捨身木に花が咲く 第3部
                     ー9ー

蓮月は図書館の本の間に見つけた紙切れを、懐に入れて持ち出していた。何故そうしたのかは自分でもわからない。でも、この紙を見つけた時、そのままこの紙切れを残してはいけないのではないかと頭を過った。そう思ったらもうその紙を元の場所に挟んで本を棚に戻すなど、自分にはできそうもなかった。

蓮月は桃李殿に戻り、その紙を取り出して眺めていた。昨日竜潭を招き入れて茶を入れた部屋だ。ここは蓮月の一番心安らぐ部屋であった。蓮月は夕べの様に私服に着替え、化粧を施している。仕事が終わり飾り気のない官吏服を脱いで華やかに着飾る時、自分自身に戻れたような気持ちになる。

自分でも時々わからなくなる。本当の自分とはなんだろう?歯を食いしばって大司徒としての仕事をこなしている時の自分も好きだが、こうして綺麗な服を着て髪を飾り、宮中でさざめいている可愛いお嬢さん方の様に美しく装っている自分も好きなのだ。どちらも自分自身だし、そのどちらがなくても自分ではないと思う。もちろん今のこの姿は誰にでもさらしている訳ではない。こうして桃李殿で自分に仕えてくれているさして多くない人々と、竜潭だけだ。

その夕べの竜潭の様子はなかなか嬉しいものだった。蓮月のいでたちがいつになく華やかだったからだろう。少年のような淡く紅潮した頬をして、自分を見つめていた(ような気がする)。ああいう表情で誰かに見つめられた事は数え切れないほどあるけれど、昔から憧れていた人に見つめられるのはそれとは全然違う。竜潭が訪ねてくると知っていたから官吏服のまま出迎えようかとも思ったけれど、心のどこかでそうではない美しく装った姿で会いたいと思っていたのだ。

髪は下ろした方が似合っている、と言われたあの時から…。

蓮月は少女の様にくすくす、と笑った。そして身体を半分ほど捻り、顔を横に向ける。そこには黒い漆塗りの茶箪笥が置いてあり、ピカピカに磨きあげられた扉に自分の顔が鏡より少し色が押さえられた状態で映し出されている。そこには今までのどの一瞬より嬉しげに微笑んでいる自分の顔があった。

蓮月はもう一度箪笥に映る自分に向けて微笑んでから、机の上の紙切れに目を移した。先ほどの本に挟まっていたあの3枚の紙切れだ。

_______白栲(しろたえ)香る季節の風、汝決して気を許すまじ…神木はこの世の神に仕える事のみならず、神たらんと欲している_____

_______舵を取れ、注意深く…岩に乗り上げぬよう、舵を操るのだ。勝算は我が胸中にあり_________

最後の一枚は、滲んでうまく読めなかった。だが、かすれた文字が並んだ後にはっきり判別できる2文字に目が惹き付けられる。

_______  無念  _________

いったい誰が書いたものだろう?この人にとって何が無念だったのか…。筆跡は全部同じ人のものの様に見えた。紙はどこにでもあるような薄い紙。本の間から発見した時には、その本に書かれていた詩を写している様に思われたが、よくよく読んでみると詩にしては出来が余りよろしくない。今となってはどの本のどのページに挟まっていたかの記憶も定かではないから、確かめる術もないしそのつもりもないけれど…。

蓮月は少し古ぼけて黄色っぽくなっているその紙を手に取り、じっくりと眺めた。裏返してみたり光にすかしてみたけれど、これと言って変わった所はなかった。恐らくただの悪戯書きだろう。しかしそれにしてはその筆跡は見事だった。

「どこかでこの筆跡は見た事があるのだけれど…」
蓮月は独り言を言って首を傾げた。
「いかがなされました?」
その独り言を聞いて、昔から蓮月に仕えている女官の叙笙(じょしょう)が静かに声をかけた。
「この字に見覚えはないかしら?」
蓮月はその小さな薄紙を3枚とも叙笙に差し出した。

叙笙は見た目の年の頃は4、50代と言ったところか。蓮月にとっては母の様に思える年頃だ。先の王宮で王の直接の世話をする女御の仕事をしていた。彼女はその頃の話の多くを語らない。噂では蓬山の女仙であったが、昇山してきた烈王の家臣に見初められ麒麟に付き従うかの様に下山したのだという。その家臣は夏官であったと言うから武人だったのだろう。その後彼女の身に何があったか知らないが、時期が来れば話してくれるだろうと思っている。

