ー1ー

夜もかなり更けた頃、官吏は困惑の面持ちで内殿に集まっていた。春風と栄鶴の更迭はすでに周知の事になっている。皆口が重く会話を交わす者はほとんど見受けられない。ただ、皆不安げな顔で主上の登場を今か今かと待ちわびていた。

もちろん、その中には据瞬の姿も混ざっている。先ほど蓮月に自分の知られたくない過去を吐露した。それ自体は後悔はない。いつかは話さねばならない事だろうと思っていた。だがその直後に呼び出され、竜潭の姿も蓮月の姿もここにはない。無関係とは思えない事に少しばかりの不安を感じていた。

だが過ぎた事とはいえ、自らの行動の責任は自らで負わねばならないのだ、と改めて考える。蓮月から香梶の話を聞いた竜潭は自分の事をどう思うだろう?肚を括ろう。信を失うのは悲しい事ではあるが致し方ない…。

そのとき、内殿の扉が開き誰の先導もなく足早に竜潭が入ってきた。皆一斉に叩頭するが、それを妨げる様に竜潭が口を開いた。
「今宵はそのような儀礼的な礼は良い。少し急いでいるのでな」
こう切り出すと、竜潭はどっかりと玉座に腰を下ろした。
「このような時間に皆を呼び出したのは他でもない、この度急な事ではあるが少し人事の異動を行う事となった。取急ぎ必要な異動のみここで公表する」
ざわざわと静かなざわめきが漣の様にあちこちに立つ。いつもなら冢宰がこの場を仕切り竜潭が口を挟む事はほとんど無いのだが、竜潭の脇に冢宰の姿は見えなかった。

「まず…」
竜潭は大きく辺りを見渡した。
「夏官長栄鶴は、都合に寄り更迭した」
ざわめきが一段と大きくなる。
「どのような都合かはここで公表するつもりはない。だが彼は自ら退職を願い出たのだ」
竜潭はざわめきを無視して話をすすめる。見回した顔のほとんどが困惑を隠せない。

「後任を誰にするかと言う話題をする前に、一つ話さねばならない事がある。明日、禁軍中軍二師を引き連れ寧州に向かう」
ざわめきが一層大きくなる。
「直接指揮を取るのは俺だ」
静かにそう告げる竜潭の声がかき消されるほどのざわめきが一瞬静かになった。
「意見のあるものは今ここで言ってもらおう」
再びざわめきが聞こえた後、また辺りは静まり返る。
「諸君も承知の様に、寧州は港街が栄えているが、昨年の天候により農村が大変な塩害に見舞われている。それは俺がこの目で確かめた。それを放置しては村のいくつかが壊滅的な被害を受ける。それを救う事ができるのはたくさんの労働力のみだという結論に達した。そこで禁軍を出す事とした。異論のあるものはいるか?」

「恐れながら…」
そう口を挟んだのは禁軍中軍将軍の魁威(かいい)だ。彼はその昔左軍将軍だった据瞬とともに名を馳せた知将である。豪傑な据瞬とは対照的に物静かで思慮深く、一見弱々しくも見えるほどだ。だがその敏捷な身のこなしは優美でしなやかで、かつての度重なる闘いにおいても据瞬に見劣りするどころか際立ってさえいるほどであった。

「この度の大司馬栄鶴殿の更迭と、我々の出兵の関連について、もう少し詳しくお聞かせいただけませんでしょうか。我々の命令系統の見直しも含め、このままでは身動きが取れなくなりましょう」
「そう焦るな」
竜潭は静かに微笑んだ。しかし心の奥底ではしっかりと気を引き締める。これからの一言に今回の全てがかかっているような気がしてならない。果たして自分がこれから述べるような策を、彼は喜んで受け入れるだろうか?
「今回の寧州への出兵は、今も言った様に塩害による汚染された土壌の入れ替えにある。つまり闘いに行くと言う訳ではないのだ。途中有志も募りゆくゆくは民間の者達に引き継ぎ我々は撤収する予定だ」
「その間、大司馬は無しと言う事でございましょうか?中軍を分けられると言う事だが、私は1人しかおりませぬ故」
「いや、逆だな、魁威」
竜潭はすう、と息を大きく吸い込んだ。
「大司馬は代理ではあるが2名たてる事とする。この翠篁宮に残り、禁軍の司令塔になってもらうのは淳州州侯兼任の征据瞬」

え、という息を飲む声が据瞬の口から漏れた。いっせいに皆据瞬の顔を見る。視線の中央にいる据瞬は途方にくれた顔を竜潭に向けていた。自分の事を蓮月から何も聞いていないのだろうか?
「据瞬は記憶をなくしていると言う事であったが、幸い過去禁軍左軍将軍であった記憶はあると聞いている。その経験があれば大司馬として充分にやっていけるであろうと思ったのだ。手を貸してもらえまいか」
据瞬は頼むような竜潭の目を見た。頼む、と言うよりも縋るような目とでも言うのだろうか。滅多な事では弱音を吐く事はなかったが、本当に困った事があると昔からこう言う目で据瞬を見つめた。据瞬はこの目で見つめられると、手を貸さずにいられなくなるのだ。

