものを差し向ける事になると踏んで、そのものの世話をする為にそなたらを巧に向かわせた。そなたらは我らの差し向けた捨身木の花、虞蓮月を守る事。それがそなたらの使命となろう。蓮月は蓮月の思うままに行動させるがよい。後は巧王がなんとかしてくれるであろ」
「あ…」
叙笙は言葉に詰まった。ということは、始めから彩施を討伐する為に、蓮月は天から遣わされたと言うのか…。

「そなたの気持ちはわからぬでもないが、麒麟がその身を呈して王に仕えるのと同じ様に、麒麟と同族である蓮月も数奇な運命を担っておるのだ」
「しかし…」
蓮月様がお可哀想…、と言う言葉を言いそうになり、叙笙は言葉を飲み込んだ。

「巧王には滅多に手に入らぬ天からの花を遣わせた。王は花を守る代わりに花から望むものを与えられる。そして花はその代償として王から溢れんばかりの寵愛を得るであろ。それが捨身木の花の幸せ」
「それが蓮月様の幸せ…」
叙笙は噛み締める様に繰り返した。夢見る様に竜潭の渡りを待ち望む蓮月のいじらしい姿が思い浮かぶ。あの誇り高い大使徒の蓮月からは想像もつかない姿だ。
「さ、そなたは再び巧の国に戻り、花に仕えるがよい。つぼみは今花開かんとしておる」

その言葉を聞き、叙笙は弾ける様に立ち上がった。
「蓮月様の身に何か!?」
「いつの日か彩施は蓮月を煽った事を悔やむであろ。闘える麒麟がいかに恐ろしいか思い知るがよい」
叙笙は深々と一礼をすると、足早に玉葉の前から去って行った。


「蓮、一体これはどういうことなんだ?」
据瞬は狐につままれたような顔で、蓮月の顔を見つめた。
「据瞬様は主上とお約束なさっていたはず、この件が落着し記憶を取り戻されたら州侯では無く大司馬としてこの翠篁宮に戻っていらっしゃると。状況が変わってそれが少しばかり前倒しになったのでございます」
「しかし栄鶴、春風の更迭と言うのは…?」
「私も聞いた時は驚きましたが…」
「そこからは俺が説明しよう」

蓮月と据瞬は翠篁宮の内殿の片隅の椅子に座り、小声で話している最中だ。すぐ脇には禁軍中軍将軍の魁威も腕を組んで聞いていた。今最後に口を開いたのは、後ろからこの会話に割り込む為に足早に3人の座っている椅子に近づいてきた竜潭だ。3人は少し驚いた顔で竜潭の方を一瞬向き直り、急いで立ち上がると自分の座っていた椅子を少し動かした。蓮月と据瞬の間にできた隙間にその据瞬が手近の椅子を一つ運んで置いた。豪華な房のついたその椅子は、据瞬が持ち上げれば軽そうに見えるが、蓮月にはとても持ち上げる事は出来ないだろうと思うような代物だ。鈍い光沢のある木目から、かなりの年代物だとわかる。

竜潭は据瞬の用意したその椅子に腰を下ろした。
「実は彼らを試したのだ」
竜潭は悲しそうに俯いた。
「本来はそんな事をしたくは無かったし、してはならない事だったのかもしれん」
そして竜潭は魁威を見つめた。
「この前蓮月が拉致されるという出来事があったのだが…」
「はい、存じております」
魁威はこの時淳州を取り囲む様に中軍を率いて指揮をとっていたのだ。
「蓮月が拉致される寸前に姿を見たと言う男がいたのだ。そうだな、蓮月」
「はい。池のほとりで何か薬を嗅がされる寸前、ほんの一瞬だけ」
「それは!?」
「大司馬栄鶴様でした」
「なんと!」
明らかにうろたえた様に魁威は身体を仰け反らせた。
「もしかして栄鶴様をお疑いになっているのでは」
すぐさま弁護に入ろうとする魁威を軽く制して、竜潭は話を続けた。
「もちろん疑いたくは無かった。何かの間違いか、何かの偶然であって欲しいと思った。だから栄鶴にこう言ったのだ」

竜潭は威厳に満ちた顔でまっすぐ魁威の顔を見つめた。有無は言わせないと物語っているような顔つきだ。

「栄鶴、そなたはいまだに淳州に出入りをして州師を動かしたりできるのでは無いか?」
「何をおっしゃいます、主上」
「もしそうなら、今回の派兵は淳州にも手伝ってもらい、州師を少し貸してもらおうかとも考えている」
「淳州の州師をお出しになりたいなら、直接州侯据瞬殿に知らせを…」
「まあそうなんだが、見ただろう、彼は記憶を無くし正常な判断ができるかどうか、心配なところがある。直接動かしてもらえればありがたい。それとももうかつての州侯栄鶴にその力は無いか」
「主上」
栄鶴は少し立腹した表情で竜潭を睨み付けた。
「宜しゅうございます。州師左軍に今回の派兵に加わるよう、指令を出しましょう」
「うん。だがそんなにすぐに州侯を通さずに兵を集められるものか?逆に誰の指令でも州師を動かす事ができると言うのは問題では無いか」
「いえ、彼らを動かせるのは私だけでございます。それも左軍一つのみ」
「ほう。左軍だけか?」
「はい」
竜潭はふと思い立った様に言った。
「そう言えば、先日謀反を起こしたのも左軍だったな。うちの大司徒がさらわれた」
しまった、というような表情が栄鶴の顔に浮んだ。
「左軍には州侯以外にも軍を動せるものがいると言う噂が立っている」

栄鶴の顔が硬直した。蝋の様になった顔の真中より少し上の辺りで、黄色い光を帯びているような眼だけが、ややうろたえた様に小刻みに動いている。ゆっくりと栄鶴の唇が動いたが、くぐもったうめき声のようなものが漏れただけで、言葉にはならなかった。

「そして、蓮月の報告では拉致される直前にそなたの姿を見たと申しておる。あの時間池のほとりで目の前で大司徒が拉致されたと言うのに、何故何の報告も無いのだ?」

栄鶴はがっくりとうなだれた。唇は一文字に堅く結ばれた。

「大司馬の罷免を言い渡す。官吏職及び翠篁宮から永遠に追放、仙籍を返上し山を下るがよい」


「逃がしたのですか?」
据瞬は青ざめたまま竜潭に食って掛かった。かつての仲間だ。自分が大司馬に推薦したと言ういきさつもある。余程の衝撃だったのだろう、首を左右に振りながらなんとか自分を保とうとしている様だった。
「何故!?」
「塙麒の指令に潜伏したまま後をつけさせている」
魁威は腕組みをしたまま床の一点を見つめ、呟いた。
「なるほど…。それにしても信じられません…。で、春風様は?」
「ああ、その場に居合わせた春風は、その様子を半分薄笑いを浮かべたような顔で見ていた。まるでこの時を待っていたかの様にね」
竜潭は更に悲しそうな表情になって俯いた。