叙笙はそれを受け取りしげしげと眺めた。蓮月と同じ様に眺めてみたり透かしてみたり、裏返してみたりしてしばらく首を捻ったり独り言を言ったりしていたが、断念した様にその紙を蓮月に返した。
「私は残念ながら覚えがございませんが…」
叙笙はまだ考え考え意見を言う。彼女の癖だ。この慎重な思考力は蓮月にとっていつもありがたいものなのだ。
「でも、蓮月様。この方は男性、それもそれなりの身分の方だったとお見受けいたします」
「確かにそうね」
蓮月も頷いてみせた。
「見事な筆跡だこと。うらやましい」
蓮月は笑う。蓮月も決してへたくそと言う訳ではないが、大学で書は最も苦手な科目であった。

「でも、蓮月様はこんな力強い筆跡ではない方がよろしゅうございます。これでは男勝りではなく男性そのものになってしまわれますわ」
「せめて筆跡くらいは、なよやかにと?」
少しむくれて蓮月は叙笙をねめつけた。
「ほほほ、そうはっきりは申し上げてはおりませぬ」
叙笙はそう言いながら、少し蓮月から後ずさってみせた。

「しかし、昨日の蓮月様は大変おかわいらしくていらっしゃいましたわ」
蓮月は真っ赤になった。そんな恥じらう姿など日頃の蓮月からは想像がつかない。しかし叙笙はそんな蓮月がかわいくて、そしてちょっぴり心配でずっと世話係を続けているのだ。まるで自分の娘を見るかのような眼差しで、ほっくりと蓮月に微笑んだ。
「今の主上であらせられればよろしゅうございます」
「叙笙もそう思う?」
「はい。据瞬様も大変優秀な将軍様でいらっしゃいましたが…」
そう言った後、叙笙は少し遠くを見るような目をして窓の外を眺めた。
「蓮月様にお付きして、久しぶりにお会いした据瞬様が余りにもお変わりになられていて、私は本当に驚愕いたしました」
ほほ、と笑いながらも叙笙の瞳は愉快そうな色は浮かべていない。実は据瞬が蓮月に求婚したと聞き、それをこっそり打ち明けてくれた蓮月に礼を言ってから、彼女は思いとどまる様に諭したのだった。もちろん蓮月とてそのつもりでいたから、そのときは不思議に思わなかったが、今回の出来事で据瞬の過去が薄々わかり、彼女の心配がどういうものだったかよくわかった気がした。

「今宵もこのお部屋に香を炊いておきましょう。そして同じ香りで薄衣も一枚炊き込めておきましょう。恐らくまた近いうちにおいでになるに違いありませんわ」
いつもなら、そんなもの、と鼻で笑う蓮月であったが、その助言に素直に従った。それを見て叙笙は再び目を細めて微笑んだ。


その日の晩もかなり更けた辺りで、竜潭が供の者も連れずにお忍びの様にひっそりと桃李殿に来た。叙笙は一瞬困惑した顔をしたけれど、蓮月の嬉しそうな顔を見て何か言おうとした言葉を飲み込んだようだった。蓮月にはわかっている。確かに女性の屋敷を訪ねるには少し遅すぎる時間であった。

「済まない。もしかしたら非常識な時間だったのかもしれないが…」
照れたような笑みを微かに口元に浮かべ、本当に済まなそうに竜潭は蓮月に言い訳した。
「少し気になる事があって調べものをしていたら、時間を忘れてしまった…」
顔を見知らなければとても主上だと思わなかっただろう。 叩頭して出迎えた蓮月と女官達は、顔を上げたとたん竜潭がとても地味な服でそこに所在なさげに突っ立っているのを見て、思わず吹き出しそうになった。

「ようこそお越しくださいました」
妖艶とは違う、幼い艶かしさとでもいうのだろうか?そんな竜潭が困ってしまうような表情を、蓮月は浮かべて、静かに竜潭を誘う。
「今すぐお茶の用意をいたします」
「これを…」
慣れない状況に明らかにうろたえながら、竜潭は蓮月に小さな包みを押し付けた。怪訝な顔をしている蓮月に竜潭は言い訳する様につけ加える。
「塙麒が持っていけってうるさく言うもんだから…。茶請けになるかと思って…」

「では、これに合わせたお茶を用意いたしますね」
にっこりと笑った蓮月はその包みを持ってお茶の準備に取りかかった。そしてそれはその言葉通り、見事な一服に繋がった。蓮月の母親がそうであった様に、蓮月も幼い頃からお茶の手ほどきを受けていたのだ。昨日と同じ茶ではない。お茶請けの味や材料からもっとも引き立つお茶の葉を選ぶのだ。

「実は蓮月に相談したい事があったのだ」
竜潭はうっとりと茶を愉しみながら、蓮月の顔を覗き込んだ。
「昨日調度の中から出てきたこの書き付けなんだけれど…」
竜潭は懐から昨日の紙を引っぱりだし、蓮月の目の前に置いた。
「あ!」
蓮月は思わず驚きの声をあげる。その声の意味を測りかねて竜潭は蓮月を見つめた。

蓮月は本の間から見つけた3枚の紙を差し出した。筆記用具は違う様だがその筆跡は酷似している様に見えた。