捨身木に花が咲く 第3部
                     ー6ー

「申し訳ありません、もう少しお話を詰めておけば良かったですね」
蓮月は済まなそうに竜潭に詫びた。二人はスウ虞に乗って再びその村の上空から黄色く染まる畑を見下ろしていた。
「お怪我はございませんでしたか?」
「ああ。大事ない」
竜潭は顔の引っ掻き傷をそうっと掌で撫でた。

興奮した人々が竜潭に詰め寄った。それを見て、遠くに控えていた大僕が剣を抜きかけた。そして、それを察した竜潭が大僕を手で制した。人々は大僕に気がついていなかった為、竜潭が手を振りかざしたと勘違いし、一番前にいた男が竜潭に掴み掛かった。竜潭はそれを寸でのところでかわしたが、そのすぐ後ろの男が前の男を止めようとして伸ばした手に顔が当たった。竜潭は潜伏していた塙麒の指令が出て来そうになるのを押さえ、そちらに気を取られてかわし切れなかったのだ。

全てほんの一瞬の出来事だった。

そこに蓮月が分け入った。そして竜潭の前に立ちふさがった。蓮月の背中に冷や汗が伝う。主上の身に何かあったらと思うと共に、昔から知っているこの善良な人々に咎が及ぶのも避けたいと思う。
「何か不満があるなら、私に言いなさい。この方に文句を言うのは間違っています」
「蓮月様…」
詰め寄っていた男達の意気が急に萎んでいくのがありありとわかった。

竜潭は初めて蓮月に会った時を思い出した。あのときも大変な剣幕であったが、凄みすら感じるこの蓮月をただ、ただ感心して見ていた。皆は口々に言った。今度の大司徒は違う、大切にするべきだと。

「俺は蓮月様を信じる」
1人の男が言い出した。
「だが、あんたを信じた訳じゃないからな」
竜潭に向かって付け足しながら、男達は包囲の円を少し広げた。竜潭はそれにゆっくりと頷く。すうっと人垣は2つに割れた。蓮月は毅然とした足取りでその道をゆっくりと歩き始めた。その後ろを竜潭もついていく。

「約束だよ、蓮月様。あたし達にはもう蓮月様しかいないんだから!」
蓮月はその女の方を向いた。最初に詰め寄った女だ。顔には期待と不安の入り交じった表情が浮んでいる。この女の方をきちんと向き直ってゆっくりと蓮月は頷いた。

「たいしたものだな」
スウ虞の背中で竜潭がうなった。今までの仕事ぶりが今のやり取りから伺える…。民は蓮月を慕っている。一朝一夕にできるような関係ではない。
「なにがです?」
「彼らは貴女を信頼し期待している」
ああ、と納得をしてから
「あの人達が生まれた時の事を、私は知っていますから」
と蓮月は笑う。
「私がおしめを替えた人だっているくらいです。だからこそ彼らを救いたいとも思うのです」
竜潭は再び村の方に視線を落とす。その立ち枯れている黄色い色を目に焼きつけながら、蓮月の心のうちを思い測った。大司徒就任のときの表情の理由がわかった気がした。


辺りの被害は深刻だった。同じ様に塩害に苦しんでいる土地が広がっている。一刻の猶予も残されていない風景が見渡す限り続いていた。この土地を全ていれ替えるのはかなりの作業になりそうだ。
「難民を雇いましょう」
蓮月はふいに竜潭に進言した。
「難民…」
「はい。このところ戴からの難民が船で押し寄せていると言う報告がはいっています。昨年の気候がかなり厳しく、田畑を捨てて暖かい巧を目指して来ているようですね」
「国が傾いているということは?」
「今のところはそう言う話は聞いていません」
「しかし雇うには費用がかかるな」
「淳州にはまだ昨年の値崩れした余剰の作物がございますね。戴は作物が不足していると言う話ですからこれを売れば多少は捻出できましょう。さらに寧州では新たな玉泉が見つかったという話を聞いていますので、それを取り引きすればよろしいかと」
そして、思い出した様に蓮月は付け加えた。
「前の前の国王様は豪奢な趣味をお持ちだったようで、私の屋敷にもかなりの宝飾品がところ狭しとならんでおります。他の宮は体裁を整えておく必要もございましょうが、桃李殿は天帝からの頂き物でないものは売り払ってしまいましょう」