「それについては異論はございません」
そう魁威は少し安堵した様に竜潭に告げた。
「据瞬殿の事は少しならずとも存じ上げておりますから、安心してお任せいたします」
これを聞き、据瞬の表情は少しばかり緩む。

「そして、我々とともに寧州に同行してもらう大司馬代理は、大司徒兼任の虞蓮月。大司徒として寧州の件に関しては一番詳しく把握していると言う事で、今回の代理とすることとする」

その瞬間に辺りの空気が凍り付いた様に時が止まった。皆一瞬こわばった顔をし、そして信じられない、という表情で竜潭を見た。竜潭はその表情から決してこの策はすんなりと受け入れてもらえる訳ではないと察する。魁威の表情も険しくなった。
「不服そうだな、魁威」
竜潭から魁威に声をかける。
「不服に思わないとでも主上はお考えでございましたか」
ふ、っと竜潭は笑った。
「そうだな、もし君が蓮月がどんな人物であるかよく知らないなら、不服に思うと思ったがね」
「どんな人物でございましょう?未だかつて大司馬を務めた女性がいたとは聞いた事がございません」
口調まで怒った様子の魁威は、自らの溢れださんばかりの怒りを押さえようと深呼吸を繰り返した。
「大体軍に女の入る隙間などございませぬ。それもあんなか細い女に何ができるとおっしゃるのです?」

「そういうな、魁威」
据瞬がなだめるような落ち着いた口調で割って入った。
「確かに蓮月は女ではあるが…、女だと思って侮ると痛い目にあう。なんと言っても大学に一番で入り、一番で卒業したような女だからな。腕力では勝てても俺は決して蓮月には勝てんと思っている。だいたい大司馬など実際刀を振り回して闘う訳ではない。言わば軍師の才能があればよいのだ」
「軍師の才能…」
鼻で笑う様に魁威が繰り返した。
「ならばそのお手並みを見せていただきましょう。足手纏いにならない事をお祈り申し上げる。ところでその御自慢の軍師様は一体どちらに?」

「私をどうお思いになろうと一向に構いませんが…」
ふいに扉が開き、蓮月が内殿に入ってきた。いつもの黒い男物のような官吏服とは全く違ういでたちに、辺りは再びざわめいた。艶やかな刺繍の施された薄紫の長く裾を引く薄衣、見事な細工の簪。今まで化粧っ気のなかった顔は、華やかな紅で彩られている。

その思わず釘付けになるほどの美しい姿のまま、蓮月は魁威の前に仁王立ちになった。
「今はそのような下らない事で争っている時間はありません。作物が壊滅的な被害を免れない今、一刻も早い土の整備と食料の確保が必要です。私は自分が大司馬に向いているかどうかはわかりません。しかし、皆できる限りの事をしようとしているのです。こんなところで何の得にもならない意見をこれ以上交わす必要がありますか?」
魁威はその雄々しくも激しい剣幕に思わず見愡れた。
「女にしておくには惜しいな」
「男になどなりたいとは思いませぬ」
ふ、と今度は魁威が笑みを漏らした。完全に負けたような気がしたからだ。そしていつまでも自分を睨み付けている蓮月に軽く会釈した。それを見て蓮月の表情も少し緩む。

蓮月はふいにくるりと竜潭の方に向き直り、その場で竜潭に叩頭礼をする。竜潭は思った通りの展開に少しばかり安堵すると共にしたリ顔になっていた。一時は割って入ろうかとも思ったが、魁威の表情を見ればわかる。蓮月は中軍将軍を味方に引き入れる事に、とりあえず成功したようだった。
「御苦労であった。で、早速報告を」
「はい。寧州で汚染されていない農地に適した土を大量に手に入れる事は不可能です。先ほど一巡りして参りましたが…」
「して…?」
「はい。しかし寧州の災害にあった土地の側に、大きな水脈がある様に思います。これをうまく掘り当てる事ができれば土を洗浄し、農地に戻す事ができるのではないかと…」
「水脈…?それは異な事をおっしゃる。どうしてそのような事がお分かりになるのか?」
不思議そうに魁威が聞く。
「それは僕から話をしよう」
今まで黙って聞いていた塙麒がゆっくりと立ち上がった。皆自国の聡明そうな瞳を持つ麒麟に敬意を表して小さく会釈する。
「麒麟が血の匂いに敏感な様に、蓮月は水の匂いに敏感なんだ。それは蓮月の出生に関係がある事だと思うのでこれ以上の話はやめておくけれど、悪い事は言わないから、水に関しては蓮月に任せた方がいい」

麒麟がそう言うのだから、と思わず納得してしまうものがある。この国の麒麟は滅多な事では口を出さないけれど、思慮深くゆっくりと語る言葉には、何か抗い難い気迫のようなものが感じられた。長い事王を選ばずに慎重な行動をとっていただけの事はあると、皆密かに思っている。

「やってみましょう、主上」
魁威の力強い眼差しと笑みに、竜潭は大きく頷き蓮月と据瞬に目を向けた。
「突然の事で戸惑っていると思うが、とにかく頼みたい。大司冦についてはしばらく空位とし、冢宰の兼任としたいと思う。今佇叔には一足先に寧州に行ってもらっている。以上」

竜潭は立ち上がった。