「具体的に今日の話を詰めよう、蓮月」
「はい」
「後で桃李殿に出向こう」
「いいえ、私が参ります」
「いや。ついでに隣接する宮の調度を見て歩こう。売り払うものを算段しなくては。桃李殿の物は一番最後にする」
「いいえ」
蓮月はきっぱりと言った。
「はっきり申し上げて調度品の数が多すぎ邪魔で仕方ありません。一刻も早く持っていっていただきとうございます」
竜潭は笑いながら頷いた。それが蓮月の気配りなのだと薄々わかっている。蓮月が入る前、何度か桃李殿に出向いた事があるが、美しい見事な宝飾品がたくさんあった。あれを本当に欲しくない女などいないと思う。


その日の夕方、竜潭はひとりぶらりと東宮の桃李殿にやって来た。夕映えに辺りはほんのりと赤く染まり、白い外壁の桃李殿を華やかに彩っている。日頃ならばそれを物悲しいと感じたかもしれない。だが竜潭は何となくうきうきとした気持ちでその門戸を叩いた。

桃李殿は東宮の建物の中では比較的小さく、質素なたたずまいだった。かつての王達がここに大事な人を住まわせていたとは思えないほどだ。

入り口には見事なまでの桃の木が植わっている。ちょうどそれは乳白色の実を結んだ所であり、微かに桃色に色付きかけている。もう少しすれば辺りは心地よい甘い香りに包まれるであろうと思うと、またすぐにここに来てみようかなどと思ったりする。先ほど蓮月から漂って来た甘い香りを思い出し、それが更に気持ちを逸らせる。

辺りは雲海からの心地よい風が吹いており、それをよりたくさん取り入れられる様に、簾が上がっている。竜潭が訪れた事に気がついた女官の1人が慌てて竜潭の前に歩みでて、その足下に跪き叩頭した。
「ようこそおいでくださいました。主人の蓮月もお待ち申し上げております」
「うん」
女官は急いで立ち上がり竜潭を招き入れる。

宮に入ってすぐのところは白い敷石の敷かれた土間になっており、この宮の主人である蓮月を始め蓮月についている女官達がここで叩頭して竜潭を迎えた。竜潭は真中で叩頭する蓮月を見て、おや、と思った。先ほどまでと全く雰囲気が違う。そしてそれが着ている服にある事に気がついた。

裾を長く引きずった華やかな薄衣を幾重にも重ねている。その裾や袖にあしらわれた見事な刺繍。一番外側の淡いうす紅色の衣には緋色の大きな牡丹が描かれ、優美な蝶が舞っている。日頃は男物と余り変わらない官吏服ばかり着ているが、これほどの地位にある高級官吏がこのような衣を持っていないはずがなかった。そして緑色の艶やかな髪は、華やかな櫛に縁取られながら上品に肩にたらされている。竜潭は既に失念していたが、蓮月は竜潭に髪は結わずに垂らした方が良いといわれて以来、一度も結い上げた事がないのだ。
「ご足労頂きまして、誠に申し訳ございません」
蓮月は更に深々頭を垂れた。
「顔をあげよ」
不思議な胸騒ぎを覚えながら竜潭が言う。そして次の瞬間、竜潭はその場で動けないほどの衝撃を受けた。

ゆっくりと面を上げた蓮月は、いつにも増して美しかった。薄くではあるが化粧を施し、紅をさした唇はまるで桃の実の様にふっくらとし、その匂い立つような美しさに思わず見愡れてしまった。何故、いつも化粧一つせず地味な服を纏っているのだろう?だがその答えも何となく想像がついた。

少年の様に頬を輝かせているであろう自分に竜潭は気がつき、くすり、と笑った。一瞬だけどこかで計画されているかもしれない反乱も、寧州の塩害も、流れ込んで来る難民も忘れた。
「こちらへ。お茶の用意をしてありますので」
「茶は後でよい」
「ではこちらへ」
蓮月は優美に裾を引きずって向き直ると、竜潭を案内する様に一足早く中に入る。その後ろを竜潭はゆっくりと追いかけた。